Готовый перевод Shuumatsu Nani Shitemasu ka? Mou Ichido dake, Aemasu ka? / sukamoka volume 5: Том 5 (иллюстрации+том на японском)

1

2

3

4

少し、古い話になる。

はるかな過去、この世界には灰色の荒野と、そこに住む〈原始の獣群〉しか存

在していなかった。けれど、はるか彼方から訪れた星神たちが、世界をまるご

と、_分たちの故郷に似せた形に作り替えた。

大地と海を分け、灰色の砂をこねて草木や動物、数多くの生ける者を創り出し

たQそして最後に、星神自身と〈獣群〉を素材として、かの人間種を生み出し

た。

星神の命を受け、その一連の作業を実際に行った存在が、地神と呼ばれる従属

神族だった。それは星々を渡る船の制御機構そのものであり、独立した閉鎖世界

を創造•維持•運営する能力こそがその本全我。

地亂は全部で三柱。ィ31燭公と、紅湖伯と、翠釘侯。

五百年前の戦いで、地神のうち二柱は地上に消えた。

長い間、この空には黒燭公ただ一柱しか留まっていなかった◦ゆえに、浮遊

大陸群という閉鎖世界の維持と運営は、その一柱と大賢者のみの力で行われてい

た。

黒燭公はともかく、大賢者は永遠の存在などではない。不老ではあっても不

滅ではなく、不死に限りなく近くとも不衰ではない。そしてそもそも、神の偉業

の真似事を「人」(彼は時折そう自称する)の身で続けることに、あまりに大き

な無理があった。

その無理を、五百年間続けてきた。

その無理を、これ以上は続けられない。

急ぎ、浮遊島の数を減らし負担を抑えなければ、浮遊大陸群そのものが水泡と

消えかねない。そういうところまで、追いつめられていたのだ。

むろん、ただ浮遊島を墜としてしまえば、多大な死者が出る◦予め、住処を追

われる者たちの受け皿を用意しなければならない。黒燭公と大賢者は、「失わ

れた地上を再び拓く」という無謀な計画を立てた。どれだけの犠牲を払ってで

も、どれだけの命を〈獣〉に奪わせることになっても、それを成し遂げなければ

ならない時が来たのだと覚悟を固めた。

五年前。地上の獄から、紅湖伯が解き放たれた。

希望が、見えてきた。

二柱の地神の力を重ねれば、浮遊大陸群の維持はかなり楽になる◦紅湖伯は力

のほとんどを失っていたが、それでも、百年以上の時間的余裕が生まれる。

その時間を使い、最後の一柱——翠釘侯を見つけ出すのだ。かつて地上で繁栄

を極めていた世界を何千年という長さにわたって維持してきた時と同じ条件が整

う。浮遊大陸群を、半永久的に空の箱庭として留めておくことが叶うだろう。

紅湖伯は当初『こんな終末世界さっさと捨てて、星船直して次に行こう』と主

張していたが、主である星神の「だめ」の一言には抗えなかった。

fT

そして、三年前。

2番浮遊島に、特大の荷物が運び込まれた。

「じぇい——っ!」

赤い髪の幼い少女——の姿をした星神が、走った。

Йんだ。

べしゃり、と砂岩の表面に全身でぶつかった。

そのままずりずりと、両腕両足を大きく広けたまま、ずり落ちた。

振り返る。思い切りぶつけたらしい鼻の頭が、見事に赤い。

「いたい」

そりやそうだ、とネフレンは思つた。

本来であれば星神は世界外からの来訪者、およそこの世界に属する物理法則で

は傷つけられないとかいう話である。しかし、いろんな意味でこの世界に馴染み

切ってしまったこの小さな星神には、たぶん、もはやそういった理屈も通用しな

V

魂を粉々に砕かれたとか、セニオリスに呪われ「死体」であることを強制され

ているとか、その呪いが少しだけ解かれているだとか。いろいろと事情は重なっ

ているそうなのだが、ネフレンの目から見たこの少女は、ただの小さな子供であ

る。つまり、妖精倉庫に大勢いた同族の妹たちと、似たようなものである。元気

でわがままで手間がかかって、可愛らしいけれど^>憎らしい。

軽く払って、顔についた砂を落としてやる。ちよっとだけ瞳れているけれど、

擦り傷などにはなつていない。ざらざらした壁面に思い切りこすりつけたはずで

はあるけれど、その辺りはさすが神さまというところか。

г翠釘皆……我が旧き同胞ょ……」

遠雷のょうに、重く低い声。

がらごろがらごろと車輪の音を響かせ、でかくて黒い頭蓋骨が近づいてくる。

もう少し正確に言うと、でかくて黒い頭蓋骨を載せた荷車が近づいてくる。

「変わり果てているとは言え、再びこの眼に貴様の姿を映せたこと、嬉しく思う

ぞ」

「眼、あるの?」

でっかい頭蓋骨のでっかい眼窩には、もちろん目玉など埋まっていない。

「……そういう気分なのだ、些事は気にするでない」

小声で抗議された。

わし

「儂は、そう素直には喜べんのう」

白いローブに身を包んだ老人が、節くれだった指であごを撫でつつ、ぼやく。

「恨みも拘りも捨て去ったつもりではいるが、儂自身の命を含め、こやつには

色々と奪われ過ぎた。こやつに刺され息絶えた時の記憶、いまだに忘れられんわ

ぃ」

ネフレンはぼんやりとその横顔を見上げる◦いかめしい老人の顔つきに似合わ

ない、苦手な旧友と再会した時のような、ちよっと苦みの混じった表情。

『まあ、それはどうでもいいとして』

ふわり、空中を泳ぐようにして、緋色の空魚が一匹、それに近づいた。

「どうでもいいとは何だ」

『心底どうでもいいとしてょ。そもそも何がどうなつちやつてるのコィツ』

先の少女のょうに体当たりはしないが、鼻先でつんつんと、砂岩の表面を軽く

つつく。

『仮にも地神、仮にも星々の路の導き手たる者が、まるで年季の入った死体みた

いになつちやつてるじやないの。これはアレなの?また、セニォリスとかいう

問答無用剣の仕業なの?』

空魚が、中年女の声で、そうぼやく。

聞き流しながら、ネフレンは改めて、目の前のそれを見る。

灰色の、見上げるほどにでっかい、砂岩の塊。そう見えた。

そうとしか見えなかつた。

砂が固まり岩になるほどに長い時間を、地上で動かずに過ごしていたのだろ

う……と推測はできる。ただし、その原因はわからない。

「-いや、これは、違うな」

喉もない頭蓋骨が、器用に唸る。

「この表面の呪詛は、おそらくモウルネンで刻まれたものだ」

『なにそれ』

「セニオリスが『死をもって物語を終わらせる剣』だとして、モウルネンは『絆

によって物語を始めさせる剣』だ」老人が説明を継ぐ「いろいろと扱いの難しい

剣だったようでな、当時の地上では専用の霊廟でほぼ置物状態だったと聞いてい

たが」

「その剣だ。だいぶ昔に一度切り合ったが、あれは痛かった。しかし、モウルネ

ンの呪詛は、不死者を死者に留めおくというようなものではない。この状況には

無関係よ」

『じゃあ何だってのよ』

頭蓋骨が溜息を吐き、

「原因は、その奥に刻まれたもぅひとつの呪詛であろぅな。およそ繭の内の者に

施せる№詛とは思えん。星の窓より異界の理を呼び込み、世界そのものを塗り換

える欺瞒呪詛。……星神の所業よ」

ぴょこんと赤毛の少女が一度跳ねて、すぐにぶんぶんと首を横に振る。

「大丈夫。誰もあなたのせいだなんて思ってない」

ネフレンがその頭を軽く押さえてやると、ぶんぶんが止まる。

「となると、ニルス•0•フォ^ —リナ^—いや、しかし、あの男は戦争後

期、王都で冒険者たちの苠にかかり、身動きひとつとれなかったはず……」

『ま、犯人当てはあとからでいいじゃない。まずはさつさと呪い解いちゃつて、

このねぼすけを叩き起こしてやんないと』

「む、そぅだな」

がらごろと、荷台が進む。頭蓋骨が、砂岩の目前にまで運ばれる。「もぅ少々

右である」「いや行き過ぎだ少し戻れ」などと細かく注文をつけながら位置を調

整。納得できる場所に到達してから、「では始めるぞ」と、その口を大きく開い

た。

無音の呪言が、周囲にあふれ出す。

呪言のひとつひとつが、密度の高い呪詛へと変じる。それは砂岩——翠釘侯の

死骸を縛る呪詛にへばりつくと、少しずつ、少しずつ削り剝がしてゆく。

死者であることを刻まれていた死体が、ゆっくりと、ただの死体へと変わって

いく。おかしな話だが、もともと不死存在である地神は、一度ただの死体に戻り

さえすれば、すぐに生命を取り戻せるはずだ。

г……む?」

ネフレンの喉から、小さな唸り声が漏れる。

「どうしたの、ねふれん」

「少し……寒気が、した」

そう口にしてから、自分の間違いに気づく。少しどころではない。

か、自分の体は、震えるほどの悪寒に縛られていた。

г……なに、これ」

血の気のひいた自分の手のひらを、緊然と見る。

何かが起きている。いや、違う。何かが起きようとしている。

形のない既視感が、心の中で警鐘を鳴らしている。

焦りが冷や汗となり、少女の額を流れ落ちる◦と、

-モゥー体ノ、〈六番目の獣〉ダト……?

——〈六番目の獣〉の襲撃に関して、予知は絶対。だからあれは、別の何か。

-なんでそんなもんが、この局面で生えてくるんすかあ!?:

不意に、弾けるょぅに、記憶がつながった。

「あ….」 しゅんt

不幸だったのは、その瞬間、ネフレンは息を吐き出し終えたばかりだったとい

ぅことだ。息を吸い直さなければ、声が出せないタィミング◦警告の声、制止の

声、どちらをあげるにも、わずかな時間が必要となった◦しかしその時間が、彼

女には与えられなかった。

t

その日を境に、2番浮遊島は完全に沈黙した。

もともと2番は、外部からの干渉をほとんど拒絶した孤島である。専用の飛空

艇でなければ近づくこともできず、それどころかその姿を遠目に見ることすら易

くはない。だから外部の者たちは、その時その場所で何が起きていたのかを、知

ることができなかつた。

護翼軍の上層部にとってすら、状況は変わらない。

大賢者が姿を消した、その指示を仰ぐことができなくなった——どれだけ地位

のある者がどれだけの閲覧権限を振りかざしたところで、それ以上の情報は手に

入らなかつた。

1.й(髪の少年と、黒衣の誰か

フェォドール•ジェスマンは無力だ。

つまるところその事実が、彼の始まりだ。

義兄が死んだ。

エルビス事変と呼ばれる特大の悲劇、その全ての責を負わされた。熱狂的に憎

悪を叫ぶ群衆に囲まれ、無数の刃と炎にその身を晒して、贖いに命を捧げた◦何

でも知っていて、何でもできて、いつでも自信たっぷりで、いつでも正しい義兄

だった。1我弟であるフェォドールのことも可愛がり、心配しながらも期待し、時

には導いてもくれていた。その彼が全ての尊厳を奪われ消えて行く時に、フエォ

ドールは何もできなかった。両手で顔を覆い、しかし指の隙間からしっかりと、

目前の血と刃と炎と死を見届けることしかできなかった。

娘が死んだ。

つい先日、〈十一番目の獣〉を消滅させるために、その命を費やした。外部か

らのあらゆる衝撃を吸収し、触れたもののことごとくを同質化し取り込む、そん

な悪夢めいた化け物に対して、一人で立ち向かった。親のょぅに慕っていたフエ

ォドールが、目前のそれを「大っ嫌いだ」と言ったから。ただそれだけのことを

理由に、自分もそれを嫌いだと宣言して、あの生まれたての妖精は、拾った鉄パ

ィプを振り上げた。魔力を熾した◦制御のできない巨大な力を、全力で解き放っ

た。フエォドールは何もできなかった。傷ついた足を動かせなかった◦伸ばした

手を届かせられなかった。目前に広がる白い光を、呑み込まれてゆくあの子の後

ろ姿を、ただ眺めていることしかできなかった。

大切な……たぶん好意を持っていた女の子を、失いかけた。

娘が身を光に換えたその時に、フエォドールともぅ一人の娘を守るため、その

身を楣にした◦全てを砕き溶かす破壊の渦の中にあって、自分一人を犠牲にする

ことで、大切な者たちを守り切った。そして心の全てを遣い尽くし、二度と目覚

めない眠りについた。……結果的にその眠りは破られ、多少記憶や性格に影響は

あったものの、彼女は戻ってきてくれた。だからといって、あの時何もできな

かったフエォドールの罪が……自責が消えてなくなるわけでもない。

大切な者たちを。

家族のょぅな、あるいは家族になれたはずの人々を。

目の前で次々と失いながら、フェォドール•ジェスマンは、何もできなかつ

た。傷つきながら戦う者たちのすぐそばで、傷を引き受けることすらできずにい

た。

フェォドール•ジェスマンは無力だ。

そしてフェォドールは、無力を憎悪する。力ある者が戦うのはいい。そのため

に傷つくのもいい。だがそれは、力なき者が戦わない理由にはならない。傷つか

ない理由にもならない。してはいけない。することを許すわけにはいかない。

無邪気な悪意に酔いながら、義兄の死に守られていたエルビスの民たち。何も

知らず、知らされないまま、娘たちの犠牲に守られた38番浮遊島の人々〇護翼軍

の活躍、大勢の妖精兵たちの覚悟の上に守られてきた、この浮遊大陸群にある全

てのもの。無知という名前の言い訳を得て、当然のょうに守られている自分たち

に何の疑問も持たずに、さらなる犠牲を無言で要求する悪鬼たち。

彼らの全てを。そして彼らと何ひとつ変わらない立場にある自分自身を。フェ

ォドール•ジェスマンは、心の底から憎悪した。

無力な者たちに、無力なままでも立つことのできる戦場を。

あるいは、その戦場に立つことのできる道を。

それが、フェォドールの最初の願いであり、最初の目的だった。

fT

護翼軍の兵士たちの間には、肌にねばつくょぅな、奇妙な倦怠感が漂ってい

ひやくせんれんま せいえい

そもそも護翼軍は、世間で思われているょぅな、百戦錬磨の精鋭兵団などでは

ない◦ある意味、その真逆だとすら言える。「外部からの浮遊大陸群の危機」に

対応するべく組織された彼らは、もともと、その力を振るうべき戦場をさほど多

く持たないのだ。〈深く潜む六番目の獣〉の脅威が途絶えた五年前からは、なお

のこと。兵士のほとんどは、戦場というものを、座学と訓練を通してしか知らな

かった。

それでも、それが尋常な戦場——彼らの教本にあるような、目前の敵を駆逐あ

るいは殲滅することを主眼としたものであれば、まだよかったのだ◦しかし今彼

らが置かれている状況は、そうではない。

いまここの兵士たちが聞かされている戦況は、たぶんこんなところだろう。ま

ず、護翼軍の要人たちが次々と殺されている◦どうやらその犯人が次はある医者

を狙っている◦この医者は結構な要人であり、貴翼帝国もその身柄を狙っている

し、ナィグラートという喰人鬼が謎の横槍を入れてもいる。フエオドール•ジエ

スマン元四位武官が関わっていることも、そろそろ知れ渡っているかもしれな

い。ともあれ護翼軍には、こ、っいった連中に医者を渡せない理由がある◦速やか

に医者を確保するか、あるいは妙なことをしやベらないように黙らせるようにと

命令が下っている、と。

要人暗殺と医者の関わりは、とか、その医者が何を知っているのか、とか、帝

国やら他の連中やらは何のために彼を狙っているのか、とか。そういった諸々に

ついて、兵士たちは知らされていないだろう。それらは機密であり、知る者の数

を可能な限り抑えておかなければならない情報だ◦一部の指揮官の間だけで共有

されているはず。

理由もわからず、全容のわからない連中と敵対し、勝利条件もいまいち摑めて

いない状況で、戦闘する◦しかも舞台は街中であり、多少の——あるいはそれ以

上の被害を民間に与えている。仮にも「護る者」というアイデンテイテイを掲げ

る護翼軍の兵士としては、矜持の傷つけられる状況ではあろう。そして実戦経験

の浅い彼らは、もやもやしたその気持ちの、うまい消化の方法を心得ていない。

結果、どうしようもない疲労が心身に噴き出してくるわけだ。

職場の士気は、全ての働く者にとって、極めて重要な問題だ◦気の毒な話だ、

と思わなくもない。けれど、

「——ま、そっちのほうが好都合なんだけどね。正真正銘、狼藉者の僕としては

さ」

書架のファイルに指を伸ばしながら、フエオドールは小さくつぶやいた。

護翼軍司令本部、第三資料室。

広い部屋いっぱいに、所狭しと詰め込まれた無数の書架。そしてその中には、

無数の紙資料が乱雑に詰め込まれている◦比較的細身の堕鬼種であるフエオドー

ルにとってすら、かなり狭苦しい。大柄な種族であれば立ち入ることもできない

だろう◦なんとも機能性に欠けた部屋だが、そのことも今はありがたい。

フエオド^—ルは現在手配中の身であり、ここはその手配をかけた軍の本拠。敵

陣ド真ん中へ単身潜入するとなれば、至難を極める道のりが予想されるし、準備

も警戒もやってやりすぎるということはないだろう......と思っていたのだが。先

の理由で兵士たちは集中力を欠いていたし、本部らしく豪華に飾り立てられた敷

地内には意外なほど身を隠す場所が溢れていた。

もちろんそれでも、並みの賊であれば手が出せない程度の堅牢さではあるの

だ。しかし、フエオドールはもともと、こ、っいう後ろ暗い活動を得意としてい

る。加えて、第五師団のほうで二度も零番機密倉庫に忍び込んだ経験が、彼のこ

みが

そこそつぶりにさらなる磨きをかけていた。

「今後の人生で使い道なさそうなスキルばっかり伸びてくな、僕は……」

セキユリティの話をするならば、見張りや鍵などよりも、この乱雑極まる第三

資料室の在り方自体のほうが厄介だった。この部屋の中に入ったところで、まさ

か全ての書類をまるごと持ち出すことなど出来るはずもない。大砂原のようなこ

の書類の渦の中から、目当ての機密を探し出す必要がある、のだが。

ポケットから飴を取り出し、包み紙を破って、口の中に放り込む。

舌先に広がる甘さとともに、脳に活力が供給される。

「基本書式はsIСР、鍵は......ん一、赤53かな」

護翼軍に所属していた五年間、ただ真面目に職務を果たしていたわけではな

い。バレないように慎重に、ずっと、機密を探り続けてきた。その過程で、軍で

使われている主だった暗号の種類とそれぞれの解法については調査済み◦本来な

らば二位以上の諜報技官にしか開示されていないような暗号鍵についても、あら

かた暗記してある。

暗号解読はいわば、諜報班との頭脳戦だ。そういう戦いなら負ける気がしな

なぐ ナ や'

い。フエオドールは武器を持って殴った蹴ったという野蛮なファィトを得手とし

ていない——不得手だとも言わない——が、こういう騙し合いだの隠し合いだの

といった頭脳戦であれば、胸を張って得意だと言い切れる。

カタログを探し出し、読解◦どこに何が収納されているかの大雑把なところを

摑んで移動する◦革を張った靴底は床を踏んでも音を立てない◦代わりに、紙の

こすれるかすかな音だけが耳元をくすぐる。

足を止める◦書架を見上げる◦目当ての背表紙を探す。

「あっ……た?」

ファィルを開く。目を細め、視線で暗号文を追いかける◦いちいちメモを取る

ような余裕はない。あちこちを飛ばし読みしながら、概略だけを掘もうとする。

思い出す言葉がある。

——もう、この言葉には行き着いているかな。モウルネンの夜、だよ。

妖精たちの調整技術を持つ唯一の男、マゴメダリ•ブロントン医師◦つい先

日、彼は、隠しようもない恐怖とともに、そう口にしていた。そしてどうやら、

彼が命を狙われている通由も、その『モウルネンの夜』とやらを知る者ゆえとい

うことのょうだつた。

マゴメダリを含め、その『夜』を知るというだけの理由で、何人もの重要人物

が次々と殺されている。それだけ優先度の高い機密なのだとフエォドールは判断

した。それこそ、浮遊大陸群全ての島の浮沈がかかるほどの。

「これ、だ」

手元のファィルを読み進める。求めていた情報が、断片的にだが綴られてい

る。

遺跡兵装モゥルネン。古代に人間種が製造した兵器のひとつ。発掘は百年以上

昔。座標は現在基準で言うところの高度零地帯W29INGD——人間種と星神の

軍勢が特に激しくぶつかり合った戦場であった場所、らしい。そして人間種の遺

産にしては珍しいことに、この兵装についてのある程度詳細な資料を比較的近く

で発見できた。だから、それを武器として運用することができた場合、どのょう

なものになるのかについての見討はつけられるという。

その特筆能力は、「絆を強く結ぶ」こと。使用者とその仲間の間に、非常に強

力な共感能力を強制的に発動する。彼らは文字通りに力を合わせて戦うこととな

り、敵も栄光も傷も命も、全て共有することとなる-

г……ょし」

知りたかったことが、それなりに具体的に書いてある。

この資料室に忍び込む際には、ここまで詳細な情報が手に入るとは期待してい

なかったのだ。どんな小さなものでもいい、一歩目を踏み出すための手がかりの

欠片でも見つけられればそれでいい——そのくらいの気持ちで、護翼軍司令本部

への潜入に踏み切った。それを思えば、望外の成果だと言っていい。

「遺跡兵装モゥルネン」

ここに書かれていることが真実ならば、それは極めて強力な武器だ◦けれどそ

れはあくまでも、ただ極めて強力だというだけの、ただの武器だ◦個人用の近接

兵器でありながら戦況を変えるほどの力があるというなら、それは他の遺跡兵装

だって同じこと。つまり、『遺跡兵装モウルネン』は、『モウルネンの夜』その

ものではない。マゴメダリが怯え、自ら死による沈黙を選ぼうとしたほどの脅威

の対象は、他にある。

だが、それならそれで——

「絆を強く結ぶ、剣」

強き者、弱き者の区別なく。

覚悟ある者、覚悟なき者の区別もなく。

ただ関わりのある者全てを、問答無用で戦場へと引きずり出す兵器。

フェオドール•ジェスマンの口元が、昏い笑みに歪む。

弱き者の力も、前線へと運ぶ剣。強き者の戦いの場に、弱き者も共に在らせる

剣。強き者と同じように、弱き者も共に傷つき、命を懸けることができるように

なる◦痛みを、死の危険を、苦しみや悲しみを、強い者に押し付けないで済むよ

うになる。

「最高じゃないか」

この剣を、そうだ、いつぞやのティアットに押し付けてやりたい。

家族を守るために命を捨てるのだと言っていた彼女は、しかしこのモウルネン

を手にしている限り、決して望みを叶えられない◦その大切な家族と力を合わせ

て、全員で生き残る道を探すしかなくなる。それは、とても爽快な話に思えた。

「よし」

暗号の解読には、それなりの集中力と時間を使う。かといって、敵地であるこ

こで、いつまでものんびりしているわけにもいかない。続きは外に出てからでも

充分だろぅと判断し、ファィルを小脇に抱えて、資料室を出た。

一枚のメモが、ファィルの隙間からこぼれ落ちた。

フエオドールは気づかない。

資料室の床に音もなく、人知れず横たわったそのメモには、暗号化されていな

い走り書きで、こぅ書かれている。

『死なせてくれ』

fT

人の気配を避け、無人の廊下を選んで駆ける。

痛み止めが切れてきた。左の腿とこめかみの奥とが、それぞれ別の理由で痛み

出す。

(リンゴ......)

腿の痛みが、さらに別の、心の痛みを思い出させる。今はそんな時ではないの

だと、首を振って状況に集中する。

予兆もなく突然に、すぐそばの扉の、ノブが回る。

防音を意識したのだろう、この辺りの分厚い扉は音を通さない◦音が通らない

以上、閉じた扉の向こうの気配も、お互いに感じ取れない。

廊下の先までの距離を目で測る。扉が開くよりも早く駆け抜けることができる

かを計算する◦リスクが高いという結論を出す◦舌打ちを堪え、手近な調度の陰

に飛び込む。

「——れで、間違いないのだな」

扉が開き、話し声が聞こえ始める。

フエオドールは痛みを堪え、息をひそめる。そして念じる。誰かは知らないけ

れど、早いところどこかに行つちまえ。

「そうでなくとも狼藉者の多いこの時に、至天の連中の心配までせねばならんと

はな。胃の痛む話ではないか」

г薬が要るなら、よく効くものを教えるが?」

「辞退しよう、貴殿らの種族の薬は、我等の舌には苦すぎる」

バレないように顔だけを調度の陰から出して、部屋から出てきた人物たちの顔

を確認する——そして、筋骨隆々の背中といかつい黒山羊の後ろ頭とを確認し、

すぐに首を引っ込める◦間違いない。護翼軍第一師団総団長、ヵゲラ•ザバタル

アルエット。

大陸群を守る護翼軍に属しながら、「大陸群を害する」と判断された友邦に槍

を向けるのが第一師団の仕事。その頂点こそが、目の前のこの黒い筋肉の塊だ。

見つかつたら、こりやあ確実に殺されるな。

あの筋肉があれば、堕鬼種の一人や二人、指先二本でねじ切れるに違いない。

そんなことを確信し、身をさらに小さく潜ませる。

さつさとあつち行け。そして見えないところに行つてくれ。そぅ念じる。が、

ヵゲラー位武官の声はその場を動こぅとせず、

「結局、モウルネンとは何なのだ」

そんな質問を、会話の相手に投げた。

「遺跡兵装の一振りの名だ◦それは知っている◦資料も確認した。強力な剣では

あるが、精霊どもの倉庫に置かれることもなく、長く封印されているとな。しか

しその封印の理由がわからない。遺跡兵装適合精霊の調整技術と、どう関係す

る。//桃玉の鉤爪//岩将補佐ほどの男に、死を選ばせるほどの脅威なのか」

「——驚いた。君のことだから、武人は命令に理由を求めないと言うとばかり」

「状況に依る◦これ以上に狼藉者が増え、戦況が混沌を孕むならば、いずれ我ら

は大きな判断と選択を迫られることとなるだろう。その時に無知のままでは、誤

りの沼を避けることが敵わん」

「しかし、知れば君自身もまた、命を失うことになるかもしれない」

「正しく任を果たすために費やすならば、惜しむようなものではないな。兵や将

の命の使い道としては正道だ」

「——なるほど、君らしい言い分だ」

会話の相手、憲兵隊の徽章をつけた兎徴種は呆れたょうに嘆息し、

「私も詳しく知つているわけではない。つまり、死ななければならなくなるほど

の知識は得ていない。話せることは限られている。しかし君が既に持ち合わせて

いるだろう知識と合わせれば、リスクは大きく増す。それでも良いというなら話

すが?」

短い沈黙、

「まず、モゥルネンは、極めて危険な存在だ」

兎徴種は語り出す◦フиォドールは唾を飲み込む。

「所詮は剣、つまり近接兵器なのだろう?」

「遺跡兵装というものはどれも、束ねることで別種のものに変成したひとつの

護符だ。剣という枠組みそのものは、さして重要なものではない」

話しながら、二人は歩き出した。念じていた通り、廊下の奥、フエォドールの

隠れているのとは逆の方向へ。

「加えて厄介なのは、それが今、護翼軍の手を離れていることだ。そのモウルネ

ンは護翼軍の厳重な管理下にあったが、つい先日輸送中に略奪を受け、現在は賊

の手にある。飛空艇『バエォスポラ』の一件、君にも報告は行っているだろぅ」

少しずつ、声が遠ざかる。

「無論だ◦近空での事件だ、管轄外とはいえ概略は聞いている。帝国の一味と目

される賊に、護翼軍が輸送中だった危険物資を略奪された、だったか」

「その略奪された物資リストの中に、モウルネンの本体がある」

苦々しげな士尸。

「しかもその際、モウルネンを封じていた鞘は破損している。今のあの剣は、

遺跡兵装として、護符としての機能を十全に取り戻しているはずだ。ゥ桃玉の

鉤爪//岩将補佐が自ら命を絶ったのは、この情報が秘匿経路を通し彼のところに

届いた翌日だったらしい——」

二人の声が、廊下の角の向こうに消えた◦それから十を数えるほどの時間をか

けて、ようやくフヱォドールの体が、呼吸のやり方を思い出す◦深く、息を吸っ

て、如く。

まだ敵地にいることに変わりはないのだ、緊張を解くわけにはいかない。しか

しそれでも、体が弛緩することを止められない。

話の続きを聞きたいとは思った。しかしあの二人の後を追う気にはなれなかっ

た。移動しながらでは、とても隠れ果せられるとは思えない。だから当初の目的

に立ち戻る。まずは、ここから脱出だ。安全な場所に戻り、ラキシュと合流し

て、持ち出してきたファィルの暗号文を読み解く。

立ち上がり——膝に力が入らなかったがなんとか活を入れる——廊下を駆けだ

す。頭の中に、予め用意してきた脱出ルートを思い浮かべる。先ほどの二人を迂

回してここから去るには少々の遠回りを受け入れなければならなそうだ、

どん、

角を曲がろうとしたところで、何か軽くて柔らかいものにぶつかった。体重差

のせいで、フエォドールがそれを突き飛ばす形になった。

まずい、と思つた。

足音は聞こえなかった。気配も感じなかった。この廊下に兵士の姿はないだろ

うと確信していた。なのに今たしかに、自分は何者かとぶつかった。

視線を向けた先には、黒い外套を被った、小柄な何者かの姿。

クスパ—ダク

「......刀剣?」

本名は知らない。だから思わずその偽名を呼び、そして同時に、顔を背けてい

た。

当人の肯定は聞けていないが、この人物はおそらく栗鼠徴種だと、フエォドー

ルは思っている。小柄で、俊敏で、しかし人前に姿を現すことのまずない少数種

族。家族以外の者に姿を見られてはならないといぅ掠を持つとかなんとか。

そして、今ちらりと見えた。/スハーダゥは今、口^フのフ^ドを被つてこそ

いたが、あの死者の仮面をつけていない。正面からその姿を認めれば、必然的

に、その素顔までもが見えてしまぅ。

「フエオド......ル......?」

薬で焼かれた喉から絞り出される、呆然とした声を、聞く。

「……やぁ、奇遇だな。君も潜入してたのか◦うちの姉さんの指示かい?」

目を逸らしたまま、そう声をかける。

「どうして......」

「二人ともが気配を殺したままだったから、気づけなかったってとこか。お互

い、どうにも運がないね」

横向きで苦笑しながら、手を差し伸べる。

姉には既に敵対宣言をした。そしてこの//スパーダ//は彼女の友人——とぁの

嘘吐きは言っていた——だ。つまりいま自分がこいつと馴れ合う理由はない。そ

れはわかっている。わかっているけれど、

(だからって、所かまわず敵対しなきゃいけないってわけでもないょな)

そんなことを自分に言い聞かせながら、黒く短い毛の生えた小さな手を、引き

起こす。

ふと、妙ななつかしさが、心をかすめて消えてゆく。

一......え?)

その感覚の正体を確かめたいといぅ気持ちはあった。が、いまはそんな時では

ない。振り返ってみれば、案の定、そこには幾人かの兵士の姿。いずれの目も、

警戒を露わにして、まっすぐにこちらを見ている。

「まずっ!?:」

手をつないだまま、駆けだした。

「フヱォドール!?:」

「行くょ、捕まったらおしまいな身の上だろ、お互い!」

さきほどまで順調だった侵入計画が、こいつと出会つたせいで、一瞬でこのあ

りさまだ。厄介なことになつたと思う。勘弁してくれよと思う。

けれど、なぜだろう。その手を離す気には、なれなかった。

そもそも自分たちは、体力勝負に向いた種族ではない。その一方で第一師団の

兵士たちといえば、屈強な種族の見本市のょうな有様だ。三日三晩走り続けても

息ひとつ切らさないょうな奴らがごろごろしている。加えて、地の利は完全に向

こうにある◦このまま本部を飛び出したとして、馬鹿正直に二本の足をえつちら

おっちら動かす走り方では、追っ手の全てを振り切ることなどできるはずがな

V

だから、敷地を出る前に、自走車を一台拝借した。

小さく丸みを帯びたボディ。車輪や車軸の華奢さは、どう見ても戦闘用のもの

ではない。市内の移動のためのものなのだろう、整地されていない野外を走った

り、重装備の兵士を山ほど積載したりすることはできそうにない。防弾の類につ

いても最低限しか考慮されていない。

あまり頼もしい一台とは思ぇなかったが、選択の余地はない。

運転席に乗り込むと、足元の簡易ヵバーを引きはがし、動力装置に正確な蹴り

をひとつ。不良軍人たちの間では有名な話だが、ほとんどの軍用車はこの手順を

踏むことで、正規の鍵がなくとも動かせる◦そして、優等生兼不良軍人であった

フエォドールももちろん、この裏技については知悉している◦コッは角度と度胸

だ。

動力装置が大きく震ぇる。自走車が走り出す。

「乗って!」

//スパーダ//は跳躍した。一瞬遅れて、フェォドールの頭上、金属製の屋根が

ゴンと小さな衝突音を伝えてきた。

「行くょ!」

前輪が浮き上がりそぅなほどの急加速。

撃ち出された弾丸のょぅな勢いで、自走車は走り出す。

コリナディルーチェの街並みが、とんでもない速さで後ろに流れていく。

石畳を嚙む四つの車輪が、形容しがたい騒音を立てて耳の奥を叩く。現在絶賛

暴走中、この_走車が設計時点に想定されていた速度を、大きく超えている。

シェィカ^の中にでも入ったかのように、車体ごと激しく上下に摇さぶられる。

めちゃくちゃお尻が痛い、けれど椅子から腰を浮かせば一瞬で運転席から放り出

されそうだ。

視界の端でミラーを確認すれば、後方に、同型の自走車がいくつか見える◦自

走車を追うには自走車を用いるべし◦実に道理だ。その当然の道理に従って、護

翼軍は同じ条件の追跡劇に乗ってきてくれた。悪くない。少なくとも、体力任せ

の追いかけっこなどよりも、遥かにありがたい展開だ。

「フヱオドール!?:」

頭上から聞こえる、警告とも悲鳴ともとれる声。

「揺れるから、振り落とされないようにね!」

いまさらではあるが、そう叫び返しておく。常人に対してであれば無茶な要求

ではあるけれど、魔力使いの彼(彼女?)ならなんとか耐えてくれるだろう、そ

う信じる。

ああ、まったく。この状況、まるで、映像晶石の定番そのものじゃないか。

かつて楽しんで観たそれを思い出す◦お宝を盗んで、古都の街並みの中、自走

車で逃げる小悪党◦追う軍人たち◦薙ぎ倒される露店。悲鳴をあげて逃げ惑う街

の人々。

……いや◦実際のところ、そのものというのは言い過ぎではあった。露店を薙

ぎ倒すのはさすがに良心が咎めたから全力で回避したし、何より、街の人たちの

反応が寂しいものだった。映像晶石のように驚いてくれるのはせいぜい半数◦残

りは、古都の静穏をかき乱すこの暴走車を前にしても、無感動にぼんやりと眺め

てくるだけだった。

「くっ……」

避けない者を櫟かないよぅに走るのは、簡単ではない。危ないところで操縦桿

を回す。民家の壁を派手に擦る。

そんなことを繰り返しているぅちに、すぐに道がわからなくなった。

そもそもコリナディルーチェの道は入り組んでいて、よそ者のё分にとっては

迷路そのものだ。しかし、ここに駐留する第一師団の連中にとっては我が家も同

然。このままでは、確実に先回りをされる——

「——剣、В6、です!」

屋根の上から、クスパーダ//の声。

その意味を理解するよりも先に、一発の銃弾がすぐ近くの石畳をえぐる。案の

定、先回りしてきたらしい軍服姿が、横の路地で狙撃銃を構えているのが見え

た。

「く……」

「此石、G8、です!」

クスパーダ//が何を言つているのかがわからない。といぅか、今は悠長におしや

ベりをしている余裕がないし、なぞなぞを楽しんでいられる状況でもない。だか

ら意味不明の声は適当に聞き流し、操縦桿の操作に集中して——

(Iぁれ、)

天啓のよぅに、ひとつの仮説が脳裏に浮かぶ。これは、もしかして。

一瞬遅れて、体が動いた。急制動。から、すぐそばの小道に無理やり車体を滑

り込ませる。追っ手のぅち二台が、そのままこちらを追跡しょぅとして、互いの

'i く i つ

車体に横から衝突◦横転。爆発などはしなかったが、ともあれそのまま、こちら

の視界からは消えていった。

砦のG8◦つまり、『砦』の駒を、G8、盤上の隘路に配置する指し筋。劣勢

にある将の駒を安全地帯に逃がすための、定番の一手のひとつ。

つまり、クスパーダ//が叫んでいたそれは、盤遊戯で用いられる専門用語だ。

古代の戦争を模したゲーム。かつて、幼かったころのフエォドール自身が得意

としていたものだ。有名な対戦譜を一通り読み込んで、それなりに腕を上げて、

だ4

誰にも負ける気がしないなどと思いあがっていた時期すらあった。

「……もしかして、指せるのか!?:」

何を、とは問わない。必要はない。

「少しだけ!-槍兵、РЗ!」

護りの固いところを強行突破、加速しろ、と◦これまた大した無茶ではある

が、それが彼(彼女?)に見えている突破口だというのなら、乗ってみるのも悪

くはない。どうせ窮地の底にいることに違いはないんだ、少しでも光明の見える

道に向かって突っ走るのもいいだろう。

笑みが浮かぶ。折れよとばかりの強さで、加速弁を押し込む。

2.々エルバ^

フェオドール•ジェスマンは、また一人で街に出ていつた。

『一人きりのほうがやりやすい仕事なんだ。ラキシュさんはゆっくり休んでて

よ、まだ体が本調子ってわけじゃないでしよ?』

明るい笑顔で、そんなことを言つていた。

まったく、下手な嘘が上手なひとだと思う。一人のほうが都合がいいというの

は本当だろうし、本調子ではないラキシュを気遣っているのも事実だろう。けれ

どあの表情、どこからどう見ても元気潑剌の曇りなき笑顔は、だからこそ逆に彼

が何を偽装しようとしているのかをはつきりと教えてくれる。

体力も気力も、とっくに限界を迎えているはずなのだ、彼は。

ここのところずつと、彼はほとんど眠つていない。それどころか、まともに休

んですらいないはずだ。幾度となく、頭痛をこらえるような顔を見せることも

あった。本調子ではないということは、間違いない。

引き留めたほうがよかったのかもしれない、無理にでもベッドに叩き込んで毛

布に縛り付けて、睡眼をとらせたほうがよかったのかもしれない。そうは思うも

のの、

「止めた程度で止まってくれる人とも思えない......のよね」

力で負けるとは思わない。けれど彼のことだから、何をどうしたところで、何

かをどうにかして、脱出してしまう気がするのだ。たぶん、さらに体力と気力を

すり減らすという余計なおまけつきで。

——暖かな、朝の陽射し。

橙色の髪の少女が、四階の窓辺から、ぼんやりと外の街並みを眺めている。

いちおう自分も、護翼軍に追われている身ではある。とはいえ、その扱いは

「遠い38番浮遊島の逃走兵」でしかないはずで、そうでなくてもややこしい状況

にあるこのコリナディルーチェ市では、それほど積極的な手配はされていないだ

ろう◦いまここの護翼軍が追うべき相手は、あまりに多すぎる。だから、さほど

警戒せずに窓辺に立つ。

そして考えるのは、先ほどの命題だ。

出ていくフェオドールに対して、自分は、どうするべきだつたのだろう。どち

らの選択肢が正解だったのだろう◦そんな問いを、少女は自分に投げかける◦自

分はもう、考えて、選ばなければならないのだ。

いつまでも、記憶喪失を言い訳に、状況に流されるだけではいられないのだか

ら0

ーラキシュ•ニクス•セニオリス......」

_分の胸に手のひらをあてて、その体の名を、小さくつぶやいた。

「生まれは33番浮遊島、年は十四。適合している剣はセニォリス。年の近いコロ

ン、ティアット、パニバルと特に仲がよかつた。特技はパンを焼くことで、たく

さん美味しく焼けた時などに、特に満足を感じていた……」

まるで他人の日記を読み上げるように、そう続ける。

「大爆発からフエオドールとマシュマロを護るため、膨大な魔力を急激に熾し

た。魔力は熾火のようなもの。巨大な炎を一瞬で熾そうというなら、それは燃

焼というより爆発とでも言うべきものになる。結果として、ラキシュ•ニクス•

セニオリスの人格は、時間をかけずに一瞬で崩壊を果たした——」

ぐつ、と。心臓の近くを摑む自分の手に、力を込める。

ラキシュ•ニクス•セニォリスは人格崩壊を起こした。かつて先輩妖精兵で

あったクトリ•ノタ•セニォリスが倒れた時と同様に。あるいは、その時以上の

強引さと急激さで。

数日遅れて、奇蹟的に、その体は目を覚ました。しかしそれは、//ラキシュ//

の復活を意味しなかった。つまり、失われた少女が、そのまま素直に戻ってきた

りなどはしなかった。妖精は「死んだ子供の魂が迷い出たもの」であり、魂には

死者の記憶と感情がこびりついている。

「クラキシュ//の人格の失われたパーッを、その魂が覚えていた古い記憶、遠い

昔に死んだ別の子供の記憶と感情とが、補った——」

——ああ、そぅだ。

自分はラキシュではない。その名で呼ばれて良い誰かではない。

少女はいま、そのことを思い出している◦夢の中、々ラキシュ//本人の記憶に

触れて、その優しい思い出を遠く見つめて、思い知っている。

いまこの体の中にいる自分は。//ラキシュ//の記憶のかけらを引き継ぎなが

ら、どうしてもそれを自分のものとして受け入れられない、この人格の名前は、

違うものだ。

ラキシュ•ニクス•セニォリスという少女が、爆発的な魔力を熾し、人格崩壊

を起こした◦妖精は死霊であり、精神や人格が疑似的な肉体を纏っていると言っ

てもいい存在である◦本来妖精というものが迪るべき運命に従うなら、人格を

失った妖精はそのまま消滅するはずだった。

しかし、ラキシュ•ニクス•セニォリスが崩壊したその下から、彼女の前世で

あるェル、ハ•アフェ•ムルスムアウレアの記憶と自我が浮上してきた。そもそも

前世といぅくらいだからそれは、とっくに壊れ終わつた、残骸でしかない。しか

し、ふたつの人格の残骸が、奇蹟的な相性の良さを見せた◦ラキシュの欠けた破

片を、ェルバの破片が埋めた。ェルバの失った破片を、ラキシュの破片が埋め

た。結果、ラキシュとエルバのどちらでもなく、ラキシュとエルバのどちらでも

ある人格がひとつ、出来上がった。

しかし、それでも。少女はいま、自分はゥェルバ//なのだと思っている。

少なくとも、かつてその名とともに死んだ少女が抱えていた悔悟と憤怒の残り

火こそが、自分といぅ人格の本質なのだと気づいている。

生前のエルバ•アフェ•ムルスムアウレアについて、思い出せることがある。

彼女は、おおむね、当時の標準的な黄金妖精だったと言っていいだろう。

辺境の浮遊島の森の中で発生した。護翼軍の捕獲呪術師によって存在を確定さ

せられ、専用の檻で輸送され、妖精倉庫へと搬入された。

妖精倉庫というのは通称であり、第八種研究資材倉庫というのが書類上の正式

名称だった。ついでに実態を言うなら、それはただの家畜小屋だった。

命令が理解できるようにと最低限の大陸群公用語を教えられ、寒さをしのぐこ

とだけを目的とした衣類を与えられ、体調を保つための味のない食餌を与えられ

ていた。灰色の壁に覆われた部屋には遊具のひとつもなく、小さな窓からЩく空

の色の移り変わりくらいしか、娯楽らしい娯楽がなかった。

お前たちは浮遊大陸群のために費やされるのだ、と言われていた。

なるほどそぅなのか、と思っていた。

特に疑問も反感も抱くことはなかった。そんなものをいちいち抱くほど、まと

もに生き物らしい反応はできなかった。それがつまり、当時、黄金妖精と呼ばれ

ていた者たちの、当たり前の姿だった。

だから、

『もっと笑いなょ、せっかくかわいい顔してんだからさ』

同室に押し込められた新参者に初めてそぅ声をかけられたときには、エルバは

ただ、ぼんやりと首を傾げた。

ナサニア、というのがその妖精の名前だった。

年齢はエルバと同じだったが、妖精倉庫に来たのはずっと後、十を過ぎた年齢

になってからだった。

妖精は本来、一種の_然現象、喩えるなら雨上がりの虹のようなものにすぎな

い。誰かがしつかりとそれを観測し、ひとつの個人として相手をしてやらなけれ

ば、そもそもひとつの個人としての存在を始められない。捕獲呪術師はその専門

家であり、高い成功率で妖精の存在を確定し、捕獲することができる。

しかしたまに、ナサニアのようなヶースがあるのだという。つまり、捕獲呪術

師の手によってではなく、何も知らない者たち——だいたいは幼い子供たち——

の瞳に映り続けたことで、存在を始めた妖精もいるのだ。

だから彼女は、護翼軍に来る前に、十年近い時を外の世界で過ごしていた。

だから彼女は、他の黄金妖精の知らないことを、数多く知っていた。

『ひどいねここは。餓える心配がいらないのだけはいいけどさ』

ナサニアが発生し育ったのは、治安の悪い都市だったのだという◦湿気た煙草

の一本のために誰もが隣人を刺す。奪う者と奪われる者が、留まることなく入れ

替わり続ける◦そんな街の片隅で、親を持たない子供たちの集団が、彼女を見つ

けた。赤ん坊がそこらに落ちていることの珍しくない場所だったから、そのまま

仲間に受け入れた。

もちろんその子供たちも、まっとうに暮らしていたわけではない。盗みを始め

とする、いわゆる悪事を糧として、その日その日をかろうじて生き繋いでいた。

つい先日になって、そんな生活に限界が訪れた◦少年少女たち全員が自警団に拿

捕されたついでに、いくつかの偶然が重なって、護翼軍がナサニアの素性に気づ

いた……という経緯らしい。

ぼんやりと、感動なくその話を聞き流していた。最初のうちは。

『たまにはさ、ケーキ的なやつも食べたいょな。砂糖とクリーム、たっぷりのや

っ』

妖精倉庫の外を、妖精として以外の在り方を知らないエルバにとって、彼女の

話は全てが、わけのわからない戯言だった。赤という色を知らない者に対し、ど

れだけリンゴの色を説いても通じはしないのだ。

けれど、ぼんやりと聞き流しているうちに、興味は出てくる◦留まることなく

続くナサニアの昔話に、耳を傾け始める。そのうちわからないことへの疑問が浮

かび、質問となり、会話が始まり、交流へと変わって。

『みんなで金を稼いで、自分たち家族だけの国を創ろうって、言ってたんだ◦そ

りやもちろん、できるわきやないんだけどさ。夢くらいはでっかく持とうって

さ』

金とは何か、家族とは何か、国とは何か、……夢とは何か。なじみのない言葉

の数々◦話せば話すほど、尋ねることが増えた◦尋ねれば尋ねるほど、話すこと

が増えた。

『夢を持ちましょう、ナサニア』

遠い月を窓越しに見上げて、エルバは言った。

『ん一?』

寝ぼけたょうな声が、返ってきた。

『潰えた夢の代わりでもいいから。私たちの家族の国を、いつか創りましょう』

『家族の?』

家族という言葉は本来、血の繋がった集団のことを指すのだという◦けれどナ

サニアの語ったところでは、血ではない別の絆で結ばれた集団をそう呼ぶことも

あるのだと。

『ええ、家族の』

部屋を見渡す。殺風景な——それが殺風景だということもエルバはつい先日ま

で知らなかったが——空間に、いくつもの簡易ベッド◦そしてその上に、すやす

やと寝息を立てる、幼い妖精たち。

同族のこの子たちを、その時のエルバは、大切な妹として見ることができてい

『そりやあれか?ここからみんなで逃げようって話か?』

『いいえ。それも考えてみたけれど、現実的じやないもの。逃げ延びられるとも

思えないし、これから発生してくる新しい子たちまでは連れ出せないし』

『……それに、あたしらがいなくなったら、浮遊大陸群が危ない』

『という話だったわね』

エルバは浮遊大陸群の未来などにさほどの興味を持っていなかった——何せ倉

庫の外の世界をろくに知らないのだから——が、話を先に進めるため、軽い相槌

を打った。

『だから、これは遠い夢の話。私たちはこれからも、浮遊大陸群を守って戦う。

その戦いがいつか終わるかもしれない、その後の話よ』

ナサニアはきよとんとした顔になつた。

『みんなで一緒に畑を耕したり、年下の子たちに本を読んであげたり◦それと、

たまにはみんなでケーキを食べる……だつたかしら?』

限られた知識から語る夢は、偏っているうえに狭い。そればかりは仕方がな

V

『時間がかかると思う◦いつか実現するとしても、きっと、それより先に私やあ

なたが壊れているでしよう。けれど。この子たちは……もしかしたら、この子た

ちの後ろに続いた後輩たちが、そういう未来にたどり着けるかもしれない。そう

いう夢よ』

『ははっ』

ナサニアは笑った。

『エルバさ、ずいぶんロマンチストになつたよな?』

『誰のせいだと思ってるの』

『ん、まあ、そこんとこは責任感じてなくもないけどさ。覚えてる? 初めて

会った時とか、あんたすんごい仏頂面だった』

『忘れて』

『やなこつた』

——二人とも、理解していた。その願いは本当に、儍い夢でしかないのだと。

つ だれ せわ

いつ尽きるともしれない終末の世界、誰もが生きるために忙しなく走り回ってい

るようなこの時代に、どれだけ時間をかけようと、美しい救いにたどり着くこと

など、あるはずがないと。

そう諦めた上で、優しく頷き合った。

遠く輝く夜空の星のような願いに、けなげに手を伸ばして。

夢見るその姿勢のまま、自分たちは死んでいくのだと、信じていた。

fT

「——あんなの、ただの世間知らずの絵空事でしかなかったはずなんだけど……

確か、すごく真面目に聞いてくれた護翼軍関係者がいたのよね」

こめかみに指を当て、記憶を迪る。

ぼんやりと、脳ж;に、ひとつの人物像が描かれる。

「確か、ものすごく大きなひとで……妙に人道的というか、もともと妖精兵の扱

われ方に思うところがあったみたいで……」

それは自分自身の遠い記憶のようであり、同時に他人の記録のようでもあっ

た。情報そのものは頭の中に確かにあるはずなのに、触れることも引き出すこと

も容易ではない◦思い出すというだけの行為に、かなりの集中力を注ぎ込まなけ

ればならない。

それでも、少女は少しずつゆっくりと、かつての自分の思い出を取り戻してい

「けっこう若い感じの、医学研究者、だったかしら◦そう、確か、初めて会った

時に、いきなり謝られたんだっけ。『君たちだけに多くを背負わせてしまってす

まない』つて。それから......」

小鳥が一羽、窓辺に近づいてきた。手を伸ばせば捕まえられそうな近さに降り

立ち、羽を休める。警戒心のかけらも感じられない。

意地悪な気持ちが湧いてきて、「がお」と強めの声で脅かしてみた。小鳥は慌

てて、青い空の向こうへと飛び去っていった。

「•:•:それから、『待っていてほしい、すぐに君たちを生まれ変わらせてみせ

る』だったかな。ああ、そうだ、妖精の成体化調整技術、それまではけっこう不

安定で場当たり的だったものを、あのひとが体系化したんだったっけ。これで妖

精たちもちやんと大人にもなれるとか、そんな話をしていたょうな……」

ひとつひとつ、手繰っていくごとに、少しずつ記憶が蘇ってくる。

曖昧だったそのひとの姿も、少しずつ形を取り戻していく。

そうだ。彼は単眼鬼だった。

眼鏡をかけ、白衣を着ていた。

それから。名前は確か、マゴメダリ•ブロントン。

「................................................あら?」

何か、とても間の抜けた間違いを見つけたような気になった。

とこ力て聞レたようなとレう力ここ数日とてもよく聞レたような名^。

いや、そういうレベルの話ではない。その名前を持つ当人と、ここ数日の間

に、何度となく顔を合わせていたはずだ。

「え? でも、そんなはず、ない......」

エルバの生きていた時代から、既に何十年という時が流れている◦妖精たちが

生まれて滅びて、また生まれて滅びて、そういうことを何度も何度も繰り返して

余りあるだけ、気が遠くなるほどに膨大な時間だ。

いや。そうじゃない。数十年が膨大だというのは、短命な妖精にとっての話に

すぎない。単眼鬼は長命だ。その寿命は、軽く百や二百を超える。数十年程度の

年月の流れでは、彼らを殺すことはもちろん、衰えさせるにもまだ足りないはず

「……本、人?」

少女はぅめいた。

もちろん、その問いに答えをくれるよぅな者は誰もいない。マゴメダリは既に

ここを去つていたし、フエオド^ —ルは独りで外出中だし、気まぐれな小鳥すらも

が既に遠い空の彼方だ。

小鳥が、少女からは見えないどこかで、ちちちと鳴いた。

3 •裏路地

状況が少し落ち着いたからか。それとも、これ以上ないほどややこしくなつた

からか。ナイグラートは、少し奇妙な気分になっている。

街の中、こそこそと裏路地を歩いている。同行者はマゴメダリ•ブロントン、

自分の学術院時代の先輩であり、単眼鬼の医者であり、目の色を変えた護翼軍や

貴翼帝国などに追い回されている最中の重要人物である。

相変わらず大きなその背中を見ていると、学生時代をちよっと思い出す。あの

ころの自分はまだまだ幼かったし、世の中のこともよくわかっていなかった。背

も、今から比べれば、だいぶ小さかった……これについては今も、目前の単眼鬼

に比べれば豆粒のようなものなのだけど。

「ナイちやん? どうかした?」

「もう。ナイちやんはやめてって、何度も言ってるでしよ」

「そうだった」

でっかい禿頭を、でっかい指が搔く。

子供時代を知られている相手に、成人してからも子供扱いされる◦そういう流

れ自体は理解できる。自分だって、すっかり立派になった妖精たち——たとえば

アィセアやラーントルクやノフト——がもう自分の庇護対象ではないことを頭で

は理解していても、心の中ではどうしても、幼い日の彼女たちの姿を重ねて見て

しまうのだ。

けれど、それを受け入れてしまうわけにはいかない。何せ自分は、妖精倉庫の

管理者である、その意地に頼ってここに立っているのだ◦幼かったころのナィグ

ラート•アスタルトスは、とても自信家で独善的で根性無しで弱虫な女の子だっ

た。気持ちがあのころの自分に戻ってしまったら、きっと、足が止まってしま

う。これ以上前に進めなくなってしまうことだろう。

г……ここだ」

小さな広場に出た。

高い建物に四方を囲まれている。見上げれば、四角く切り取られた灰色の空が

見える。胸の奥に、まるで箱に閉じ込められたよぅな息苦しさが湧き上がる。

「誰もいないね」

広場の隅、元気のない立ち木のすぐそばに、でっかい石製のベンチが置かれて

いる。

マコメダリの背中がのしのしとそちらに向かい、腰を下ろす◦ナイグラ^卜も

それに続き、よじ登るよぅにして、隣に腰かける。

「ここで待ち合わせなの? その、情報屋ってひとと」

「ん一、そのはずなんだけどね。時間が早すぎたかな」

コリナデイル^ —チェ市の住人ではないナイグラ^卜はもちろん、この辺りは、

マゴメダリにとってもなじみのある一角ではない。時鐘の音を一度逃せば、正確

な時間などすぐにわからなくなる。

「ちょつと待とうか」

「そうね」

見渡す。自分たちの尻の下のベンチを除き、何もない広場だ◦殺風景にもほど

がある◦しかし同時に、他に誰の姿も気配もないということに安心を覚えたりも

る0

(お弁当でも持ってくればょかったかしら)

頭上、分厚い雲の灰色がゆっくりと流れていくのを、ぼんやりと眺める。

г……クトリ君の話だけど」

びくり、肩が揺れた。

「五年前、あの子は消え……死ぬ前に、妖精以外の何かに変わってた。これに、

間違いはないんだよね?」

「ええ。報告は送ったでしよう?」

「ああ、読んだよ。検閲やら何やらで、全部が手遅れになった後だったけどね

マゴメダリは特大の重い息を吐いて、

「こ、っいう言い方は残酷かもしれないけれど、彼女はあの終わり方をして、よ

かつたのかもしれない」

「......どういう意味?」

「前世の侵食それ自体については、僕らのところにも、それなりの数の前例が集

めてある◦ラキシュ君のように、人格が別物になつて肉体消滅を免れるような

ケースも、多いとは言わないまでも、類似の記録をいくつか見つけることができ

る」

けどね、とマゴメダリは言葉を継ぐ。

「クトリ君のケ^スはィレギユラ-すぎる。瞳のみならず髪の色まで変わるほど

の大きな体質変化が起きた前例は、僕の記憶にはない。それはつまり、彼女は妖

精であるという枷から、これまでにないほど完全に解き放たれていた可能性を意

味する」

だから、それは、どうい、っ意味なのか。

「それは、前に言っていた、適合してない遺跡兵装も使えるようになるって

話?」

「そうだね。かつて遺跡兵装を作り出した人間種たちは、資格さえあれば、様々

な剣を使い分けることもできていたらしい。枷から解き放たれた妖精たちは、同

じことができるようになる。セニオリスほどの剣に見込まれていたクトリ君のこ

とだ、よほどの特殊な剣でなければどれでも簡単に扱えたことだろうね」

-最期にクトリは、ノフトの剣である遺跡兵装デスペラティオを手に、地上

へと墜ちていつたのだという。そして、本来自分に適合していないその剣を振

るって、無数の〈深く潜む六番目の獣〉と戦った。

「そして遠からず、モゥルネンに気づかれていただろう」

「……何に?」

「遺跡兵装モゥルネン」

「そんな名^の韵知らなレ」

ナィグラートは妖精倉庫の管理者であり、現在そこで所蔵している遺跡兵装の

リストくらいは当然すベて頭に入れている◦しかしその中に、いまマゴメダリが

口にした名前のものはない。

「あるはずがないさ。あれは武器でも兵器でもない◦ただの災害だと、僕らは判

断した。大嵐を火薬庫にしまい込むやつはいないだろう?」

けたはず

「析外れに強い、ってこと?」

「そう単純な話じゃない、純粋な攻撃性能ならセニォリスのほうが遥かに上だろ

う尤

う。だが、モウルネンは、セニオリスよりも遥かに多くのものを奪っていく」

わからない、という顔。

わからないままでいいんだ、とマゴメダリの単眼は微笑む。

「人間種そのものが悪だった、なんて話を信じてるわけじゃない。ヴィレム君と

いう個人を知っているし、そもそも善悪に絡んだ一面的なものの見方は好きじゃ

ない。けれどね。モウルネンのことを思い出すと、自信がなくなる。悪意に満ち

た危険な種であったといぅ可能性について、考えずには——」

言葉を、止めた。

振り返った。

г——誰だい?」

「え?」

釣られ、ナィグラートもまた、そちらを見る◦蔦に覆われた煉瓦造りの建物。

廃墟独特の空虚な雰_気、そこに人の気配はない。

ない、のだが。

「失礼。お話し中でしたので、声をかけそびれました」

壁越しに、とぼけたよぅな青年の声が聞こえてきた。ナィグラートは思わずべ

ンチから腰を浮かす。

「あっと、もうひとつ失礼。こちらの顔は見ないようにお願いしたい」

窓に飛び込もうと力を溜めていた足が、ぴたりと止まる。

「商売柄、あまり客に顔を見せたくないもんでね。商談はこのまま、背中越しに

やらせていただきたい。才-—ケ-—?」

ごくり、隣でマゴメダリが唾を飲んだのを感じた。

「ォーヶーだ。……君が、呼び出しに応じてくれた情報屋かい?」

「ィエスであり、ノー。正確には、あんたという顧客の情報を同業者から買っ

て、自分の手持ちのネタを高く売りつけられそうだと考えた情報屋だよ。耳の早

さが命綱ってな業界なもんで、そのへんのフットヮークは軽いんだ」

これは、商談が始まってしまったとい、っことだろ、っか。

そうなると、立場上は部外者である自分は、これ以上口も拳も出せない。

「む^」と不満の声だけをもらし、ナィグラ^卜はスカ^卜の据の乱れを直す

と、ベンチに腰かけ直した。

「で、欲しい情報は?」

「半月近く前、護翼軍の飛空艇『バエォスポラ』が襲撃され、積み荷を強奪され

た事件があった。その積み荷の行方を知りたい」

「オーケー、聞いていた通りだな。関連情報三点セット、まとめてブラダルで八

千」

結構な金額だ。それだけあれば、妖精の子たちの服が何着新調できるか。

Йぉぅ」

マゴメダリは即答した◦取り出したブラダル紙幣の束をぶっとい指先でちまち

まと数えると、革袋に突っ込んで窓に放り込む。

「まずは半分、そして話を聞いてから残り半分……そういうルールだったね、確

か」

「ああ、話の早い客は好きだぜ◦情報その 一◦あの時の『バエォスポラ』は、護

翼軍最重要クラスの機密をいくつか積んでコリナディルーチェ近郊の空を飛んで

いた。そしてそこまでの情報は、俺ら噂屋の商品として出回つていた。まあ、荷

物の詳しい中身までは、さすがに誰も知らなかつたけどな」

マゴメダリは無言で先を促した。

「情報その二。コリナディルーチヱはこの通りの大都市だ◦大都市だから、犯罪

組織ってやつが新旧問わず山のように活動してる。襲撃者は、そういった組織の

中のひとつ、わりと古株なやつだ。ただ、大きなスポンサーがついていた。第一

師団じゃ、背後にいたのは帝国だと見てるようだけどな、そいつは間違い。あい

つらにそんな余裕はねぇよ」

「なら、誰だと?」

「情報ラスト。ビルルバルンホムロン家の先代だ」

聞き慣れない名前。

いや、それ以前に、それが人の名前だと、すぐには頭が理解してくれなか

た。

「ビル、ル......ええと?」

「言いづらいし、いちいち覚えてらんないだろ? この街の古い貴族って連中

は、こんな感じで、長ったらしい名前のやつが多いんだょ」

百年以上前のことだ。貴族たちの間に、何らかの大きな功績をあげるたびに家

名を一文字ずつ増やしてゆくという風習があったのだという。言い換えれば、現

在そういう、いかにも計画性なく文字を足していったという家名を持つ家は、百

年以上前から貴族として栄華を誇っていたということになる。

「時代の流れで、貴族なんて肩書には大した意味がなくなった◦けど、当人たち

のプラィドと、それなりに積み上げてきた財力は健在だ◦厄介だぜ、そういうの

は」

「ぁぁ......」

思うことてもあるの力とこ力嚼みしめるような苦レ顔でマコメダリは領V

た。

「んでもってだ。強奪部隊がその後に二手に分かれたという情報はない。積み荷

はそれほどかさばるものでもなかったようで、一通り、そいつの屋敷に運び込ま

れたはずだ」

なるほど、と。頷いてから、マゴメダリは残りの半金を新しい革袋に詰めて、

再び窓の中へと放り込んだ。

「いい話を聞けたょ、ありがとう」

礼を言い、立ち上がりかけたところで、

г••••:さて。この情報の口止めに、いくら払う?」

妙なことを言い出された。

「え?」

「護翼軍と貴翼帝国の両方が夢中、今をときめくあのマゴメダリ•ブロントン医

師が、襲撃事件と貴族の情報を買った——このネタ、けっこうな高額商品になり

そうなんでね」

はっと息を吞む。

「買いたいっていうやつがいれば、俺はもちろん売る。ただ、その前にいくらか

受け取っていれば、その金額分くらいは口を堅くできるって寸法だ」

「な……なに、それ!」

呆れればいいのか怒ればいいのか、その瞬間のナイダラートにはわからない。

一方で、

「なるほど、商売上手だ」

マゴメダリはなぜか、感心したような声を出している。

「もちろん。……で、いかほど?」

「持ち合わせがあまり残ってないんだけど、月賦ってわけにはいかないかな」

「ああ残念◦この業界、エブリデイ笑顔で現金払いってのが鉄則だ◦この場で払

えないつていうなら、この話はもちろんここまでということに-」

「む」

ナイグラートは立ち上がった。

背後の建物、声の聞こえてきたあたりの前に立った。

「......ナィちゃん? 何する気?」

心配そぅな声を、すぐ傍から聞いた◦構わず、

「ぇい」

まるで、窓にかかつたカーテンを横に開くよぅに。

煉瓦造りの壁を、左手一本で力任せに、横へと引き開いた。

「……は」

г……お」

目地の接着に使われていた漆喰が、ばりばりと派手な音を立てて引きはがされ

る。重量のある煉瓦が押しやられ、吹き飛ばされ、ぶつかり合い、割れ砕けて、

耳障りな破壊音を立てる。男性二人が、間の抜けた戸惑いの声を漏らす。

大穴の向こうに、軽薄そうな鷹翼種の青年が、ぽかんと口を開けていた。

ナィグラートは今、全ての力が横に向かう形で壁を破壊した◦だから青年に傷

はない。普通に拳などで正面から壁が砕かれていたならば、破片が直撃していた

だろう。しかし傷害も脅迫も、ナィダラートの望むところではない。

「な、なななな」

「、っん。お願いがある時には、やっぱり、ちゃんと人の目を見ないとね」

あまりのことに凍り付く鷹翼種の手をとって、軽く握り、

「お願い。私たちのこと、秘密にしておいてね?」

4•白髪の少年と、朱色の妖精兵

少しだけというのは、果たしてどういう謙遜だったのだろう。クスパーダ//の

指す手は、とても正確に、護翼軍の包囲を崩し貫いていった。屋根の上にいるか

ら状況が見渡せている……などという簡単な理由だけではないはずだ。

自走車は走る。市街地を抜け、郊外へ。

周囲の建物が減り、木々が増えて、石畳が途切れて。

人家の見当たらない森の奥、穏やかに流れる川の傍ら。

ぼすん。動力部から派手な黒煙を噴き上げて、自走車がついに力尽きた。

辺りにはもう、兵士の姿はない。

「は、はは……助かった……」

悪路を強引に走り抜けたせいで、尻が痛い。痔になりそうだ。けれど、そんな

ことを考えていられる今この状況を、まずは喜ぶべきなのだろう。

フエォドールは運転席からまろび出た。

水の音と鳥の声。平和な森の光景が広がっている。兵士たちを振り切ってから

も、かなりの距離を稼いだ◦人家を遠く離れた以上、追跡はそう容易ではないは

あとtlio

ず。車輪の跡やら臭いやらを追ってくるかもしれないが、かなりの時間がかかる

だろう。

振り返る◦ここまで無茶に無茶を重ねてきた自走車が、実に無残な姿を晒して

いる。

右の扉は今にも外れそうだ。左の扉は蝶番ごとどこかに吹っ飛んでしまった。

前の車軸は片方が割れていて、後部座席は原形をとどめないほど潰れてしまって

いる◦つい先ほどまで全力疾走していたんだと言われてもにわかには信じられな

いほど、見事にガラクタと化していた。

そして、その屋根の上から——

「フエオ......丨ル......」

ずるり、黒ローブが滑り落ちる◦腕を伸ばし、慌てて抱き留める。

(熱っ卩:)

炎を掴んだのかと思った。驚いて、思わず取り落としそぅになる。

「クスパ1ダク|?:」

「少し......がんばりすぎ、ました......」

深くかぶったフードの下から、いつもょりさらにかすれた声が聞こえる。

「少しって、いや、この熱はР:」

「慣れて、ます......少し休めば、元気に......」

拒むように、手のひらで、胸を押される◦まったく力が入っていない。

魔力の使い過ぎだ。フエォドールの知識がそう告げる。

ここまでの無茶な逃走の最中、//スパーダ//は自走車の天井にしがみついたま

ま、軍の包囲網を観察し、逃走経路を割り出して見せた◦それは、こいつの本来

の身体能力に、多少の水増しをした程度ではとても届かないレベルの荒業だった

のだろう。だから、強く魔力を熾したのだ◦問題なく制御できるレベルを、大き

く超えて。

魔力を使うということは、死者に近づくということ。弱者が少しでもその弱さ

をごまかすために使う、ささやかな抵抗のための技術◦それを使って常人を超え

た力を振るおうとしたならば、当然、その代償が必要になる。

ティアットたち黄金妖精は、例外中の例外に過ぎない。彼女たちを基準に考え

てはならない。そんなことはよく識つていたはずなのに、解つていなかつた。

「大丈夫……心配いらない、です……」

まるでうわごとのように/スハ^ —ダゥは言つてフードを深く力ぶり直す。

手近な木に背もたれる形で、休ませる。

「熱がこもる。口^ブを脱いだほうがいい」

「……だめ、です」

予想されていた答えが、予想通りに返ってきた。

(そりやそうだよな)

おそらくこいつは栗鼠徴種だ◦そして栗鼠徴種には、家族以外に姿を晒しては

いけないという戒律がある。だから、体調が悪いからなどといって、その素性を

隠すローブを®:り去ることなどできるはずがない。

何も不自然なことはない。そして、何も残念に思うこともない。

——本当は、気づいている。

初めて会った時、このクスパーダ//は、仮面を被っていた。

そう、準ディドルナチヵメルソル奉謝祭に使う、死者の仮面だ。

冬と春の狭間。死者と生者の世界の狭間◦顔も名前も失った死者と、顔と名前

を隠した生者が、互いに触れることもなく、ただ近くに寄り添いながら、共に季

節の移り変わりを祝う。それが奉謝祭の内容でぁり、仮面の役割だった。

こいつがそれを被っていたのは。

仮面で顔を、偽名で名前を隠していたのは。

誰か、触れることのできない死者の近くにいるためだったのではないかと。

そして……いまこいつは、その仮面を被っていない。誰にも顔を見られない自

信があったのだ、と考えるのはさすがに難しい。その必要を感じていなかったの

だ、と解釈するほうが自然だ。それはつまり、//スパーダ//が顔を隠す相手はあ

る程度限られていて、そして、このフェォドール•ジェスマンはそのうちの一人

であるという話になって。

つい先ほどしっかりと掘んだ、クスパーダ//の手のことを思い出している。

薄く黒い毛の生えた、栗鼠というよりは猫のような、小さくて温かな、手。

いつだったか。遠い記憶のどこかで、確かに触れたことがあったような、そん

な......

(いや)

首を横に振る。

(そんなはずは、ないんだ。僕は何にも気づいてなんていない)

生者が、触れることのできない死者の近くに在るために、使う仮面◦その仮面

を被ってフエォドールの前に現れた、小柄な誰か。声を変えている。名前を伏せ

ている。顔を隠している。だから、それが誰であるのかをフエオドールが知る手

段は何もない。何もないのだ。

(こいつはクスパーダゥだ、他の誰でもない)

知つているのはあ力らさまな偽名と姉の知己であるということだけ。

(あの子は……もう、死んだんだから)

生者と死者は、二度と、会うことはない。

名を呼び合うことも。微笑みを交わすことも。決して、ない。

-もしも、リッタちやんが生きてたとしたら......もう一度、会いたいと思

ゞ 〇- •

——あの子が大好きでいてくれた優しい許嫁のお兄ちゃんは、もうどこにもい

ないんだ。薄汚れた今の僕が、どの面を下げて、あの子の視界に入れるって言う

んだよ。

いつだったかに交わした、姉との会話を、ぼんやりと思い出す。あの言葉に嘘

はなく、あの言葉を嘘にするつもりもない。フェオドール•ジェスマンは、もう

二度と、マルグリット•メディシスに会うことはない。

そしておそらくは、そう考えているのは、自分一人だけではない。

г苦労……してきたんだろうな……」

だんだん強くなる頭痛をこらえながら、つぶやく。

あめ まう か

ポケットから飴を取り出し、包み紙を破って、口に放り込む。嚙み砕く。

フードの下の素顔がどんなものであれ、//スパーダ//がこれまで凄絶な生を

送ってきただろうという想像は、容易にできた◦弱者がもがくための力として

魔力の扱いを覚え、声を潰す毒を常用してまで正体を隠し、素人離れした俊敏さ

と鋭敏さを身に着けもした。

仮の話として。あくまでも想像の中のこととして。//スパーダゥはまだ、十二

くらいの子供なのかもしれない。五年ほど前までは、魔力にも毒にも縁のない、

普通の子だったのかもしれない。甘えん坊でドジで、泣くのも笑うのもちょっと

だけ下手で、あとやたら盤遊戯に強い、そんな、ごく普通の——

「......ん?」

奇妙な齋和感に突き動かされるようにして、見上げた。

綿を敷き詰めたような曇り空を背景に、何かが飛んでいるのが見える。

「は」

その何かは、二十前後の、女性の姿をしていた。洒落っ気のないラフな服装、

無造作に束ねられた朱色の髪◦そして、その背の後ろに浮かんで見える、光り輝

まぼろしつばさ

こちらを、見ている。

「よう」

その女はにやりと笑うと、幻翼を消した◦三階分ほどの高さはあったはずだ

が、難なく着地し、歩を寄せてくる。

「ここまでは、なかなかいい逃げっぷりだったぜ?んで、もう終わりか?」

煙を吹く自走車の残骸をちらりと見やつて、そんなことを言う。

「……あなたは?黄金妖精、ですか?」

「ま、さすがに見りゃわかるか」

幻翼を生み出して飛翔する。ただそれだけでも、ある程度以上強力な魔力使い

でなければ届かない芸当だ。そしておそらく、目の前のこの女性は、「ある程度

以上強力な」などという生ぬるい領域の住人などではない。

空からも、追われていたのだ。

二本の足で逃げたところで、より強靱な種族の者からは逃げ延びられない。そ

れと同じ理屈。四つの車輪で逃げたところで、より速く走れる自走車と乗り手、

あるいは、高空からこちらの行方を見極めて追う者からは、逃げ延びられない。

「んで? そういうてめ^は、曝のフェオド^ル•ジェスマンか?」

まずレ

フエオドールは、気づかれないように奥歯を嚙みしめた。

この状況は本当にまずい。こちらの素性がばれているというなら、手の内もあ

る程度知られていると考えたほうがいいだろう。中途半端な策は通用しない。

加えて、相手は黄金妖精。圧倒的な力の持ち主であることは確定済みで、対す

るこちらは疲労困憊で今にも倒れそうだというおまけつきだ。

「ティアットから色々聞いたぜ?うちの妹どもが、そろってずいぶんとお世話

になったそうじやね一か。なあ?」

「ええ、まあ......」

最悪中の最悪だ。目の前が真っ暗になりそうな気分を味わった。

ティアットがこの女性に何を吹き込んだかは知らないが、どうせろくなことで

はないだろう。そして困つたことに、実際にろくでもないことをしている自分

は、その認識に対して何も口出しができない。

「逃げてもいいぜ」

数歩離れた距離まで近づいてきて、足を止めた。

からかうように、女性は言う。

「てめ一一人で逃げるなら、追わね一と約束してやる」

「そいつは、ありがたい申し出ですね」

ちらり、背後を確認する◦荒い息の//スパーダ//が、それでも状況の変化に気

づいたか、身をよじつているのが-身をよじることしかできていないのが見え

る。連れて逃げるのは難しい。そしてもちろん、置いて逃げるわけにはいかな

V

頭が痛む◦痛み止めが完全に切れた◦こめかみに穴を開け、ハンドミキサーを

差し込んでかき回されているような気分。

拳を固めて、立ち上がる。

女性が、けけけと笑、っ。

「かっこいいじゃね一か、なあ?」

「少し、離れさせてもらってもいいですか?この子を巻き込みたくない」

「ああ、ぃぃぜ」

軽い反応が返ってくる◦歩き出す。

女性の姿を改めて確認する。素手、に見える◦少なくとも遺跡兵装は持ってい

ない。あの武器はやたら大きくて目立つ、隠し持っているという線もないだろ

う。もちろん、その程度のことでは、気休めにもならないが。

頭痛がひどい。

「名前を聞いても?」

「ノフト」にい、と唇の端を上げて「ノフト•カロ •オラシオン」

「さきほどの話、ティアットたちのお姉さん……ということで、よいのでしょう

か?」

「まぁ、そんなもんだ。詳しい話はしね一ぞ、妖精の事情は知ってんだろ」

黄金妖精は、母親の胎から生まれるわけではない◦清い心の持ち主の目だかな

んだかを介して、自然からひょっこり出てくるものだ。だから血縁というものが

最初からない。本来の意味での姉も妹も持ちえない◦たとえ本人たちが、それに

強く憧れていても。

「38番浮遊島で彼女たちが死地に立たされているという話は、ご存じで?」

「……まぁな」一転して不機嫌そうな顔になり「先日聞いた。久しぶりに気分最

悪だ」

「家族を助けたいとは?」

「さて、どうかな◦あたしの気分はあたしの気分、あいつらの役割はあいつらの

役割だ◦浮遊大陸群の未来のために妖精が戦うってのは、誰が何と言おうと動か

ね一話だ」

フエオド^ —ルの鼻がひくつく。

堕鬼種の鼻が、何かをかぎ取った。噓、と言い切るにはあまりに弱い、かすか

な違和感◦おそらくは、強く言いきっていた言葉のどれかに、彼女の中でまだ納

得ができていないのだろう。

「てか、そういう話でこれまでさんざん色々奪ってきといて、今さらほいほい動

かされちやたまんね^--^だよな」

おそらく、これは真実の声0

「ティアットから聞いているかもしれませんが。僕は彼女たちを、妖精たちをみ

んな、助けたいと思っています」

「……はん。言葉だけなら何とでも言えるよな、堕鬼種」

拒むようなことを言いながら、わずかにノフトの瞳が揺れる。

「んで? 具体的に何をしてくれるってんだ? 遺跡兵装を調整してパヮーアッ

プか?あいつらの体をいじくりまわして魔力中毒治療か?」

「へ?」

なんだそれ。

「本人たちが納得して戦ってるとこに部外者が水を差そうってなぁ、ずいぶんと

自分勝手な話だよな。愚かなわがままってやつだ。そいつを力づくで押し通そ

うってんだから、当然それなりの——」

ちり、

その瞬間、不意に、フエォドールの足から力が抜けた。その時点では理由は自

分でもわからなかったが、ともあれ必然的に足元が滑り、体勢が崩れる。

背後に向かっての一瞬の浮遊感——と同時に、鼻の頭を浅くえぐるょぅに、何

かとんでもない勢いのものが飛び込んできて、去って行った。

(——は)

ほおぼ!? がんか ふ

拳だ、と理解した次の瞬間に、右の頰骨と眼窩の間に何かが触れる。触れた瞬

間に、平衡感覚が死んだ◦視界が左にぶれた。轟音が耳元で弾けた◦首が回っ

た。体がねじれた。それら全てが一通りフエォドールの内側で全て弾けた。

その後になってから、忘れていたかのように激痛がやってくる。

わけがわからない。

視界が真っ赤に染まり、恐怖と混乱のヵクテルが意識を塗りつぶしそうにな

る。かろうじてつなぎ留めた正気の欠片を使って、必死に状況を把握する。

ノフトが、気配も予備動作もなく、とんでもない速度で殴りかかってきた◦ま

ともに喰らえば確実に致命傷、とまでは言わずとも意識は刈り取られていただろ

う。それに対し、まぐれとしか言いようのない動きで直撃は回避できた。しか

し、続けて叩き込まれた时の一撃にまでは対応できず、どころか知覚自体ができ

ずに、無棣に吹き飛ばされた。

(——強い)

混乱を頭の端のほうに押しやって、ただその事実を嚙みしめる。

ティアットたちの姉となればもちろん常識外れの戦力なのだろうとは思ってい

た、しかしその認識ではまったく足りなかったことを今さらながらに嚙みしめて

いた。

黄金妖精という種が持つ強さは、遺跡兵装を扱えることと、強い魔力を熾せる

ことの二つの上にある◦そのはずだ◦しかし今の一撃は、そんなこととは無関係

だった。いまの彼女は素手で、しかも、かけらほどの魔力も熾していなかったの

だから。

「……たっ」

草の上を転がる。一瞬前までフヱォドールの鳩尾があった場所を、重たそうな

ブーッの底が容赦なく踏み抜いた。

姿勢を低くしたまま、身を起こした◦それから、思い出したょうに呼吸を再開

する。咳き込みそうになるほどの血の臭い。鼻血が垂れる。

「へえ」

ノフトが笑ぅ。

「やるじやね-—

その称賛の言葉に、嘘は感じられなかった。おそらく彼女は本気で、今の一

撃……いや二撃で倒れなかったフエオドールに、感心している。

「ただの線の細いおぼっちゃんなら、これで黙らせられると踏んでたんだがな。

いや本当に大したもんだ」

「……そいつは、どぅも」

フエオド^—ルもまた、頭の中で、この女の評価を改める。

遺跡兵装とも、魔力とも、関係ない。今のノフトの攻撃を成立させていたのは

呼吸の盗み方であり、体重移動であり、拳の軌跡と力の伝え方であり、単純な腕

力や体重であり、ィンパクトの瞬間の力のねじ込み方であり、つまり経験と技術

の集大成だ。

つまり。このノフト•カロ •オラシオンという女は、妖精兵であるとかそうい

うことと関係なく、喧嘩に強いのだ。

-つと!?:

悪寒を感じた次の瞬間には、新たな拳が突き出されている。勘にまかせてフエ

オドールは身をひねる◦脇腹に熱を感じる◦相変わらず攻撃が見えない。死角を

うまく盗まれている。しかし逆を言えば、

(攻撃中のこの人は、常に僕の死角の中にいる!)

そうと断じられれば打つ手も見つかる。視覚を無視し、脇腹から熱が離れてい

ないことだけを頼りに肩を回す。鞭のように腕を振るい、ノフトが反応しづらい

はずの角度から一撃を、

ちり、

悪寒。反撃を途中で諦め、体をねじり、全力で身体を投げ出した。

その判断は正解だったと、一瞬後には理解できた◦膝の裏と脇の下が、鋭い痛

みを訴えている◦どういう攻撃を受けたのかはわからない、しかしとにかく直撃

は回避できた。

「おお」

再び、素直な感嘆の声。

「いや、ほんとに大したもんだ。今の、けっこ一本気で打ち込んだんだけどな」

冷や汗を隠しながら不敵に笑い返し、今の攻防で受けたダメージを確認する。

とりあえず骨に異状がないことと、まだ体は動くということまでを確かめる。

「どうも。……感心ついでに、そろそろ退いてくれたりしませんか?」

「はは、そいつは通らね一よ」ノフトは嬉しそうに、「わかつてんだろ? て

め一がティアットたちに見せよぅとしてる夢は、この程度の強さでつかみ取れる

もんじやね^—^だ。本気であたしを納得させる気なら、」

言葉が途切れる。

振り返る。

風が吹いて——木々の梢と、そこに立つ少女の橙色の髪とを、ともに優しく揺

「ほんと、少し目を離すとピンチに陥ってるのよね、あなたって」

呆れたよぅな……いや、真実呆れかえった、少女の声。

「ラキシュか」

ほつり驚レたふ、っ^Рなく ノフトヵその名を№ふ。ラキシュは一瞬きよとんと

して、

гええと……ノフト先輩、だつたかしら?」

いまいち自信のなさそうな声。

「あん? なんだ、覚えてんのか? 何もかもなくしたつつ一から、あたしゃ

てつきり」

「覚えているというか、この頭が知つていたことを少し読んだというか。ちよ

とややこしい感じなのよ、あまり期待しないで」

「あ^........よくわかんね^~けど、大変そ^~だなお前も」

緊張感のないやりとりをよそに、フエオドールは崩れかけた膝に活を入れ直

す〇

「すみません。もう一度、同じことをお願いしたいんですけど」

ラキシュがここに近づきつつあつたことは、はじめからわかつていた。堕鬼種

の瞳の力を通し、フエォドールとラキシュの精神は混濁状態にある。そのせい

か、たとえ離れていても、互いの大まかな状況と居場所くらいはわかる◦ついで

に、近づけば頭痛がひどくなるという情報源もある。

最強クラスの妖精兵であるらしいラキシュと合流できれば、この苦境を切り抜

けることもできるかもしれない。そう信じて、少しだけ時間を稼いだ。……まさ

か本当に少しだけしか時間を稼げないとは思わなかったが、ともあれ、ラキシュ

は間に合ってくれた。

「そろそろ退いてくれませんか? その子は、とても強いですょ」

お、ご

わざと、脅すょうな口調でそう言った◦本音を言えば、もちろんラキシュに

戦ってほしくなどない。どんなに彼女は安定していると医者に保証されても、実

際に幾度か戦闘しても問題がなかったとしても、それで不安が尽きるわけがな

「まあな。ふとんに浮遊島の地図を描いてたころから面倒見てたんだ、こいつが

強いつてことはよく知つてるさ」

浮遊島の地図。何番の島の話なんだろぅ〇やっぱり妖精倉庫があるといぅ68番

なのだろぅか。いや、気にするべきはそこじゃない。雑念よ去れ。

「ただ、まあ……あたし以上に強いかまでは、知らね一なあ」

気配が、変わった。

ノフトが魔力を熾したのだと、フヱオドールは理解した。

「来いよラキシュ。意地があんなら、押し通してみせな」

「-言われずとも.」

爆発にも等しい音をたて、ラキシュが地を蹴る。こちらも、かなりの勢いで

——おそらくはノフトを遥かに凌ぐ強さで魔力を熾しているはずだ。ラキシュに

はその才がある。その才をもって、あの四人の妖精兵の中で最強と言われてい

る。

「つと、とお、お、お」

その拳を、ノフトは掌で受けた。

「良い子ちゃんだったお前が、ずいぶんと熱くなってるじゃね一か◦はは、悪い

男にひっかかるってのは怖えなあ」

「そぅ、かしら^ —」

左右の連撃。からの、上段の蹴り。

そのまま格闘の教本に載せられそぅな、綺麗なコンビネ^ —ション。しかしそれ

わざ

は、逆を言えば、教本から学んだものを発展させるほど、技を使い込んでいない

ということでもある。熟練の使い手にとっては読みやすく、対処のしやすい三連

撃。ノフトは難なく凌ぎ、

「っとぉ……手加減なしだな?」

「できるょうな相手ではないでしょう、あなたは!」

「——まあそりや、お互いにな?」

喉、左の脇下、鳩尾、肺腑の下、股関節◦浅く放った五種の急所狙い——を隠

れ蓑に、ノフトが本命の掌底を放つ。鈎の形の指先が、ラキシュの頰を浅くかす

める。分厚い魔力の防御を貫通し、血の雫がひとつ、宙を舞う。

「だいたいの話はティアットに聞いたぜ。あいつらのことを全部忘れて、大事

だったもんを全部捨てて、そこの悪人面にたぶらかされてるってな」

「それが、何?」

ラキシュの拳が、ノフトの腹を浅くなめる。直撃とはとても言い難い、しかし

圧倒的な魔力を背景に打ち出された拳は、常識では測れないほどに、重い。

「……いや。お前らしくもなく、甘えた話だと思ってな」

笑みが歪んでいる。声が震えている。脂汗がにじんでいる。

効いている。

「甘え?」

「要は、何にもわかんなくなっちまって一人ぼっちだったところに、初めて優し

くしてくれた男に溺れたってわけだろ? 揺りかごの中の居心地がょくて、外に

出るのが怖くて、身動きがとれね一でいる。そこのガキの存在ひとつを縁に、こ

の世界にしがみついてる。違ぅか?」

「……それ、は、」

ラキシュは言葉に詰まる。

ノフトの動きは鈍らない。一転して、ラキシュは守勢に回らされる。

「そのへんどうなんだ、フェオドール•ジェスマン!」

吹えるように、ノフトは尋ねてきた。

「お前は、こいつに何をしてやれる!空っぽの人形になっちまったこいつに、

どうい、っ道を示してやれる^どういう望みを叶えてやれる^」

——頭が痛む。その痛みに、思考の余裕を奪われる。

「そんなの、知りませんよ」

呻くように、答える。

「あん?」

「ラキシュさんに限った話じゃないです。あなたがさっき言ってた『浮遊大陸群

の未来のために妖精だけが戦う』、そいつが気に入らないんですよ僕は。その

ル^—ル自体も、そのル^ —ルを当たり前のことみたいに受け入れてるあなたたち全

員も、そのル^ —ルのことを知りもしないで吞気に守られていた僕たち自身も。気

に入らないし、許せない。だから」

息を継ぐ。

頭が痛くて、自分が自分でいられないような気分で、何も考えられない。だか

らこそ逆に、そこにある言葉を、飾らずにそのまま外へと圧し出せる。これまで

に何度言葉にしたかもわからない、今ここにいる自分の存在理由を。

「——当人たちが何を望んでようと、関係ない。僕はあなたの妹たちから戦いを

奪う。僕が考える幸せを、どれだけ嫌がられようと押し付ける。それだけです」

「……ははつ」

その瞬間、彼女は笑つたのだと思う。

笑いながら、その防御に、わずかな——それこそ針の穴ほどの、隙間を空け

ラキシュの左手掌が、今度はノフトの胸元に突き刺さった。直撃に見えた。砲

弾の一撃にも届く、あるいはそれをも凌ぐ威力が、逃げ場もなく彼女の体に注ぎ

込まれる◦抵抗はしたのだろう。耐えきろうともしたのだろう。しかし、届かな

い。堪えきれない。

吹き飛んだ。

鞠のように何度か地を跳ねた。常緑樹の一本に背を叩きつけた。そして、ずる

ずるとその場に崩れ落ちた。

死んだ。

そう思った。

頭痛がひどい、体が言うことを聞かない、立っているだけでも辛い、そういっ

たことを全て忘れて、駆け寄りそぅになった。

「ノフトさ-」

「……痛ってえ!ああ畜生、マジ痛えぞこらラキシュ、ちった一手加減しろっ

て!」

「——はい?」

足を止めた。

大きく広げた手足を大地に投げ出し、ノフトは悲鳴だか怒声だかよくわからな

い声を出している。とりあえず、死体にしては賑やかだ。

「手加減できる相手じゃない、って言ったでしよぅ?」

「言ってたけどよ!聞いたけどよ!それでも限度ってもんがあんだろ!」

「意地があるなら押し通せとも言われていたもの、全力を出しきらないと失礼よ

「そりやあそうだけどよ、ああもう畜生-—」

なんだか嬉しそうだ、とフエオドールは思った。理由はわからない。

「......あ一痛え。こりやしばらく動けそうにね一わ」

明るい声で、そんなことを言う。

余裕のある態度ではある◦しかし、「しばらく動けない」という言葉は、嘘で

はなさそうだった。今のラキシュの一撃は、酔狂で受けられるようなものではな

かった。そして、無傷で凌げるようなものでもなかった。

「あたしやこれ以上、てめ一らを追えねえ。てなわけで、行けよ。行って、て

め一のバカなわがままを押し通してきな」

「ノフトさん......あなたは」

「おっと、無粋なこたぁ言うなよ? せっかくあたしが格好つけてんだからさ」

ぐっと、言葉を飲み込んだ。

問いたいこと、言いたいこと、色々と浮かんだ。けれど、ぶつ倒れたまま笑ぅ

ノフトの顔を見ていると、口にするのが憚られた。

踵を返す◦歩き出す。

「なあ、ラキシュ」

足を止める。振り返らずに、

「何よ」

「お前、まだ迷ってんだろ。前に進むか、足を止めるか」

「それは……」口ごもるг……だから何、よ」

「さつさと決めちまえ。クトリのやつは、少なくとも......ああちくしよぅ......

ちっとも、迷わなかった。最初から最後まで、満足してやがったよ、あいつは」

しばしの沈黙。

「……先達の助言として、心には留めておくわ」

「少年も、もうちっと、強くなんな◦いざって時に、背中を見送るしかでき

ね一ってのは、けっこうきついもんだぜ」

それは、経験からくる忠言なのか——

そう問おうとした言葉は、声にならなかった。だから、

「ありがとう、ございます」

ただ小さく頭を下げて、そして、

——足がもつれた。

そのまま、その場に、ぶっ倒れた。

(......あれ?)

「フヱオドール!?:」

ラキシュの悲鳴が、やけに遠く聞こえる。

「ちよ、ちよつと、そんな冗談やめなさいよ、ねえ、ねえつたら!」

(あ.........まずいな、これは......)

指一本動かせない。声のひとつも出てこない。そんでもって、意識が気持ちよ

く遠のいていく。

「フヱオドール-П:」

大丈夫。大丈夫だよラキシュさん。

少し眠いだけなんだ。ほら、ここまであんまり寝ないで走り回つてたし、疲れ

るょうなことが色々続いたし、体のあちこちが痛いし。頭が割れそうだし。でも

それだけなんだ。

だから、本当に大丈夫なんだ。

もう我慢できないから、ちょっとだけ目を閉じる。けれど、すぐに起きるか

ら。僕の戦いは、まだ始まったばかりなんだから。

そんなことを考えながら、フエオドールはそのまま気を失った。

5,護翼軍三位武官私宅

かつてのオデットは、どちらかというとずぼらな性格をしていた。やるべきこ

とを面倒がって後回しにして、ヤバいことになりそうになったら口先でごまか

す。そのやり方で特に問題はなかったし、ずっとその方法で世の中を渡っていく

つもりでいた。

今のオデットのやり方は、その真逆だ。いずれやらなければいけなくなるこ

と、放っておくことで状況が悪化すると思われる要素は、できるだけ早めに片付

けるょうにしている。

毛の長いヵーペットの上に、ナィフを放り捨てた。

じわりと、刀身についていた血が、染みとなり広がっていく。

「……ちょつと、困つたわね」

見下ろす。三位武官の徽章のついた、護翼軍の制服が倒れている。

名前は忘れたが、ついさきほどまで、オデットが『久しぶりに再会した懐かし

い旧友』という設定で世間話に花を咲かせていた相手だ◦とうに失われたはずの

堕鬼種の瞳の力は、_分と他人の心を混ぜ合わせ、距離を壊し、認識を歪ませ

る。そして、その能力を解除するためには、相手を殺す必要がある。

「あれらは、飛空艇『バエォスポラ』に積まれて運ばれていた……けれど、襲撃

を受けて略奪され、今はどこにあるかわからない......」

手に入れたばかりの情報を、口の中で転がす。

尊い命をひとつ失わせてまで入手できた情報は、非常に重要なものではあった

けれど、同時に、さらなる情報の必要性を明らかにするものだった。

「おそらくは帝国の仕業、って話は……まぁ、フェィクよねぇ。そんな話、私の

とこまで全然来てないし……」

かべ

壁にかかった鏡のほぅにちらりと目をやる。自分自身の困った顔と目が合ぅ。

「何かアドバィスとかない?」と尋ねてみたが、もちろん、自分の顔は返事をし

てくれない。この頭の中にいるはずの同居人は、この状況にも何ら助けをよこす

気がないらしい……もともと仲の良い間柄でもないし、期待していたわけでもな

いけれど。

「今回、いろいろうまく行ってない感じがするのよね◦なんかリッタちやんから

も連絡ないし。いちおう場数踏んでる子だから、無事ではあるとは思うけど……

う-ん」

首をひねっていると、傍ら、ベランダへ向かう大窓の硝子が小さく鳴った。

「あら、早かったのね」

振り返りもせずに、声だけをそちらに投げる。

「急いだに決まってんだろ」

窓の外から、くぐもった声。

昔からなじみの、情報屋の声だ。まだただの良家のお嬢様だったころのオデッ

卜が、帝国に留学していた時期からの付き合いになる。

「それで? その呼び出し場所が、なんでこんな血なまぐさいことになってんだ

よ」

「仕方なかったのよ。このひと、大したこと知らなかったんだもの◦情報統制が

しっかりしてる組織って嫌いよ、そこらの下っぱをいくら絞っても何も出てこな

ぃ」

護翼軍は浮遊大陸群を脅かす存在に敵対する◦そしてここの第一師団は、現

在、帝国を相手取って動いている◦言葉も理屈も通じない〈獣〉相手とは違ぅの

だ。言葉と理屈が通じるからこそ、それらを細心の注意の下で扱わなければなら

ない。第一師団はそのことをよく理解している。

「死ぬのも仕事とはいえ、そこの死体さん、報われないねぇ……」

呆れたよぅな惚けたよぅな、そんな窓の外の声に、オデットは付き合わない。

「さっそく聞きたいんだけど、飛空艇『バエオスポラ』って言ってわかるかし

ら?」

「そりゃまぁな◦先日襲われた護翼軍の艇だろ。複数の超危険物を輸送中だっ

た。ちなみに、あ一っと、非売品情報としては、このネタ、例のブロントン医師

やらナィグラ^ —卜女史やらにも着目されてる」

なぜか声が少し震えている。

「あら……びっくり。意外と足も耳も早いのね、先生たち」

「片方は地元の、それも桁外れに長く住んでる古株だからな。半分ヵタギとはい

え、侮れたもんじゃないさ」

考える。

「あの二人が興味を持つようなものが、『バエオスポラ』に積まれてたの?」

「遺跡兵装モウルネン、だそうだ。立ち聞きできた範囲じゃ、剣とかそういう枠

に収まりきらない、かなりやばい一振りらしい」

「モウルネン……モウルネン、ねえ……」

頭を搔く。

「あまりあの二人の邪魔はしたくないけれど、先を越されるわけにもいかないわ

よね。襲撃者の後ろにいるのが誰かは?」

「ビルル、ハルンホムロン家の先代」

「ビルル……つて、もしかして、あの?」

「そう、あのビルル、ハルンホムロンだ」

「……もしかして、これ、かなり危険な状況つてことじゃないかしら」

「そうなるな。ちなみに場所は聞くなよ、ちと深く潜ってる。腐っても名士だ、

街のあちこちに顔が利く。ついでにこの街は、俺のホームじゃない。本気で隠れ

られたら、そう簡単には追えねぇな」

「そう」少し考えて「じゃ、本腰を入れて追いかけてくれる?」

「いや、あんま気軽に言われてもよ。マジで動きにくいんだぜ?」

「情報屋が情報の仕入れを面倒がってどうするの」

「情報屋だからこそ、そのへん慎重にやることの意味を知ってんだよ!」

うめき声、

「まあ、いいさ……スポンサーの要望には応えるもんだ。経費別で、それなりの

額は出してもらう力らな?」

「ええ。そう言つてもらえると!Шじてた一

「世界で一番トゲの生えた信頼だよな——」

はああ、と重たい溜息。

「——そういやさ。信頼の話のついでだ、そろそろ聞かせろよ」

「何?」

「あいつの話さ。俺なんかを雇って、何年もかけてあんな真似までさせてさ◦あ

んた、いったい何がしたかったんだ?」

時間をあけて、

「……女の秘密には立ち入らないほうが、長生きできるわよ?」

そう答えた。

1•踊る妖精たち

ノフト•カロ •オラシオンは、怪しげな先導者に導かれ、知らない夜道を歩い

ている。

歪んだ硝子を通して世界を見ると、ときどき、実体のない虹色が透けて見える

ことがある。炎のゆらめきのような緋、晴れ上がった空のような蒼、朝露に濡れ

る若葉のような翠、果実を絞ったような紫◦境界を持たない無数の色が、ゆるや

かに混ざり合いながら空を泳ぐことがある。触れることのできない、留めておく

ことすらできない、ただその目に見えることがあるというだけの、正体のない

まぼろし

ノフトの目前に漂うそれ——無数の色を孕んだ光の欠片——は、まず、そうい

う類のものに見えた。もちろん、夜の闇の中に浮かんでいる時点で、ただそれだ

けの自然現象ではないことは明白だったけれど。

「なぁ」

呼びかけに応えてか、光の粉をばらまきながら、大きく揺らめく。

よく見れば、それは、手足を持っていた。

さらによく見れば、それは、徴無しの子供のような輪郭を持っていた。

顔の造作まではよく見えないが、笑っているように思える。あはははは、とい

う笑い声まで聞こえてきたような気がする。

「お前、何なんだ?」

期待せずに問いを投げかけた。果たしてそれは、また大きく揺れたきりで、こ

ちらが理解できるような答えは返してこなかった。

「どこから来た?」

「なんであたしの前に現れた?」

「どこに連れていこうとしてる?」

「あたしや、今、ちよっとした怪我人でさ。遠出したくね一んだよ」

「な一おい、聞いてるか?」

尋ねる。尋ねる。尋ねる。

光が揺れる。揺れる。揺れて、笑って、踊る。

ノフトはコミュニケーションを諦めた◦黙って、ただ漂う光の後を追う。子供

の歩くくらいの速度で、薄暗い裏道を歩いてゆく。

不安や恐怖は、特に感じなかった。地上と浮遊大陸群を往復する生活の中で、

理解を越えた状況に出くわすということ自体に慣れているというのもある……

が、たぶんそういう話ではない。この怪しげな光を見ていると、なぜだか親しみ

だか懐かしさだとか、そういう気持ちが湧いてくる。そのせいだ。

г……ったく」

苦い笑みを浮かべながら、ノフトは髪をかき上げた。

そうでなくても今はややこしい時世だというのに、さらにややこしい現象が自

分の目の前に現れた。そいつに誘れる先には、きっと特上にややこしいやつが

待っているに違いない。そういう、確信じみた予想があった。

似たような路地を、いくつも抜けた。

似たような角を、いくつも曲がった。

同じ場所をぐるぐると回っているような、それでいてとんでもなく遠くまで来

てしまったような、不思議な感覚。

果たして行き着いた先は、小さな広場と、閉店したカフエだった。オープンテ

ラスの椅子に腰かけ、何やら分厚い本を開いた一人の女の姿がある。

すらりとした細身の、徴無し。背中まで伸ばした髪は明るい藍色◦その横顔は

どこか不機嫌そうにも見えるが、それがこいつの素の表情なのだということをノ

フトはよく知っている。

「……ったく、よぉ」

こいつはどうやら、本格的にややこしい事態になってきたぞ……そんな諦念じ

みた覚悟とともにノフトはうめく。女は眼鏡を外し、どことなく優雅な仕草で顔

を上げた。

「久しぶりです、ノフト。髪、まだ伸ばしてるんですね」

懐かしい声で、名を呼ばれた。

ここまでノフトを導いてきたあの光が、くすくすと笑いながらくるりと一回

転、そして溶けるよぅにして姿を消した。

「あ一、そぅだな。まさかここで、お前にまで出くわすたぁ思わなかつた」

ノフトは頭を搔きながら、まつすぐにその女の瞳を見据える。

「久しぶりだな、ラーントルク。算盤勘定は手くなつたか?」

ラーントルク•ィツリ•ヒストリア。

年は十九に届く。アィセアやノフトと同じ、黄金妖精最年長である三人の中の

一人。

四年ほど前、妖精の身でありながらオルランドリ商会に出向するなどというこ

とになって、妖精倉庫を出た。

お互いに忙しい身となってしまったため、あまり頻繁に会えているわけではな

い。それに、会って互いの仕事の話をすることもない。だからこの親友がいま具

体的にどこでどんな仕事をしているのかを、ノフトは詳しく知らない。たまに妖

精倉庫に戻っているとは伝え聞いているのだけれど。

「......ああ」

ラーントルクは思い出したように、

「私がオルランドリ商会へ出向しているというのは、ただの建前ですよ? 嘘と

いうほどではありませんが、正確な事実ではありません」

「は?」

いきなり、なにやらとんでもないことを言われた。

「いや、だってお前、小麦の袋を数える仕事をするとかなんとか言って」

「だから、それが建前なんです。大体、私たち黄金妖精は、常に、位官以上の軍

人の監視下にいなければならない。オルランドリ商会にはそんな相手はいません

よ?」

「いや、そりゃそぅだけどよ。ほら、適当な商会員を捕まえて、肩書きだけの軍

人に任命する、みたいなのがあるかもしれね一だろ? いつぞやの二位呪器技官

みて一にさ」

「そこまでしてまで、妖精の職員を商会に置く理由がありません◦軍に行ったあ

なたと違って、〈獣〉相手の護衛が必要になることもないんですよ?」

道理である。ノフトは「ぐぅ」と黙るしかない。

「とにかく、商会への出向は書類上のもので、ただの方便だったんです◦この四

年のほとんど、私は、あまり表立って口にできない場所を走り回っていましたか

ら」

ノフトは嘆息し、軽く視線を上げて、

「-それは、こいつらと関係あるのか?」

ラーントルクの近くに、いくつかの光が瞬いている。それはノフトをここまで

導いてきた光と同じものに見えた......ひとつひとつを見れば、やや小さくはあっ

たけれど。

「ええ。これを、何だと思います?」

「さ一な。新型のランタンか何かか?」

「いえ。では、これを、何だと感じます?」

意地の悪い質問だ、と思った。

「あたしらの熾す魔力の光に似た感じがする。生きてないやつが生きてるやつの

ふりをして使ぅ力だ。ってこたあ、いわゆる死霊ってやつか?」

「半分正解ですね」ラーントルクは淡々と、「これは、……いえ、これが妖精で

す」

「はあ?」

目尻を歪め、朱色の髪の妖精は目の前に漂ぅ光を見つめた。

「自分が何者なのかを知る前に死んだ子供の、自分が何者なのかを失ってしまっ

た魂◦いずれ溶けきって世界に消えゆくはずのそれに、かりそめの形を与えたも

のです」

「いや……待て。ちよっと待て。お前、何言ってんだ。それじゃまるで」

「ええ。私たちの姉妹です」

あははははと、光が笑う。何の理由もなく、ただ楽し気に。

いつの間にかその数が増えているような気がして、ノフトは目を細めた。四

つ。いや五つ。いややはり四つ◦と思ったら今度は六つ◦数えるたびに数が変わ

る。光は絶えず分裂し、あるいは融合し、まるで留まろうとしない。硝子机の上

にこぼした水滴のようだ◦大小の区別こそあれど、数に意味はない。

——吐き気が、してきた。

「本来、妖精とはこのようなものです◦魂というものは非常に小さく、薄く、無

力なんです。自我を持ったり、肉体を創ったりするような常識外れは、本来あり

えないくらいの」

自我もなく ◦肉体もなく。幻想そのものでしかない儍い存在として、光は踊

る。

「そんな魂に、かりそめの姿と形を与える。いわゆる死霊術と呼ばれる呪術の一

種ですね◦もっとも、こうして妖精を構成するような術は、一般には失伝してい

るはずとのことですが」

「ラ-—ン、お前」

うめくように、ノフトは尋ねる。

「この四年間、本当はどこで何をしてたんだ?」

ラーントルクは答えず、涼しい笑顔を見せる。

「ノフト。あなたに一人でここまで来てもらったのは、この術を私に教えた師匠

の死について話したかったからです。彼の存在はこの浮遊大陸群にとってあまり

に大きい。彼がもういないという事実は、大きな混乱を引き起こす◦だからその

おおやナ b く

死は、公には隠されることとなりました——」

ノフトは理解した。自分の予想は正しかった。このややこしい時世に、ややこ

しい現象に導かれてここまでやってきた自分は、確かに間違いなく、これ以上な

いほどややこしいやつと、ややこしい話に出くわしたのだと。

「大賢者スゥォン•ヵンデル。浮遊大陸群の創造者であり守護者。古代の知識や

秘術を現在にまで伝え留める、生ける伝説。私の直接の上司であり、この手妻の

師匠でもあります」一拍を挟み、「彼は、もう、いません」

io

硬直するノフトに構わず、ラーントルクは首を振り、

「いえ、大賢者様だけじゃない。彼とともに力を使い続けてきた地神たちも、三

年前、全て姿を消していた。かつてこの浮遊大陸群を創り出し、浮遊大陸群を

浮遊大陸群として維持する者が、誰もいなくなつてしまつた。だから——」

そして、改めて視線を鋭くすると、続けた。

「もつて、あと二年。それまでに、浮遊大陸群は今の形を失います」

2•第五師団総団長室

結論から言つてしまえば、順調そのものだつたと言つていいだろぅ。

護翼軍第五師団にょる、〈重く留まる十一番目の獣〉への先制攻撃の話であ

そもそも〈十一番目の獣〉は、どうして恐ろしいものなのか。突き詰めてしま

えば、触れたものをことごとく同化してしまうことと、あらゆる衝撃を吸収し同

化速度に転化してしまうという二点に尽きる。砲弾をぶつけようが爆風を叩きつ

けようが傷ひとつつけられない、それどころか、砲弾というエサ、爆風という燃

料を得た〈獣〉を、無意味に一回り大きくしてしまうことしかできない。

しかし言い換えれば、それだけでしかないのだ。〈十一番目の獣〉は、自ら歩

つめ しよくわん げんかく おせん

き回ることも、爪やら触腕やらを伸ばしてくることも、幻覚やら意識汚染やらを

仕掛けてくることもない。直接触れなければ、何の脅威にもなりえない。

つまり、〈十一番目の獣〉には、近づいて観察することができるのだ。

直接触れることさえしなければ、試薬をぶつかけて反応を見るなどすらできる

のだ。

これまで、〈獣〉について研究してきた者は極めて少ない。というか、そもそ

も〈獣〉を間近に見た者がほとんどいない。基本的に〈獣〉が至れない場所だか

らこそ、浮遊大陸群が今も存続できているのだから。サルべージャーたちに交

じって地上に降りる研究者がいなかったわけではない。だが、当然というべき

か、彼らのほとんどは生きて研究成果を発表することができなかった。

しかし今は、そうではない。

護翼軍は、これまで謎に包まれていた〈十一番目の獣〉について、多くを試

み、多くを知ることができる。

第五師団、総団長指令室。

戦闘状態に入ってからこちら、第五師団には昼夜の区別がない◦昼のょうに照

らし出された机の上には、厚手の紙に書きなぐられた略式の報告書が、文字通り

山のょうに積み上げられている。

「雨が降っても膨れ上がらないんで、あれが水を取り込まないってのは知られて

たんすけどね◦油や酒も弾いたとか、泥水の場合は主に沈殿物だけが食われたと

か。液体なら大丈夫って話なんすかねぇ……」

アィセア•マィゼ•ヴァルガリスは頭を搔いて、

「明日は水を落としてきてくれるっすか?〈十一番目〉が同化するものとしな

いもの、もうちょい細かく見極めておきたいっす」

「そのつもりだ」

第五師団総団長の張本人、被甲種の一位武官が頷く。

「砲撃のほうの効果は、どうだったんすか?」

「今の距離でも届く長距離砲撃と、飛空艇に搭載できるレベルの兵器でしか試せ

ていないがな。おおむね、というかほぼ予想通りと言っていい。質量を変えよう

が形状を変えようが推進力を変えようが、食われるものは食われる◦だが、単純

な投石は有効だ。衝撃を通しさえすればやつは意外と脆いということも確認し

た」

「……意外なようで妥当な解決法っすねぇ」

岩石は、同化されない。そして、ほかに同化中のものと接していない時に限

ь-др

り、衝撃はそのまま衝撃として徹る。ならば当然、そうい、っ手が考えられる。

「まだ解決法とは言えんな。39番浮遊島を解放もしくは撃墜するだけの攻撃が必

要となれば、投擲用の岩を掘り出すだけでこちらの浮遊島がまるごと消える」

「通じるってだけでも御の字っすよ◦極論、石で靴を作れば〈獣〉の上に立てる

し、その状態で石斧を使えば島を削っていけるわけっすよね」

「根気のいる話だな」

г完全な冗談ってわけでもないんすよ◦表面の〈獣〉にピンポィントで穴を穿て

るなら、その下、〈獣〉となっていない岩石を露出させられる。浮遊島は、大昔

に大賢者が定めた『浮遊する島である』という呪詛に縛られて空にある◦岩の内

側に潜って、そこから直接攻撃で島の体裁がなくなるくらいバラバラにすれば、

勝手に地に墜ちてくれる」

「んな無茶な」

「いやこれマジな話っすよ。実際、15番はそんな感じに墜ちたんすから——」

といっても。露出しようが何だろうが、浮遊島をひとつ破壊するということ自

体が、そもそも無茶の極みだ。どれだけ火薬と砲弾をかき集めようと、成功率は

限りなくゼロに近い。

15番浮遊島のあの時、特大の〈六番目の獣〉との戦いの中で浮遊島_体を放棄

することが選択されたその場には、一人、規格外の力を持った妖精兵がいた◦そ

の妖精兵が、多くの代償を支払って、その常識外れの偉業を成し遂げた。

「——同じことをまたここで、つてのは……ちと無理のある話つすけど」

黄金妖精には、暴走状態になるまで魔力を熾し、制御を放棄し大爆発を起こす

といぅ切り札がある◦妖精郷の門◦かつては、強力な〈六番目の獣〉を確実に倒

すための武器として頻繁に使われていた◦浮遊大陸群最高級の破壊半径と破壊密

度を持つ、まさに秘密兵器と呼ぶにふさわしいものだ。

しかしそれでも、浮遊島を墜とすといぅのは、無理な相談だ◦いくら戦場ひと

つを飲み込める爆発だからといって、それが大地そのものを砕ききれるわけでは

ないのだから。それに限りなく近いことを(門を開かず!)やってのけた、あの

時の反則暴走娘が色々な意味で規格外だったというだけなのだ。

——通じなくて幸い、ってなもんでもあるっすけどね。

ク、ご

声にする必要のない言葉を、喉の奥に引っ込める。

今の手持ちの情報と戦力では、まだあの理不尽には太刀打ちができない。だ

が、戦いそのものは、順調に進んでいると言っていいはずだ。勝利条件は、あの

特大黒水晶をどうにかする、あるいはそのための手段を見つけること。自分たち

は、その勝利に向かって、確実に一歩ずつ前に進んでいる。

「あと気になることと言えば、向こうさんまでの距離が試算ょりもほんのわずか

に近いってことだな。計測や計算のブレと言ってしまえばそれまでってレベルの

誤差なんだが」

「ラーンのあの話を裏付けてるつてことつすね。どこまでも難儀な話つすょ」

頭を搔く。

「パニコロの二人の扱いは?」

「まだ後方待機だ。魔力を使っての攻撃についても軽く試したいところではぁる

が、万が一の時のリスクが大きい。いざという時のフォローを考えても、もう少

し距離が縮まってからのほうがいいだろうとな」

軽く頷く、

「二人に門を開かせる予定は?」

гん一、軍に身を置いてる以上、命を張ってんのは誰だって同じだ◦お前さんた

ちの命だけを聶貭する気はない。本当に必要になった時には迷わず頼る、つもり

なんだ、がぁ」

報告書の一枚を扇にして顔を扇ぐ、

「そいつが必要になる戦況ってのに、なかなかなりそうにないんだよなぁ。つ一

かスペック見る限り、すげえ使い勝手悪いぞお前さんたち。威力も攻撃半径も個

体差激しいし、使い捨てだから事前のテストもできないし◦おまえさんたち、実

は<к番目〉相手でしか仕事できない特化兵器なんじゃないの」

「や^~身もふたもないこと言うっすな^~」

あっはっはと、いつものように笑ってから、

「——迷わず頼るというその言葉、信用するっすよ」

一転。

胃の奥から絞り出すような、あるいは魂を削るような低い声で、アィセアはそ

ぅ¥く。

「時間がない。何を代償にするとしても、あの〈獣〉を、もうこれ以上、このま

ま空の上に居座らせていられないんすから」

「それは、ラーントルク君の言っていたという、例の話か?」

「そうっすね◦もって、あと二年。おそらくは、それよりも早く。浮遊大陸群

は、浮遊大陸群としての姿を完全に失うことになる◦そしてその時点で空にある

〈獣〉は、たやすく全てを吞み込むことになる......」

「諦めて逃げようとは、思わないのか」

静かな声に、問われた。

この一位武官は、軽口が多い◦おどけるような言葉を多用し、真面目な話をは

ぐらかすことも多い。あまり真顔で、重い内容のことを話さない。なのに。

「フエオドールの主張じゃあないがな、いまおまえたちが全員そろって護翼軍を

離れても、大勢への影響はない。対抗できない〈獣〉にはどうせ対抗できない。

そして話の通りなら、誰が何をしようが、世界はどうせ近いうちに滅ぶんだ。歴

史の締め方を考える時が来たってことだろう」

ゆっくりと、嚙んで含めるように、そんな似合わないことを言う。

「そりやあ、ちよいと無い話っすねえ」

「もう護翼軍は、おまえらの献身に報いるだけの褒賞を用意できない。第一師団

は今、マゴメダリ博士を処断しようと動いている。世界がどうなるか以前の問題

だ。おまえの妹たちを助ける術そのものが、この空からすぐに無くなる」

「……そう考えそうな子も、昔、いたんすけどね。護翼軍を見切って、妖精たち

だけで逃げようって。でもあたしは、一度、それを否定する道を選んだんす。ど

んな扱いであったにせよ、護翼軍はあたしたちに、居場所と、そこにいる理由を

くれていた◦見捨てるとか逃げるとかだけじやなくて。そもそも簡単に離れられ

るものじやないんすよ」

fT

扉をノックする寸前だった手を止めて。

そのまま、漏れ聞こえる会話に耳を傾けて。

手を引き戻して。

そして、パニバル•ノク•カテナは、音もなく、総団長室の前を離れた。

「とんでもない話を、いろいろ聞いてしまった」

腕を組み、薄暗い廊下を歩きながら、一人つぶやく。

「......ううむ。どうやら、状況はかなり激しく動いているようだな」

パニバルとコロン、いまここの軍に配備されている妖精兵二名は、ここまでの

戦闘では後方支援に徹させられていた。そのことにもどかしさを感じ、魔力攻撃

テストを具申するつもりで総団長室まで来たのだ。だが、

「やれやれ。のんびりしている間に、すっかり世の中に取り残されてしまった

か」

立ち止まる。窓の外を見上げる。

今夜の38番浮遊島の空は快晴。淡い光を湛ぇた月が、ぽかりと浮かんでいる。

「かくて世界は終わりに向かぅ。このまま終わりの末を見届けるか、その前に抗

ぅ力の礎としてその身を遣い尽くすか……はは、まったく贅沢な時代に生きてい

るものだ」

一台の中型飛空艇が、のっそりと、上空を横切っていった。探査灯の光が、あ

たりを無節操に照らし出す。それを直視してしまったパニバルは、手のひらを庇

にして目を細めながら、口元だけで小さく笑う。

「さあ、フェオドール。この忙しい世界の中、救い手たらんとする君はいま、ど

こで何をしている?」

3•隠れ家

ゆっくりと、フェオドール•ジェスマンの意識が戻ってくる。

溶けた蠟でも流し込まれたかというほど、頭が重い。

「あぃたっ——」

こめかみの奥、えぐられたような……いつもの……痛み。急激に意識が覚醒

し、同時に、夢の記憶が遠のいていく。

身を起こそうとしたけれど、体がうまく動かせない。

どういうことになつているのかと、目を開いた◦ぼやけた視界が、少しずつ輪

郭を取り戻す。見えてきたのは、記憶にない白い漆喰の天井と、

「起きたっР:」

明るくも必死な声とともに、若草色の髪がぴょんこと跳ねる。

「ティアット......?一

「無茶すんな、ばかぁ!」

珍しいものを見たと思つた◦いつも、どちらかというと澄ました顔で大人ぶつ

ている彼女が、表情をぐちゃぐちゃに乱している。

「きみが……きみがいなくなつたら、わたし……わたしい……」

「せいせいする、とか?」

「そゆこと、冗談でも言うな!」

濡れタオルを取り換えられる。冷たい。気持ちがいい。

——頭痛は止まらない。

「そうだね」素直に認めることにする「心配してくれている人に対して言ってい

いことじやなかつた。悪かつたょ」

「う、ぐう……」

ティアットは、この優しい少女は、フエオドールの敵だ。敵だからこそ、フエ

オド^ルのことを強く想つている。フエオド^^ルが何を動機に、何を目的として

戦っているのか。全部理解した上で、こんな顔をしている。

思えば、こうやって無作法を叱りつけられるという経験も、ほとんど記憶にな

い。そういう家庭で育っていなかったし、そういう家族もいなかったし、軍に属

してからはずっと優等生で通してきたし。正面から全力体当たりしてくるょうな

この少女の態度は、なんというか、とても心地が良いのだ。

「そんな顔してまで心配してくれるとは、思ってなかった」

ティアットは、ぐし、と演を一度すすり上げてから、

「普通の顔だし」

顔をそむける。その横顔に見える目の色は、鮮やかなまでの赤。

г涙声だけど」

「普通の声だし」

頑なだ。これ以上の追求は無意味だと思った。

「僕、どうなったんだ?」

「無理して走り回って、怪我が開いて、ノフト先輩にぼこぼこにされて、気絶し

た。気力だけで立ってたのに糸が切れちゃったから、そこからまるっと一日寝っ

ばなしだった」

窓の外は明るい。まる一日というのは、比喩でもなんでもなかったらしい。

確かに、生命を失わなかったことに感謝したほうがいいょうな流れではあった

けれど。それはそれとして、失ってしまった時間のことは惜しく思える。何せ今

の自分にとって時間の流れは敵だ。一刻も早く戦利品を勝ち取りたい、その焦り

が胸の中に燃えている。

それはそれとして。顔を上げ、ティアットを見る。

г……なんで、君がそばにいる?」

「一緒に歩いてたノフト先輩が、いきなりすごい顔して飛んでった◦追いかけ

た。追いついたら、ノフト先輩と、きみと、お面の子が倒れてた。先輩はほっと

いていいって言ってたし、きみを逃がすわけにもいかないから、きみとお面の子

だけ連れて移動した。ここはきみのセーフハウス。ラキシュの案内でここまで来

た。で、現在、三人持ち回りできみの看病中」

淡々とした口調。

г三人?」

「わたしと、ラキシュと、あのお面の子••••:スパーダちゃん、つて言つたつけ」

「……え。みんな一緒にいるの」

心の冷や汗が額を流れ落ちる。

「聞くだに凄絶な組み合わせだけど、喧嘩とかしてない……ょね?」

「してない。今はそういうことやつてる場合じゃないつてのはわかつてるし、き

みが元気になるまでは保留するつもり◦ラキシュのほうも、そういうことで納得

してる」

不本意そうに、ティアットは言う◦冷静な判断のできる子でよかったと思う。

あと、これはこれでいい結果だったのかもなどという気持ちが湧いてもくる。

……ラキシュと、ティアット。本当に仲のいい二人だったのだ。たとえその友

こわ

情がもう壊れてしまっていたとしても、争い合ってほしくはない。

「って、そういえば勝手に出歩いてていいのか妖精兵?監視の位官は?」

「それなんだよねえ......いやもうほんと、どうしようかなって」

曖昧な表情、

「けど、、っん、グリックさんは自由にやれって言ってくれたし、いいってこと

に……なるといいなあ……無理かなあ……」

■それ。

「僕を捕まえないのか?」

「もう捕まえてるでしょ。まだ軍まで連れていかないだけ。もう、逃がさない

し」

ティアットの声は少しだけ震えている。

「……おとといだったかな、街中で暴れてた帝国の潜伏兵がね、何人か捕まった

んだ。んでもって、ちょっと暗い地下室に連れ込まれて、『質問』されてて」

へら、と笑う。

「しばらく忘れられないかな、あの悲鳴」

大陸群憲章では、都市間戦争中の捕虜に対する非人道的な扱いを禁じている。

が、そもそも倫理も生態も異なる諸種族の間では「非人道的な扱い」なるものの

認識が統一できない。どれだけ具体的な禁止事項を並べ立てたところで、曖昧な

現場の解釈を制御できるものではない。

つまり。軍が捕虜を尋問する際に苦痛を与えることを、大陸群憲章は止められ

ないし、止めていない。まして、戦況は市街戦であり、相手がとっているのはゲ

リラ戦術◦情報ひとつで敵部隊を一網打尽にして戦闘状態を終わらせられるかも

しれないと思えば、手段など選んでいられないはずだ。

「僕は帝国兵じやないけど」

「でも、帝国側の事情に通じる情報、いろいろ持ってるんでしょどぅせ。だった

えんりよ

ら遠慮なく質問されるよ」

11る。

「わたしの任務は、第一師団と帝国のケンカとは無関係◦むしろ、きみを壊され

たら困る立場。だから、状況が落ち着くまでは、第一師団のとこには連れていか

ない。こうやって見張ってるつもり」

「なるほど、ね」

テイアットとフエォドールは敵対関係にある◦少なくとも二人ともが互いにそ

う宣言したし、それぞれの中の認識だって似たょうなもののはずだ◦けれどそれ

は、相手が傷つくことを望んでいるということではない。むしろ、感情として

は、その逆。

フエォドールはテイアットたち妖精兵に。テイアットはフエォドールを含む多

くの人々に。傷つくことなく、元気にこれからの時間を過ごしてほしいと願って

いる。その願いのために、自分自身を投げ出す覚悟だってできている。そして、

相手が固めているその「覚悟」が気に入らないからこそ、二人はお互いを認めら

れないのだと。

(……こんな話、パニバル辺りにばれたら笑われそうだな、『本当に君たちはょ

く似ている』とかなんとか。コロンだったら、『元気が一番だ!』とかわけわか

んないこと言って、やっばり大笑いしてたかな)

そこまで想像したところで、ちくり、と胸が痛んだ。

(昔のラキシュさんだったら……何も言わないで、困った顔してた、かな)

容易に想像できた。

友人たちが楽しそうにしている姿を、すぐそばに寄り添いながら、なぜかどこ

となく寂しそうに見守っている。かつてのラキシュは、そういうところのある少

女だった。

「:••:ぁぃたっ」

頭が痛んだ。

「も少し寝てなさい。きみ、ほんとにひどい顔色してる」

言いながら部屋を見渡し、「鏡はないか……」とぼやく。

「あとで何か食べるものとか持ってきてあげるから。いいね、ちゃんと寝るこ

と」

「わかったょ」

4_ ーフキシュとティアット

窓の外、雨音がやけに大きく聞こえる。ぼつりぽつりと降り始めた次の瞬間に

はバケツをひっくり返したょぅな豪雨になっていた——のが半日ほど前◦臭いや

ら何やらの痕跡のことごとくが洗い流される、それは逃走者たる自分たちにとっ

てありがたいことではあるのだけれど。

気まずい時間が、流れている。

ラキシュは、黙り込んだまま、ちらりとテイアットのほうを見た。

そう。テイアットだ。若草色の髪の妖精兵。『ラキシュ』の記憶の中におい

て、幼年期からずっと一緒にいた四人組の、最年長にしてリーダー格、だったと

思う。

そういう知識を得てはいるものの、共に育ってきた相手だという実感は薄い。

今ここにいるラキシュが実感できるのは、「先日38番浮遊島の森の中で思いっき

り剣を交えて叩きのめした」という関係くらいである。そしておそらく、テイ

アットの側にとっても事情は(立場は逆になるが)似たようなものだろう。

——退きなさい、妖精兵。その人を譲るわけにはいかないの。

-ラキ......シュ なの......?

——ごめんなさい。私は貴女のこと、覚えてないの。

あの時は、我ながら冷たい態度をとつていたものだと思う。今さら、会話が弾

む余地など、あろうはずもない。けれど……うん。この話しづらい空気を押しの

けてでも、ちょつと聞いてみたいことも、確かめておきたいことも、ある。

「ねぇ」

びくん、とティアットの肩が揺れた。

「な......何?」

「あなたは、いま、幸せかしら?」

г……えと、何それ」

訝し気に、ティアットが眉をひそめる。

「いきなりそ一ゆ一の聞かれても意味わかんないし。ていうかそれ、本来、わた

しが聞く質問なんじゃないの」

それもそうか、と思う。仲の良い家族にいきなり背を向けて、悪い男と駆け落

ちをキメた(ことになつている)のは自分のほうだ。

「私なら、幸せよ?」首を少し傾けて「好きな人もできたし、その人に大事にさ

れてるのも実感してるし、自分の中に新しい気持ちを見つけるの、とても新鮮だ

し」

「ぐっ」

なぜか、ティアットは気圧されたように黙り込んだ。

「——私はもう幸せ。だから気になるの。あなたたちも、ちゃんと幸せになれて

るのか」

「そん……なの、どうでもいいじやない、別に」

声が落ち着いていない◦これまで考えていなかったのか、考えたくないのか、

考えないようにしていたのか。いずれにせよ、この問いに答えを探すのは苦痛を

伴う行為らしい。

「てか。何でそんなこと聞くの。わたしたちのこと、もう忘れちやったんで

しよ?ffi人でしよ?」

拗ねたように、今度はそう返してきた。あれこれと質問ばかり。そんなに、

こっちの質問には答えたくないのか。

「少しは思い出したけど」

瞬間、ティアットは、忘れていたへそくりを突然見つけたような顔になって、

「-うそ!4?:」

「少しは、よ。ティアット•シバ•ィグナレオ、大陸群共暦四二七年の夏生ま

れ、47番浮遊島出身、特技は読んだ本や映像晶石の暗唱、好きな飲み物は蜂蜜を

混ぜたミルク、最後におねしよをしたのは魔女ものの映像晶石を観た十二のよん

がぐ」

Гんがわああ!」

咆哮めいた悲鳴とともに手のひらが飛んできて、ラキシュの口をふさいだ。

「わかった!わかったからそれ以上はナシで!」

鼻も一緒にふさがれている◦苦しい◦そもそも部屋にこの二人しかいないの

に、最後まで言わせないことにどれだけの意味があるというのか。

「......他の、みんなのことも?」

「コロンは十一の秋のあれが最後かしら、とっても立派な浮遊島地図だった。パ

ニバルは……ちよっと思い出せないわね、あの子、そういうの隠すのうまいか

「いやおねしよの話じゃなくて!」

それはわかっていたけれど、話の流れで、言わずにいられなかったのだ。

「あ、でも、そこまで思い出せてるなら」

ティアットは言葉を切り、声を落とし、

「戻ってくる気-ない? みんな、喜ぶよ」

ああ。

やっぱり、そういう話に、なるのか。

ティアットの選んだ「喜ぶよ」という言葉は、彼女なりに考えてのものなのだ

ろう。「待つてるよ」ではないのだ。ラキシュ•ニクス•セニオリスという個人

の死と消滅を、妖精というものを知る仲間たちは、既に受け入れているのだ。悲

しくても、寂しくても、それを理由に現実から目を背けたりはしていない。

「ありがと……そう言ってもらえたことは、本当に嬉しい」

心の底から本気でそう言ってから、首を振る。

「でも、ダメかな。フエォドールと違う方向には、行きたくないの」

「方向?」

「ずっと一緒にいられるとは思ってないもの。私は泡沫で、ひとときだけの夢。

いつまでもあの人を微睡の中に留めてはいけない。……寝てばっかりは、かえっ

て体に毒なのょ?」

冗談っぽく、笑ってそう言えた。

言えたと、思う。

フエォドールは嘘がうまい、が、どうやら隠しごとは下手だ◦いろいろと将来

が心配になる話だが、それはさておき彼が隠していることのひとつについて、ラ

キシュは大まかに把握できてしまつている。

ラキシュがそばにいることは、フエオドールに、大きな負担を強いている。

もちろん、負担の程度も解決策も、具体的なところはまるでわからない。けれ

ど、ずつといまのままの関係ではいられないだろうということくらいは、わか

る。いずれ、どのような形であれ、自分は彼の傍から消えなければならないだろ

/つと。

「だから、せめて、ね◦たとえ離れていても、同じものを求めて、同じ方向に歩

いてるんだつてことくらいは、手放したくないの」

ティアットはそのラキシュの目をじつと見つめ、呆れたように顔の力をゆるめ

ると視線を逸らし、何事か少し考えてから、「うがあああ」と意味のわからない

わめき声をあげながら頭をかきむしって、自分の膝の上に倒れ込んだ。

г……どうしたの?」

「何でもない。フエオドールのこと、ぶんなぐりたくなっただけ」

「変なティアット」

「いまのラキシュにだけは言われたくないかなあ、そういうこと!」

がばりと身を起こして、そんな抗議をされた◦ごもっとも。今の自分は、彼女

から見れば極めつけに変であろうことは間違いない。

「ああ、でも誤解しないでね。彼のことを恋人として欲しいとかそういうのじゃ

ないから。あなたから取り上げるつもりもないし、もちろん独占する気もない

し」

「いやいやいやいや、別に恋人とかじゃないし。心の底から嫌い合ってるし!」

どこかで聞いたようなことを、強い調子で言われた。

「敵同士だし。なんていうか、こう……」声から元気がなくなる「あいつにだけ

は、絶対に負けたくないし」

「そう」

本当に、よく似た二人だと思う。少しずつだが過去の記憶をЩけるようになっ

た今のラキシュには、そのことがよくわかる。

二人ともが、お互いのことをとても大切に思っている◦けれどそれに比べて、

自分自身のことをさほど大切にしていない-むしろ身の破滅を望んでいるよう

な節すらある◦だから、両者揃って、お互いのことが気にいらないのだ。激しく

否定し合うし、ぶつかりあってでも止めようとする。そうすることで、お互いを

破滅から救い合っているのだ。

自分にはできない役どころだと、ラキシュは思う。

この二人には幸せになってほしいなと、心の底から思う。その「心の底」が自

分の場合、誰のどういう記憶に根差したものなのか、よくわからないけれど。

「……わたしはさ、たぶん、もう無理だと思うんだ」

「え?」

「いま、幸せかどうかって話」

——ああ。そうだった。そういう話を、していたのだった。

「そもそも幸せって、よくわからないし。たぶん、そういうの、みんなが一緒

じゃないと見つからないものじゃないかなって思うし」

——ああ。そうだった。この子は、いや『ラキシュ』を含めた四人は、そうい

う子たちだったのだ。ずっと一緒にいた。ずっと楽しく生きてきた。

いつかは別れる時がくるだろう、違う場所で違うものを求めて違うことを想う

日がくるのだろう。そう理解していながらも、覚悟してはいなかった。

「ごめんなさいね」

若草色の髪に手のひらを乗せて、くしやりと混ぜた。

「あなたの幸せを、私が奪った」

「そんなんじやない。悪いのはラキシュじやなくて、全部あいつ」

力なく、払いのけられた。

「あいつが全部悪い。そぅ、決まってるんだから」

撫でる先を失った指先を空中にさまょわせながら、ラキシュは思ぅ。

本当にごめんなさい。あなたたちから『ラキシュ』を取り上げて◦四人が一緒

にいられた最後の時間を、奪ってしまって。

だからいつか、私は、私の幸せを全て、あなたに譲るから。

穴埋めにも、償いにもならないけれど、せめて、そのくらいはさせて、と——

「んよしっ!」

急に、鼻息も荒く勢いをつけて、ティアットが立ち上がった。

「な、何?」

「ごはん食べよぅ、ごはん。今は食べるべき時!」

わけのわからない力強さとともに、ティアットはそぅ言い切った。

「ど一せあいつのことだから、あの夜からずっと、ろくに食べてないんで

しよ?」

「え……と」

気圧されながら、ラキシュは回想する。

何も食べていない、ということはなかつたと思う。

L2種標準兵糧というものがある。味もなければ食感もひどい、しかし栄養だ

けは詰め込まれているという調整食だ◦他の保存食よりもかさばらず、長持ち。

しかもこれさえ食べていれば生命活動は維持できる◦さらに、味がないおかげ

で、多くの種族の者が口に入れられる……ということで、長い航路を往く飛空艇

などに山のように積まれ、船乗りたちに嫌と言うほど親しまれている。

そいつが、最近のフエォドールの主食だ。「調理の手間もいらないし、食べる

のに時間も使わないしね」というのが本人の弁。それ以外だと、「頭を使うには

糖分が必須なんだ」とか言いながら、なんだかんだでいつも砂糖菓子やら飴やら

を口にしていたような。

そう答えたら、

「それを食事とは言わない」

情けも容赦も加減もなく、ずばっと全否定された。

「というかだ、よりにもよって、きみがついてて何でそういう情けないことに

なってるのラキシュ!家族で揃ってテーブルでいただきます、栄養のバランス

はしっかりと!わたしたちの中で一番こだわってたの、きみでしよ!」

「え、と」

言われて思い起こしてみれば、確かに、かつての『ラキシュ•ニクス•セニォ

リス』は、そういうタィプの少女だった。パンを焼くのが好きで、そのパンを誰

かに食べてもらうのも好きで。一人でも多くから「おいしい」の一言を引き出そ

うと、日々努力を怠らなかった。

いやでも、しかしだ。当時の『ラキシュ』とここにいる自分とは、肉体こそ同

じであり多少の記憶こそ継承されたものの、中身の人格はまるで違うものである

わけで。そのあたりの事情を少しくらいは考慮してくれてもいいんじやないかと

思うのだけど、

「問答無用!」

抗議も言い訳も、聞いてもらえなかった。

みんなで正しい食事。そういうことになった。

仮面の人物、クスパーダ//のことも、誘ってみた。

しかし彼——あるいは彼女——は、困ったように首を振って、去ってしまっ

た。

この隠れ家に案内されてからこちら、ティアットもラキシュも、ほとんどクス

パーダゥと会話できていない。フエオドールのことを心配しているのは間違いな

いらしい、そのことだけは信じていいと思うけれど、あとの素性などがまるでわ

からない。

黒ローブの背中を見つめるテイアットの視線に、時折複雑な感情が混じってい

るようにも思える。何か思うところがある、のかもしれない。

そのテイアットいわく、フェオドールは基本的に、お子様舌である。

ベったベたに甘いもの。わかりやすく辛いもの。歯ごたえがあったり、舌触り

の面白いもの。あとは単純な満腹感。フェオドール•ジェスマンにはそういうも

のを与えれば喜んで食べるはず……とい、っのが、テイアットの主張である。

なるほど、とラキシュは思つた。それは、自分のまつたく知らない知識だつ

(......そ力)

知らないのは、フエォドールについてだけではない。

自分はたぶん何も知らないのだと、ラキシュは改めて気づいた。

かつて妖精兵エルバ•アフヱ•ムルスムアゥレアは、妖精倉庫——家畜小屋同

然だった当時のものだ——という狭い世界で生きていた◦姉や妹たちとの共同生

活を送ってはいたが、現在の妖精倉庫におけるそれとは、似ても似つかないもの

だった。食事といえば、味のないエサを口に運ぶことに等しかった。自分たちの

食べるものを自分たちで作るとか、その内容を自分たちで選ぶとか、そういう発

想そのものに縁遠かった。

(この子たちは……私の知ってる黄金妖精とは、本当に、違うんだ)

目を閉じて、胸に手をあてて、『ラキシュ』の記憶に尋ねる。

今の世の妖精たちは、たとえば、みんなで一緒に畑を耕したりもする。

年上が年下に本を読んであげたりもする。

たまにみんなでケーキを食べることだつてある。

それは……ああ、そうだ。かつてエルバが望んだ未来◦遠い未来に叶えたい

と、妹たちか、その妹たちか、さらにその妹たちか。未来のどこかの黄金妖精た

ちに、手に入れてほしいとかつて願った日々、そのものだ。

あの日に見ていた遠い夢は、遠く時を隔てた今、確かに叶えられている。その

夢の向こう側にあったはずの日々に、いま彼女たちは生きている。

(……そっか)

そうと気づいた瞬間に、笑みがこぼれた。

遠い昔、あの夢を、三人だけで共有していた。エルバ自身と、親友だったナサ

ニアと、マゴメダリ医師。

(マゴメダリ先生、頑張ってくれたのね、きっと)

あの気の弱そうな大男のことを思い出すと、笑みが深くなる◦それと、ナィグ

ラート。ラキシュの記憶が教えてくれる。エルバの生きていた時代にはいなかっ

たあの女性が、妖精たちの母となり、家庭としての妖精倉庫を支えてくれている

のだと。

(……思い出すのがもう少し早かったら、本人たちにお礼も言えたのに)

もし、自分がエルバの記憶と自覚を持っていると告げたら、彼は何と返してき

ただろう。もし、失われた『ラキシュ』の記憶が欠片なりと自分の中に残ってい

ると教えたら、彼女はどんな顔をしただろう。

それらの「もし」に答えを見つける機会は、いつか、来るのだろうか。

5•温かな食卓

フェォドール•ジェスマンは、目前の暗号文を、ひとつひとつ、解読してい

く 0

意味不明の記号の羅列が文字になり、文字が連なり単語となり、単語が並んで

文となり、内に隠されていた意味をさらけ出す◦不定期に襲ってくる頭痛に苛立

ちながらも、ゆっくりと辛抱強く確実に、その意味を拾い集めていく。

第三資料室から死ぬ思いで持ち出した、例のファィルを解読していたのだ。

遺跡兵装モゥルネン。その詳細な記録、の一部。

もちろん、かなり上位の機密だ◦複数の鍵を使って厳重に暗号化されていた

が、フェォドールには通用しない。多くのぺージで不自然なほど情報が消し去ら

れていたが、その検閲の入り方自体が雄弁に多くの情報を語ってくれもする。

そして、

「よ......よよ、よ......」

解読が進むにつれて、勝手に笑みが浮かんできた。

おそらく自分はいま、とんでもなくだらしない表情を浮かべているはずだ◦頰

の肉が緩み切つているのがわかる。こんなところは誰にも見られたくないと思

「まだ寝てるかしら?」

扉が、細く開いた。その向こぅから、小さく抑えたラキシュの声。

「え......ああ、ええと」

扉に背を向けたまま、フエオドールは大急ぎで自分の顔をこねまわした。貼‘

付いたようになっていた笑顔をどうにかこうにか引きはがす。

振り返って、ラキシュの顔を見る。

瞬間、思い出してしまった。自分がなぜ、こみあげてくる喜びと戦わなければ

いけなかったのか。いったい何が、この顔の筋肉をだらしのない形に歪めようと

していたのか。

「起きてるわね。食事の準備できて——」

「そうだ、ラキシュさん^ —聞いて欲しいことがあるんだ^」

「-え? I

「例の『モゥルネン』についてだけど、色々わかってきた。どうやら予想以上の

アタリみたいなんだよ◦ほら、このべージ。……と、こっち。厄介な複合暗号に

なってたからけっこう悩まされたけど、悩んだだけの価値はあったよ」

「……待って。あなた、休んでたんじゃなかったの」

そんなもつたいないこと、できるはずがない。

時間には限りがあるのだ。のんびり構えている間に何が手遅れになるかはわか

らないのだ。そもそも、目前にまだできることがある以上、寝よぅと思つたつて

体が眠ってくれない。焦りと興奮が心臓を突き動かし続ける。

「これは、ざっくり言ってしまえば、兵団の質を一番強い兵士に揃える剣、なん

だ」

だから、構わず、解読結果の披露を続ける。

「人間種の資料によれば、『集団の中にある戦力と戦意を全て合算したぅえで、

全員に共有させる』とある◦これは護翼軍でも一度実験され、事実だと確認され

たらしい。戦力の共有だ。言い換えれば、『剣の使い手をコピーする』ってこ

と。これまで強制的に独占されていたものとそつくり同じものを、大勢にバラま

くことが可能だってことだ」

どうだすごいだろう、と、自慢の笑みがどうしても浮かんでしまう。

「……あなた、」

「君たち妖精たちの強さを、他の誰でも持てるょうになるんだ」

そうだ。それこそが、重要なことだ。

「以前に君たちだけが傷つけさせられてるのは、君たちの力しか〈六番目の獣〉

に通じなかったから。君たちの力だけがあまりに突出していて、かつ特殊だった

こつ

から◦けれどこの剣は、その前提をブッ壊せるんだ◦誰もが君たちと同じ力にァ

クセスできる。君たちと同じ場所で、隣に立って戦える」

フェォドール•ジェスマンは無力だ。

つまるところその事実が、彼の始まりだ。

義兄が死んだ◦娘が死んだ。大切な者たちを、家族のょうな、あるいは家族に

なれたはずの人々を目の前で次々と失いながら、フェォドール•ジェスマンは、

何も出来なかった。傷つきながら戦う者たちのすぐそばで、傷を引き受けること

すらできずにいた。

だから、少年は望んだ◦無力な者たちに、無力なままでも立つことのできる戦

場を。あるいは、その戦場に立つことのできる道を。そして、

「-僕も、君たちを守って、戦えるんだ」

その戦場が、そして戦場へと繫がる道が、たった今、見つかった。

「フヱオド-—ル」

「懸念点は、どうやら特大の未解決問題を抱えていて、それ_体が最上位機密に

分類されるくらいに深刻なものらしいつてことだ」

次から次へと、言葉が滑り出てくる。

「『モウルネンの夜』、マゴメダリ先生が言ってたアレだな。たぶんモウルネン

の起動実験で失敗したか、戦場で暴走したかのどちらかだと思う◦当時の護翼軍

が解決を諦めて、モウルネンの存在ごと隠蔽を決めたくらいでっかいアクシデン

卜だったはずだ。簡単にどうにかできるものじゃないだろうけれど、当時と今と

で条件は変わってきているはず。今の技術と知識で改めて挑んでみる価値はある

はずだよ。慎重にやる必要はあるけどね。なにせ、『モウルネンの夜』の問題を

解決できれば、マゴメダリ先生の言う『黄金妖精調整技術の危険性』の問題も芋

づる式に解決する。何もかもがうまくいくんだ——」

「フヱオド-—ル*」

早口を、遮られた。

両の頰を、手のひらで挟まれた。ぐい、と首を引っこ抜かれて、顔を真正面に

固定された。目と目が合い、視線がまっすぐに絡み合う。

ラキシュが深刻な顔をしていることに、ようやく気づいた。

「聞いて。あなたが私の、私や黄金妖精たちのことを想ってくれてることは嬉し

い。未来のために本気で動いてくれてることも、すごく嬉しい。けれどね。……

勝手にほかの子たちの言い分もまとめて代弁するけれどね。そのためにあなたが

傷ついたり弱ったりすることを、私たちは誰も望んでないの」

——ああ、なんだ。そんな、どうでもいいことを気にしていたのか。

「あなた、今にも死にそうな顔色、してるのよ」

-そうかもしれない◦一度目を覚ましてしまってから、ずっと暗号の解読に

集中していた◦結局ほとんど眠れていないから、頭も体もほとんど休めていな

い。頭痛は相変わらずだし、体中の怪我が治ったりも当然していないし。気分は

最悪、今にも倒れそうだし今にも吐きそうだ。だけど、

「薄汚い堕鬼種が一人くたばったところで、その分、世の中が少し綺麗になるだ

けのことだって。君らの明日のほうがよっぽど大事に決まって……」

頰が、音高く鳴った。

平手がひとつ、いい角度とタィミングで、フエォドールの頰を打っていた。

完全な不意打ちだった。突然の焼けるような痛みに、フヱォドールは戸惑う。

「......ラキシュ、さん?」

頭痛が強くなった。堪ぇきれず、表情が歪む。

「どうして、そういうこと、言うのよ」

なみだごぇ

「なんで、自分で言ってることの意味、気づいてくれないのよ◦あなたを傷つけ

て、あなたに血を流させて、あなたを踏みつけにして、それで明日をもらつたと

して、私たちが喜ぶとでも思うの?」

頭痛がさらに強くなった◦心臓の鼓動が大鐘となって、頭蓋の内側に反響す

る。フエオド^ルは歯を食いしばり、

「君たちがどう考えようと関係ない、僕は僕の望みを君たちに押し付けるつもり

で——」

「利子つけて返すわよ、そんな望み!」

力ない抗議の声も、容赦なく遮られた。

「——私は、いま、ここにいるの」

襟首をつかまれ、ぐいと引き寄せられた。

「明日はどぅとか、知らない。いまは確かに、あなたの目の前にいるのょ」

ラキシュ、さん。

その名を呼べなかった。

それどころか、呪縛にかかったょぅに、身動きひとつできなかった。

距離が近い。

吐息を感じる。

唇が近い。

「いま、私は——」

「あ^、こほん一

呪縛が解けた。

フエオドールは弾かれたように顔を背け、いや、闖入者のほうへと顔を向け

た。開けっ放しの扉の向こう。怒っているような呆れているような微妙な表情の

ティアットが、わざとらしい咳ばらいを繰り返している。

「い一い感じの雰囲気出してるとこ悪いけど、今は、ごはんの時間だから。てい

うか、ラキシュきみ何やってんの」

「......も/っ」

襟首を解放された。後ろに倒れ込みそうになるのを、なんとか堪える。

「意地の悪いお姉ちゃん」

「タィミング悪かったとかじゃないからね◦ちよっと前からいたからね◦邪魔す

るのもと一力な一と思つてftつてたんたけどほつといたらとこまでも長弓きそ

うだったから声かけたんだからね。っていうかラキシュきみ気づいてたでしょ」

冬空の下で浴びる豪雨のような、容赦のない冷たい声。

「あったかいごはんが冷めてもなんだし、やらしいことの続きは、食後によろし

く」

「しないよР:」

反射的に抗議の声をあげたら、水塊のような視線だけが返ってきた。

fT

ところで、コリナディル^ —チェは大都市である。

大都市というやつには、多くの飛空艇が激しく出入りしているものだ。多くの

飛空艇が出入りすれば、当然、多彩かつ大量の物資が流通するということにな

る。

他の都市、他の浮遊島ではまず見ることもないような珍しい食材が、大きな網

籠いっぱいに詰まってそこらの屋台に並んでいたりする◦しかもその前に掲げら

れた値札がすごい◦ひとかかえもありそうな大きな沼魚が、一尾まるごと5ブラ

ダルほどで売っていたりするのだ。コリナディルーチェの朝市に慣れていない者

の多くは、まずこのスケール感の違いに戸惑い、そして幻惑される。これはお得

だ、これを買わない理由はない——と、目玉をぐるぐるさせながら財布のひもを

繼める。

大きく賑わった市場は、買い物客の値段や分量を量る感覚を、狂わせる。

そして今、隠れ家の食卓である。

「味はいいのよ、味は」

とティアットが視線をそこらにさまよわせながら言ぅ。

鶏ルをほぐし混ぜたパン粥、潰し三種!к煮た根菜と発酵麦の鍋、野茸の布包

み蒸し——いずれもがテーブルの上で、美味しそぅに湯気を立てている◦実際、

つまみ食いをした限り、このいずれもが、なかなか良い感じの味に仕上げられて

いた……のだが。

「ただ、まぁ、ちよつとだけ別の何かを間違えちやつたかな一、とか」

視線を放浪させたまま、ティアットがつぶやいた。

「とどめを刺すことにならなければいいけど」

ラキシュはくすくすと笑つた。

フエオドールは、果たして自分がどういうリアクションを返せばいいのかわか

らず、ただ唇の端をひきつらせた。ずきずきと頭が痛む◦そのせいで、微妙な表

情は労せずして浮かべられた。

「ちょっと、多かったかしらね」

つまり、そういうことだ。

ひとつひとつの皿が大きいというわけではないのだが、数が揃えば話は変わ

る。テーブルの上の料理のボリユームは、とても半病人を交えた三人に向けたも

のではなかった。

「......ええと」

「気の抜けた顔してないでょ、フエオドール。きみが主戦力なんだからね、男の

子」

「病人の胃袋に、あんまり期待しないでほしいなぁ」

ぼやきながら、フエオドールは、スプーンを手にとつた。

パン粥の 一口を口に運ぶ。

鶏肉の塊が、柔らかなパンとともに、舌先で崩れる。口いっぱいに広がる粥の

甘味。その奥のほぅ、かすかに自己主張するかすかな苦みは、やや多めに投入さ

れた香草にょるものか。シンプルでありながら多彩な味。思わず、

г……ほんとだ、いける」

恥ずべきことに、素直な言葉がこぼれて落ちた。

「でしょ」

ふふん、とティアットが自慢げに鼻を鳴らす。

「これは、君が?」

「得意料理。ぅちの倉庫、料理の手伝いが当番制だから」

いわく、妖精倉庫なる黄金妖精たちの実家では、基本的にナィグラート——先

日会った喰人鬼だ——が家事の一切を取り仕切っている◦しかし彼女の教育方針

と単純な人手不足により、当の妖精たちにかなりの比重で手伝いをさせている。

料理の上手い子には、ひとつふたつの皿をまるごと任せたりもする、とか。

「大勢のぶんをまとめて作ってばっかになるから、量の調整はちよっと不慣れだ

けど」

ちよっと、というのは少々控え目にすぎる表現なのではないか。そう思いはし

たが、もちろん口にはしなかった。

ティアットは続けていわく、前までのラキシュは自分たちの世代で一番料理が

うまかった。今のラキシュはそのへん全部を忘れてしまっていたけれど、体は覚

えていたのか、すぐにコツをつかんで問題なく作業を進めたのだという。

г......そつ力」

改めて、この状況のことを想う。

ティアットとラキシュが、それとおまけにフエオドール自身が、ひとつのテー

ブルを囲んでいる。

誰かの死を想うこともなく、ただ穏やかに時間を共有している。こんな時間が

ありうるなんて、想像もできなかった、だから望むこともできなかった。完全な

不意打ちだ。

(あ……やばい……)

目尻が、熱い。

泣きそうだと気づいた時には、もう、雫の気配がまぶたの下ににじみ出てい

た。堪えるにはもう遅すぎる◦大粒の涙がこの頰を伝うのは時間の問題。けれど

目の前の二人には、それぞれ別の理由で、こんな情けない涙は見せたくない。打

つ手はないかと考える。見つける。一瞬だけ躊躇。やるしかない。

目前で派手に湯気をたてている皿をひっつかみ、中身を口の中にかきこんだ。

熱い。むちゃくちゃ熱い。泣けるくらいに熱い。というか泣けてきた。大粒の

涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。

「……いや、何やってんのきみ」

「そんなにがっつかなくても、無くならないわよ」

いや、ははは。笑ってごまかし、堂々と涙をぬぐう。

頭が痛む。

г……そういえば」気づく「クスパーダ//は?この屋敷にいるんだよね?」

そういう話だったはずだが、自分はまだ、その姿を見ていない。

「ん、せっかくだから一緒に食べようって誘ったんだけど、逃げられちゃった」

г……違う種族の相手と食卓を一緒にするのは、難しいものね」

体のつくりが違うと、必要になる栄養素も、好む味も、違うものになる。味覚

のまるで違う種族同士で同じ卓に着くのは、非常に危険なことだ。ゲテモノなど

という言葉では表現しきれないレベルの文化の違いを突き付けられることもあ

る。

もちろん、ほとんどの場合は、味付けや香りつけの工夫で対応はできるのだ。

たとえば、体質的に脂を大量に摂る必要のある大型の獣人の中には、あらゆる料

理に、乳脂と獣脂を混ぜ合わせた独自の調味(?)料をぶっかけるという者もい

る。「そうしなければ食べた気がしない」というのが彼らの言い分だが、言い換

えれば、そうすることで(ベースは)他の種族と同じものを食べていても生きて

いけるということ。

「それより、あのお面かな。つけたまま食事、難しそうだし」

「しようがないわね。あれを外せない文化のある種族なんでしよう? 確か、

栗鼠徴種……だったかしら。無理は言えないもの」

それは、フエオドールが言い出した仮説だった。

的外れな思い込みだった。真実から目を逸らし続けるための隠れ蓑だった。

頭が痛む。

「......ていうかさ。あの子ときみ、そもそもどういう関係? 前からの仲間?」

「いや。僕の敵の友人だよ」

「は?」

何言ってんだこいつ、という顔をされた。

何言ってんだろうね僕は、と思った。でもしようがないじやないか。それが事

実なんだ。あの子のことを説明するのに、僕は他の言葉を持っていないんだ。

「元気でいてくれれば、それでいいよ。それ以上は、望まない」

頭が痛む。

「……どぅかしたの?」

「え、何が?」

「いま、なんか、きつそぅな顔してた。食欲ないなら、無理しなくていいよ?」

頭が痛む。

「いや、別に、何も」

頭が痛む。

гちよっと。顔色、悪いわよ?何かあったの?」

頭が、

г大丈、夫、少し、舌をやけどした、だけ……」

痛、

平衡感覚が壊れた。姿勢を崩す。椅子から滑り落ちそうになる。

「フヱオド■—ル!?:」

なんとか堪える。視界が脈打っている。耳鳴りがひどい。頭が痛む。

部屋の片隅、大きな鏡が置かれているのが見える◦鏡面の向こうに見えるの

は、特大のテーブルとそれを埋め尽くす大量の料理、異常に気付いて慌てるティ

アット、弾かれたように立ち上がるラキシュ、興味深そうにこちらを見ている黒

Лかル。

頭が痛む、頭が痛む、頭が痛む、

「——ぐ、」

でも、大丈夫だ。耐えられる。今は食事中だ。せっかく二人が一緒にいるん

だ。無くしたはずの幸せに似たものを取り戻せているんだ。心配をかけちやいけ

ない。自分の痛みがなんだ、そんなものは抱え込んで隠してしまえば無いのと同

じなんだ。だから隠せ。覆え◦騙せ。笑え。

頭が痛む、頭が痛む、頭が痛む、頭が痛む、頭が痛む、頭が——

「フヱオド-—ル*」

絶望めいた焦りをその表情に湛えて、ラキシュが駆け寄ってくる。

伸ばされた手が、今度こそ倒れ込みかけたフエォドールの腕をとる。

なぜかその瞬ir雷光のょぅに、й裏にひとつの言葉が蘇る。

—あの子を、早く殺しなさい。

——放っておけば、あなた自身の人格が突き崩されて、なくなっていく。

ラキシュが、両目を見開き、何かに驚愕しているのが見える。しかしそのこと

を疑問に思う時間も思考の余裕もない。

痛みが、弾けた。

にんたい

もはや、気力や忍耐でどうにかなるものではなかった。

堕鬼種の力は、薄闇の中で合わせた瞳を介し、二人の精神を混ぜ合わせる◦し

かし精神というものは本来、個人の中で独立しているはずのものだ◦異物を受け

^ ぐ〆 t、、

入れたままの心には罅が入る。罅は徐々に広がっていき、やがて精神そのものを

破壊し始める。

意識を保とうとする意識そのものを吹き飛ばすような、暴圧じみた激痛。

フエオドールの意識は、もはや抗うことすら許されず、一瞬で刈り取られた。

6•ン•ゲエン記念美術展

コリナディルーチヱ市の役所には、大小合わせて百を超える数の美術館が登録

されている◦大きなものは、広い敷地に何百という作品を揃えた、大規模なも

の。小さなものは、アバートの一室に何枚かの絵画を飾っているだけのょうな、

こぢんまりとしたもの。

そして『ン•ゲヱン記念美術展』は、その中間。もともとある貴族の別莊で

あった小さめの屋敷をまるごと買い取り、あまり統一感のない絵画や工芸品など

を二十点ばかり集めてある。順路の終わりにはちょっとしたお土産屋が併設され

ていて、微妙なデザィンの絵葉書を買ったりもできる。

「——というのが表向きの顔ですが、正体は地元の裏組織が運営する、盗品横流

しの中継地点です。頻繁に布で覆われた荷物を運び込んでも美術館であれば怪し

まれませんし。よく考えられているものですね」

淡々とした声でそう言って、ラーントルクは軽く右手を振った。その指先に導

かれるようにして、淡い光の塊がいくつか飛翔する——と、廊下に突っ伏し倒れ

ていた小鬼の背に突き刺さり、その場で大きく弾けて消えた。小鬼は喉奥に濁っ

た音を立て、気を失、っ。

妖精を飛び道具として使う◦古い死霊術の一種だ◦ちようどいい魂のかけらが

近くに漂っていなければ使えないし、さほどの威力も望めないとのことで、戦場

ではあまり活用されずに廃れた技術らしい。

(……正直複雑ではありますが、この気持ちから逃げるわけにはいきませんし

ね)

黄金妖精は、使い捨ての飛び道具だ◦そう生まれ、そう望まれ、そう在るべき

ものだ◦肯定するにせよ否定するにせよ、その事実を無視はできない。だから向

き合う◦そのために、渋る大賢者を強引に説き伏せて、この技術の手解きをさせ

た。

「ってこたあ、こいつらけっこ、っ値が張るモンなのか?」

ノフトが興味深そうにあたりを見回しながら、そう尋ねてくる。

「展示されているものは全て、二束三文の安物だそうですよ。美術品としての価

値はないに等しい。おかげでまっとうな客が出入りすることもほぼなく、悪事を

もくげき

目撃されるリスクも最低限で済む、と」

やはり、よく考えられているものですね......と、ラ^ —ントルクは領く。

「ふ一ん……これが全部、ねぇ」

曲がり角の壁に飾られた小さな静物画をしげしげと眺め、ノフトはあごに手を

あてる。

「なあなあ。こいつ、もらつてつてもいいかな?」

「そんなものが欲しいんですか?美術品としての価値はない、んですよ?」

гんなもん、値札で決まるもんじやね一だろ?あたしやこいつを気に入った」

まぁ、確かに、それは理屈である◦たとえ高名な画伯の描いたものであって

も、それを誰も欲しがらないならばそこに価値はない。その逆に、誰が値をつけ

るでもない無名の作品であっても、それを美術品として求める者がいる以上、そ

こには価値があると言ぅべきかもしれない。

(......ま、どぅでもいいことですね)

異変の音を聞きつけたか、爬虫種の警備員が、廊下の端に姿を現す。

「いいんじやないでしょうか? 少なくとも、誰も文句を言いそうにないです

し」

地上での宝探しに慣れて、趣味が独特な方向に磨かれたんだろうか——そんな

ことを考えながら、ラーントルクは左手首を軽く回す◦新たな光が生み出され、

緩やかな波線を虚空に描き、警備員のあごを強烈に弾いた。

ぐらりと体を傾け——しかし警備員は倒れない。軽く頭を振って意識をはっき

ぬ とつげき

りさせると、こちらに向き直り、警棒を引き抜き突撃の姿勢をとる。

「へっへ-—。い-—もんゲットしたぜ-—」

ノフトが右手を軽くスナップさせる◦ 5ブラダル硬貨が一枚、限りなく直線に

近い軌道で空を裂いて、警備員の胸元に鋭く突き刺さる◦この追撃には耐えきれ

なかったか、今度こそ、爬虫種は昏倒した。

本来この規模の美術館には不釣り合いな数の警備が、『ン•ゲНン後期作品

展』には詰めていた。そしてその悉くは、雑談めいた会話の片手間に、ラーント

ルクとノフトの二人に制圧されていつた。

「——んで?今さらだけどさ、このエセ美術展に、どういう用事があんだ?」

びん、と指先でコィンの一枚を宙に放りながら、ノフトが尋ねる。

「盗品、というか略奪品ですが◦いくつかの重要資材や極秘資料を飛空艇から

奪つた者たちがいます。それを、護翼軍よりも先に取り戻したいと思いまして」

「は?なんでだ?」

「知りたいからです。この空はどこへ向かおぅとしているのか。浮遊大陸群はこ

の世界の残り火、ではその残り火の意志はどこに向かっているのか」

「いや……いきなりポエムなこと言われても、わかんね一し◦最初から説明して

くれよ、最初からさ」

「それやつたら、ノフト、寝ません?」

「寝ね一よ!この状況で居眠りできるほど図太かね一よ!」

軽い拳で警備兵を一人昏倒させながら、ノフトは抗議する。

ラーンは少し考えて、話を組み立てる。

「以前に、浮遊大陸群を維持していた地神の話はしましたよね◦実は、今から三

年ほど前、失われていた最後の地神である翠釘侯が見つかっていたそぅです」

「はああ?」

なんだそりや、という顔。

「なんだよ、いい話じやね一か。その、なんとかいう神さまの家族が全員そろっ

たんだろ? みんなでテーブル囲んで神さま鍋とか食えるようになったんだ

ろ?」

どうだろう。そもそも彼らが鍋を食べるような存在なのか、ラーントルクは知

らない。

「しかし翠釘侯は、死亡状態にありました」

「あん?不死身じやね一のか?」

「もちろん、そうです。しかし時間があれば力を取り戻す不死不滅の存在である

地神の彼が、死亡状態のままで固定されていました◦かつての地神と人間種との

戦いの際、おそらくは人の勇者の手によって」

「/っへぇ……やっぱ色々ととんでもね一な、人間種」

それには、ラーントルクも同意する。

絶滅したはずの人間種、その最後の生き残りに、ラーントルクは会ったことが

ある。言葉を交わしたこともある◦どこか飄々として、本心を悟らせず、けれど

不思議と印象に残る、そんな男性だった。

……いや、今はそんな思い出に浸っている場合ではない。脳裏の回想を振り

切って、

「当然、大賢者たちは、翠釘侯の蘇生を試みました◦不滅存在を殺し留めるとい

ぅ、セニォリスにも迫るレベルの世界改竄が施されていたそぅです◦神々はそれ

を解除し、不死存在である翠釘侯が蘇るのを待ちました」

「あ一。本題はまだか?」

ラーントルクはくすりと笑い、

г翠釘侯の内側から、〈獣〉が出現しました」

ちんもく

ШН ハ

「さっきから話がいちいち過去形だったのは、それか」

「神々の領域の戦いにおいて、力の強弱はさほど意味を持ちません◦肝要なのは

相性とタィミング。いずれも、最悪に近い状況だったと推察できます」

ラーントルクは首を振る。

「2番浮遊島にいた全ての神々と大賢者は、それ以来、力の一切を外部に対して

行使出来ていません。維持する力を失い、これまで浮遊大陸群を形作っていた世

界結界は、いま急速に、失われつつあります」

少しだけ目を伏せ、

「……神ではない不滅存在のひとつが身を挺して崩壊を食い止めてはいますが、

大山の崩壊に蟻が立ち向かうょうなものです。わずかに速度を緩めることしかで

きていません」

「で、その残り時間が昨日言ってた『あと二年』ってことか」

二年。

決して長命ではない妖精たちにとっても、長いとは言えない時間だ◦ょり長い

寿命を持つ者たちにとっての体感では、さらに短く感じられることだろう。この

浮遊大陸群自体の歴史と比べるなら、一瞬にも等しい。

「この2番浮遊島の内情について、知り得た者はほとんどいません。つい先日ま

で、護翼軍上位においても、ただ『三年前から2番浮遊島と連絡がとれない』と

だけ認識されていました......もともと連絡の乏しい場所であることもあり、さほ

ど重要視もされていませんでした。いまの一連の話は、現段階でも、最上位の規

制対象です」

広く知られたところでパニックを誘発するか、あるいは至天思想をより広める

結果になるだけだ——といぅのが、5番浮遊島の判断だった。それが正解であっ

たか否かは、まだわからない。

「残り二年。二年ねぇ。あたしら的には微妙な感じだな◦そもそも自前の残り時

間が、せいぜいそんなもんだろ一し」

「最期の時も、寂しくはないかもしれませんね◦特に嬉しい話でもありません

が」

だ^1

「ほかに誰が、その話を知ってる?」

「商会では三人。軍の中では、五人の将官と、一位武官の一部◦あとは私と、ア

イセアと、あなたと、数名の狼藉者」

「アイセアもか?」

「ええ◦少し前、短い間ですが妖精倉庫に戻り、彼女に相談しました。『そうで

なくともややこしい時期に、とびつきりややこしい話を持ち込んできてくれたも

んつすねえ!』と頭を抱えていましたが」

そのアイセアの姿は容易に想像できたし、その気持ちにも容易に共感できた。

「アイセアは今、38番にいるとさ。エルピスの残党を追いかけてるとかなんと

か、テイアットが言ってた」

「彼女は彼女で、動いているのでしょう。そうこまめに連絡をとるわけにもいか

ないので、信じることしかできませんが」

つか つ

ふう、とラーントルクは疲れたょうな息を吐く。

「なんで、あたしを巻き込んだ?」

「頼りたいからですょ、もちろん。本当はもっと早くに相談したかったのです

が、グリックさんと地上に降りてばかりでなかなか捕まえられなくて」

「つ一てもな。あたしにできることなんてほとんどね一ぞ◦ラーンたちみたく考

えんのは苦手だし、神経も図太かね一し、肝が黒くもね一し◦まだ生きてんなら

パニバルあたりを引っ張り戻したほぅが、まだなんぼか——」

火薬の炸裂音を聞いた。

ノフトの立った場所のすぐそば、陶器の壺がひとつ砕け散った。

「——っとぉ」

物陰に飛び込む◦火薬銃の散発的な発射音、近くの壁や絵画に次々に穴が穿た

れる。

「うっわ、もったいね一」

「ですからこれは全て安物だと」

「だからそ^~ゆ^~問題でもね^~~だろって^」

素手で止められる侵入者ではなさそうだということになつて、慌てて火器を持

ち出してきたのだろう。とはいえ、聞こえてくる音の不安定さからして、どうや

ら手入れすらろくにされていない旧式銃。使い手の練度も推して知るべし◦脅威

ではない。

妖精を何匹か——勝手に分裂と融合を繰り返すので正確な数に意味はないが

——生成し、放り出す。きゃらきゃらと楽しそうに笑いながら妖精たちは飛翔

し、火薬銃の撃ち手の手元で炸裂する。

「ともあれです。先の通りこの件については全てが水面下で進行しています◦そ

うでなくとも護翼軍が迷走しているいま、思惑は錯綜し、情報もまとまっていま

せん。大賢者様が沈黙した今、私の立場から知りえることも限られている。より

多くの情報と、信頼できる相手の確証が欲しいんです」

「いや、だから、そ一ゆ一話なら、あたしは力になれね一って話を」

「信頼する仲間に、肩を並べてほしかった◦それでは不足ですか?」

「......おま、えなあ」

すり^—よな-~そういうのさ一真顔で言うなよな一、などと小声で文句を漏らし

ながら、ノフトはそっぽを向く。少しだけ、顔が赤い。

この娘はこういうところが好ましいのだ、とラーントルクは思う◦粗雑に振る

舞っているように見えて、どこまでも人懐っこく、人に頼られることが大好き

で、何よりそういうところをまるで隠さない。自分とはずいぶん違う。

ひとつ、大きな扉の前に立つ。

ノブを回し、引く。鍵がかかつている◦小さく魔力を熾し、強めに力を込め

る。鍵が壊れ、ノブごと引き抜かれる。

扉の向こうには、美術品の倉庫——に見せかけた、盗品の集積場◦並べられた

刀剣類は、どう見ても芸術性よりも実用性を重視して作られた無骨なもの。木箱

に詰められた大型の火薬銃などは、芸術性を認めてもよいかもしれない洗練され

たフォルムをしているが、それでもこの美術館の雰囲気に嚙み合うものとはとて

も思えない。

「この部屋か?」

「ええ、そのようです」

ちらた

木箱の中身をひとつひとつ検めながら、ラ^ントルクは考える。

(——終わりの時を前にして、誰もが一致団結して立ち向かうようであれば、こ

んな苦労もしなくていいのですけど)

実際には、世の中はそういう風には出来ていない。むしろ、真逆と言ってい

V

倫理だとか協調だとか道徳だとかは、生きる余裕がある者が、その余裕を維持

するために持つものだ。避けがたい終わりを目前にしたとき、多くの者は、それ

ぞれが心の奥底に抱え秘めていたものに向けて動き出す◦足並みは揃わず、傍か

らは混乱としか見えないような祿相を呈する。

逃げる、惑う、立ち尽くす、自ら命を絶つ、隣人を脅かす、欲しいものを得る

ために尊厳を捨てる——などなども、その一環◦至天思想がさらなる流行を遂げ

ることになるのも間違いない◦だからこそ、浮遊大陸群を守護する者がもはやい

ないというこの話は、極秘のうちに扱われなければならないのだ。

この話を聞いたアィセアは、もう無理のできない体を強引に動かしてまで、最

前線で姉妹たちとともに戦うことを選んだ◦そしてラーントルク自身は、こうし

て浮遊大陸群の薄暗いところに身を浸しながら、知りたいことを追いかけるとい

う生き方を選んだ。

そういうものなのだろう、と思っている。それでいいのだろう、と思ってい

る。

だから、時折、考えてしまう。

世界の終わりについて、ラーントルクよりも詳しく知る女が、一人いる。

彼女は、その知識を受け入れたうえで、不可解な行動をとっている。あれは果

たして、どのような望みと、どのような願いのために、行われているものなの

「オデット-」

オデット•グンダカール。

2番浮遊島に異変が起きたあの時に、5番浮遊島に滞在していた客人。最も早

く世界の終わりについて知り得た者の一人。

バロニ=マキシの紹介で、一度だけ、話したことがある。共通の知人の話で、

盛り上がったこともある。その時に受けた印象は、明るく笑う人——正確には、

明るく笑う演技もできる人。その胸の内に本当に抱えていたものについては、わ

からなかった。読み切れなかった。

明らかに世界に敵対し、明らかに世界に害を為そうとしている彼女が、何を

知っているのか。そして、果たして世界に何を望んでいるのか◦それを、こと今

に至り、まだラーントルクは理解できていない。それだけの判断材料を、手元に

揃えていない。

「……この美術館は、外れですね」

木箱の一通りの確認を終えて、ラーントルクはそう結論する。

「略奪品の一部しか置かれていない。どうやら、他の集積場も見に行かなければ

ならないようで……」

「--なんだこりゃ?」

ラ^—ントルクの言葉を遮るように、ノフトが、何やら小箱をひとつ拾い上げ

る。

「やたら緩衝材で包んでたくせに、中身はこんだけかよ◦酒瓶か何か……にして

もちっちぇ^—な。ん^ —、香辛料あたりか?」

「ノフト。私たちは強盗に来たわけではないんです。目当てのもの以外に手を出

してはいけませんよ」

「別に、持ってくわけじやね一っての◦面白そ一なもんがあったら、見るだろフ

ツ,一?」

「サルべージャーの習性を、さも常識のよぅに言わないでください」

小言めいたことを言い続けるラーントルクにはそれ以上構わず、ノフトは小箱

をひっくり返し、ラベルを読み上げる。

「え一と、『エルビスの小瓶』?」

-/て?

弾かれたよぅに、ラーントルクは振り返る。

「よくわかんね一な。宝石って感じでもね一し。伝統工芸品とかか?」

ノフトは小箱の蓋をこじ開けると、中身をつまみあげ、しげしげと眺める。

薄い硝子の中に閉じ込められた紫包の水晶が——あるいはそぅ見える何か

が、光を照り返し、静かに輝いていた。

7 •共同納骨廟

フエオド^—ルが、目を覚まさない。

声をかけても、体をゆすっても、反応がない。

耳を近づければ、浅くかすかな——今にも途絶えてしまいそぅな不安定な呼吸

が聞こえる◦まだ、死んでいるわけではない◦だが、それも時間の問題なのだろ

、っ0

彼は、失われつつある。

フエオドール以外に繋がる縁を持たない今のラキシュにとつて、それは世界そ

のものの終わりに等しい。地面が崩れていくような絶望が、足をすくませる。

背後で気配が動く。静かに、//スパーダ/,が部屋を出ようとしている。

「ねぇ」

背中越しに呼び止めた。

ひゅい、という悲鳴じみた音と、足を止める気配。ラキシュは続けて、

「ひとつ教えて。オデットさん、と言つたかしら、あの白い女の人。フエオドー

ルのお姉さんで、あなたの一i用主なのよね?」

「え、あ……それ違う、です一

大きな黒い耳が、怯えたようにぴくりと震える。

「オテットさんはその......ワタシにとつてもお姉さんてすあのもちろ

ん、その、血はつながってない、ですけど」

血は繋がっていないけれど、お姉さん。

その言葉選びに何やら意味深なものを感じ取れなくもないし、率直に言えば興

味はあるけれど、その辺りの細かいところまでを追求する気はない。その時間も

ない。

「まぁ、何でもいいわ。そのお姉さんのオデットさんなんだけど」

怯えたような気配に、若干の罪悪感を抱きつつ、尋ねる。

「あの人ともう一度会いたいのだけど、どうすればいいかしら?」

えっ、と/スハ^ —ダゥは息を吞んだ。

「フエオドールのことで、訊きたいことがあるのよ。それと、彼女のほうも、私

に言いたいことがあると思うの」

無言のまま。

そして怯えたような表情のまま、々スバーダ//は、まっすぐにこちらを見てき

た。鋭いとはとても言えない遠慮がちな視線が、それでもラキシュの心中を測ろ

うとしている。仮面越しであっても、そのことがわかる。

フエオドールのことについて、この娘も、決して譲れないものを持っている。

——と、本人からはっきり聞いたわけではないが、ここまでの短い付き合いの中

で理解している。だから簡単には言葉は引き出せないだろうということと、だか

らこそ必ずこの話を聞き流さないだろうということが、両方とも確信できてい

やたら長く感じる数秒が経った。

がさり、//スパーダ//は手にしていた紙束を——新聞紙を広げる。コリナディ

ルーチェ市内の大手民間新聞社が発行しているものだ。ぱっと眺めただけでも、

棣々な見出しが目の奥へと飛び込んでくる◦護翼軍と正体不明の一団(帝国の兵

だといぅことは伏せられているらしい)が市街地戦を続けていること。対する市

長の姿勢を弱腰だとして、罷免を訴える一団があること◦至天思想の教書とされ

る本がひとつ新たに、流通禁止書籍に加わったこと。元貴族の富豪が一人、違法

動物の島間輸送を行っていたことが発覚したこと。

世の中は動いているのだと、ぼんやり思ぅ◦自分たちが立ち止まっていても、

もがいていても、そんなこととは関係なく、時は流れてゆく。

とはいえ、今はそんなことを考えている場合ではなく、

「——どれを見せたいの?」

問われ、//スバーダ//が開いて見せたのは、見開き一面に広がる、大量の私事

広告欄。山のよぅに並んだ三行記事、そのほとんどはアルバィトの募集記事や身

内の慶弔報告だが、その中にいくつか、暗号めいた文章が——あるいは暗号その

ものの文ifが、紛れ込んでいる。続けて小さな指が示した先には、

「『白猫が五匹、黒猫が七匹の子を産んだ、引き取り手を水の日の六の刻まで待

つ』……って、これが、何? 猫、欲しいの?それにしては連絡先とか書いて

ないけど」

「オデットさんが、ワタシを呼んで、るです」

意味がわからない。眉をひそめる。

「不慮の事故でばらばらになった時に備えて、合い言葉いろいろ、決めてたで

なるほど、と思いはする◦手紙のやりとりなどが難しい状況であれば、新聞と

いう媒体は確かに便利な通信手段となりうるだろう。しかし、それにしては外連

が強いというか、他にもうちょっと手軽な選択肢があったのではないかと思った

りもするのたが、

「これは、『待ち合わせ場所、五番の七番で、今日の八時に会おう』って意味

で」

その辺りについても、やはり、いちいち追求してはいられない。

「今夜、八時に」

「はい。五番共同納骨廟、七番分区で、オデットさんに会えるです」

「そう......」

天#^を仰ぎ、少し考える。

「ティアットさんにも教えるてす力?」

「ぃぃぇ」

視線を下ろさずに、そのまま目を閉じて、答える。

「あの子には、いまはフエオドールの隣にいてほしい。二人だけで、行きましょ

ぅ」

fT

浮遊大陸群に住まぅ数多くの種族は、それぞれに独自の死生観を持ち、それぞ

れの埋葬法を伝えている◦だが、互いに相似する文化を持つ種族や、そもそも

別々だったはずのものが長い時の中で融和したり、ひとつだったものが分裂した

りした例もあり、一概に「全てがバラバラだ」とは言いづらい。

共同納骨廟は、市民のほとんどを占めている獣人種族が最もスタンダードに親

しんでいる埋葬法である「遺骨を保管する」風習に対応している、市営の地下墓

地だ◦最初は小さな地下室のようなものだったらしいが、長い歴史の間に建て増

しを繰り返し、今では市内の八か所に点在する、合計九十分区もの広さの大建築

群となつている。

乾ききった屍は、臭いを放たない。左右を問わず、無数の棺が並べられた地下

道には、土の臭いだけが充ちている。

パンフレットによれば、一番から三番までの共同納骨廟は、観光名所としても

開放されてレるのたとレう古くを生きた人々のことを想レな力ら憩レのひとと

けん へいS

きを、などというコンセプトのもと、何軒かのカフェも併設されているとかなん

とか。

あまり趣味のいい話だとは、今のラキシュには思えなかった。

「......ここに、親族でも眠っているの?」

ややうんざりした声で、その問いを投げかけた。

「ぃぃえ?」

あっさりとした答えが返ってきた。

「少なくとも、血の繋がりって意味なら、完全に無関係ね。私もフェオドール

も、純度百パーセント混じりっけなしの、エルビスっ子だもの」

薄暗い納骨廟の中、溶け込むょうな黒い装束と、浮き上がるょうな銀の髪。

オデット•グンダヵールが、確かに、そこにいる。

「先日会ったわね。ラキシュちゃん、だったかしら。うちの愚弟の恋人の」

「そんな大層な関係じゃないの、残念ながら。私が一方的に、身と心を捧げたい

と思っているだけ」

「私が呼んだのはリッタ——クスパーダ//ちゃんだったはずだけど?」

「そういう腹の探り合いは、なしにしましよう。私がここにいる理由も、あなた

に何を尋ねようとしているのかも、見当はついているんでしよう」

オデットは微笑み、何とも返答してこない。

「いくつか、訊きたいことがあるの」

「あら怖い。私に答えられること力しら?」

とぼけたことを言う。

ラキシュは小さく息を吞むと、用意してきた言葉を並べ始める。

「目的を、聞かせて」

「クスパーダ//ちゃんを呼び出したこと?もちろん、心配だったからよ。信じ

てもらえるかはわからないけど、あの子のことは本当の妹みたいに——」

「そんな話は、聞いていないの」

ラキシュは首を振って、

「妖精の調整技術を求めている。それをエサに帝国に取り入ってもいる。フエォ

ドールの近くに出没している。でも協力してくれるわけでもないし、敵対するわ

けでもない。何をしたいのかがわからない。クスパーダ/,のことだって、そぅ」

あお

当のクスパーダ//本人の姿は、ここにはない。ラキシュは煽るょぅに手を振っ

て、

「身内として心配しているなら、危ないことなんてさせるべきじやないわょね。

護翼軍の拠点に単騎潜入させるなんて、いいえそれ以前に、あなたみたいな立場

のひとが連れまわすこと自体、使い捨ての壁にする気にしか見えないけれど」

г……あれは本人の希望なんだけど。ま、傍からだとそう見えるわよね」

オデットは、ちよっとだけ困ったような顔をして見せる。

「そうねえ......フエオドールの、ちよっと前までの目的は知ってる? 浮遊

大陸群の全ての住人に、自分自身で〈獣〉と戦う覚悟と力を持ってほしい。その

ためには、浮遊大陸群を間引く必要がある——って」

「ええ」

ラキシュは頷く。

「どう感じた?幼稚だとか、短絡的だとか、独善的だとか思わなかった?」

「そうね◦でも仕方がないでしよう? 大人のやり方でまっとうに世界を変える

には、時間がかかってしまうもの。彼は、私たち妖精に時間がないことを——」

ぶふっ、とオデットが吹き出した。

「-おかしなことを言つたかしら、私?」

「ええ、そうね、少しだけ。ラキシュちゃん、年に似合わずけっこう達観してる

みたいだけど、それでもやっぱり、自分たちのことはあんまりよく見えてないん

だなって」

からかわれている。

> ^ 、0、、こП

だが、ラキシュの心に、怒りや苛立ちは、湧いてこなかった◦それより先に心

を表面を撫でたのは、恐怖にも似た不安。

オデットの瞳の中に、昏い炎がちろりと揺れる◦それが、それこそが、怒りや

苛立ちを孕んだものであると、ラキシュは察する。

「大人のやり方でまっとうに世界を変えるには、時間がかかる。そうね、まった

くその通りよ。そこまでわかっているのに、その先にまでは思い至らないのね。

フエオドールもあなたも、時間の余裕なんてまったくない身でしように」

「何、を」

「幼稚さも、短絡さも、独善っぷりも、まるで足りていないと言っているのよ」

静かな、なのになぜか、どこまでも力強く聞こえる言葉。

「さっきの質問の答え。私の目的はね、フエオドールとほとんど同じ」

優しい、なのになぜか、どこまでも激しく叩きつけられてくる言葉。

「浮遊大陸群の全ての住人に、自分自身で〈獣〉と戦う覚悟と力を持ってほし

い。それも、できるだけ早く。明日にでも、/っ/っん、今すぐにでも◦帝国に少し

肩入れしているのは、それが短絡的なやり方だから」

「それは、どう、いう:••••」

「具体的な方法を知りさえすれば、帝国はすぐにでも、戦力を爆発的に拡大させ

る。一度そうなったら、周りの国も力を持たずにはいられなくなる。状況につい

ていけない都市があれば、〈獣〉ょり先に周囲の都市に滅ぼされる◦妖精の調整

技術ひとつを広めるだけで、おそらく半年もしないうちに、浮遊大陸群のほとん

どが〈獣〉と最低限戦える戦力を整えると私は読んでいる」

ラキシュは考える。この女の言う理屈はシンプルで、そして、前提と結論以外

に破綻はない◦現代の浮遊大陸群の政治状況についてラキシュの知識にはない

が、半年弱という具体的な読みについても、説得力を感じる。

オデット•グンダヵールは嘘吐きだ。その知識があってなお、今のこの気迫に

満ちた言葉を、ラキシュは疑えない。

「……質問は、それで全部かしら?」

「ぃぃぇ」

負けるな。ぺースを奪われるな。

自分に言い聞かせるように、首を強く振る。

「フヱオドールが、昏睡しているの」

短ぃ1|1。

「そう」

淡々とした、熱のない士严0

「彼が気を失う寸前、私は、幻覚のようなものを見た。あなたがフヱォドールに

忠告をしていた。彼は、自分が壊れかけていたことを知っていた。あなたがその

ことを指摘し、解決法を教えていた」

思い出す。目の前でフエォドールが倒れたあの瞬間に、自分が見たもの。

-あの子を、早く殺しなさい。

——放っておけば、あなた自身の人格が突き崩されて、なくなっていく。

——解除の方法は簡単ょ。相手を殺してしまえばいい。

あの瞬間には、わけがわからなかった。それこそ、動揺が引き起こした一瞬の

混乱でしかないのではと思いもした◦しかし少しだけ時間が経った後に気づい

た。あれは、自分の中にあるラキシュ•ニクス•セニォリスの記憶と同じ種類の

もの。つまり、記憶や精神を自分と共有している誰かの記憶だったのではないか

と0

そして、その誰かと呼べる相手は、この場合、フエォドールのことなのだと。

「つまり、あな」

速さではない。正確さでもない。もちろん力でもない。まぶたを閉じてまた開

く、そのわずかな意識の空隙にねじこんで、オデットが動いていた。

気がついた時には、ラキシュのすぐ目の前に、白い堕鬼種の顔がある。そし

て、

「——っと」

ラキシュは気づく◦意識と視界の両方の死角、肋骨の下からほとんど垂直に突

き上げるような角度で、ナィフが迫つている。身を反らして逃げられるだろう

か?無理だ、突然に間合いを詰められたことに体が驚いていて、体重移動が間

に合わない。二本の指で挟んで止められるだろうか?無理だ、それだけの魔力

を熾す、時間の余裕がない。

それ以上のうまい対応手を検討するような時間もない。

半ば無心となつて、ナィフの軌道中に、ただ右の手のひらを滑り込ませた。

焼けるような痛み。半呼吸にも満たないわずかな時間では、相応にわずかな勢

いの魔力しか熾せなかった◦だから、本当にわずかな防御しか施せなかった。

切っ先は皮を破り、肉を裂いて、そこで止まっていた。

妖精は死を恐れない、がそれはそれとして、痛いものは痛い。苦痛に顔を歪め

ながら、目前の、微笑む堕鬼種の顔を睨みつける。

傷から血が流れる◦血はナィフの刀身を流れ、柄を伝い、そして床へと落ち

る。

ぼたり、ぼたり、ぼたり。雨だれのようなその音を、どこか遠くの出来事であ

るかのように聞く。

「今の」ゆっくり、尋ねる「防いでなかったら、致命傷だったわよね?」

「ええ、そうね一

堕鬼種の女はまだ笑っている。

「寸止めする理由も、手加減する理由もないもの。少なくとも私にはね」

「悪びれもしないわけだ」

「そぅね。ちょつと性急だつたことくらいは、謝つてもいいかしら。ごめんなさ

ぃ」

ナィフを引いた。ランタンの小さな灯りを、刀身が赤く照り返す。

「それじゃ、改めてお願い。ラキシュちゃん、死んでくれないかしら?」

「弟についた虫を払いたいのはわかるけど、ずいぶんと言葉選びが過激なの

ね?」

「ん一、そぅじゃないの◦虫の種類をえり好みできるほどいい男でもないもの。

あのクール風味熱血バヵに付き合ってくれる女の子がリッタちゃん以外にもい

るってことは、個人的にはとても嬉しく思つてるのょ?」

でも、そうじやないの-そう言って、オデットはナィフを軽く振る。

「わかってるんでしょう? あなたがそばにいるだけで、あの子は死に近づいて

ぃく」

......わかっている。

その予兆を、何度となく感じてきた。その予測に、何度となく行き着いてき

た。それらが確信に変わったからこそ、ラキシュは、オデット•グンダカールに

会うと決めた。

「あなたと繋がつていることが、負荷となつている◦心というものは、本来、自

分の内側で完結しているはずのものよ◦わかり合うとか通じ合うというのは、お

互いに関するよく似た錯覚を、たまたま同時に抱いたというだけのこと。本当に

心を混ぜ合わせるなどということは、自我の放棄にしかならない。……と、こん

な話は、あなたたちのほうも結構詳しいのよね?」

そうだ。ひとつの精神にふたつ以上の自我は収まらない。通常、前世の侵食を

受けた妖精は、自我を……ひいては命自体を、簡単に食い荒らされてしまう◦壊

れながらもかろうじて「一人分」の自我らしき形を留めている自分の存在は、例

外中の例外。何の参考にもなりはしないのだ。

「それを......フエオドールに、教えたのね?」

「ええ、もちろん◦死にたくなかつたら、早くラキシュちゃんを殺しなさ

い……つて。あの子自身のことなんだから、あの子自身がやるべきだと思つた

し」

共同納骨廟には、無数の棺と、その中に死体が収められている。数えきれない

死に包まれ、見守られる中、ラキシュの傷から血は流れ続ける。

「でも、無理だったわけ◦ほんと、ダメな子よね。そぅ思わない? 仲のいい女

の子を一人殺すだけのことすらできないくせに、大陸群を墜とすとか、言ってる

ことだけは大きいのよ?」

「彼を……」一瞬、声がかすれた「彼を馬鹿にしないで」

「するわよ、その権利があるもの」

互いに息がかかるほどの距離にあったオデットの顔が、遠ざかってゆく。

「フエオドールはね、『妖精たちを武器にはさせない』って言って、私に敵対宣

言したの。そして私もそれを受け入れた。けどね、私としては、少なくともあと

半年はあの子に生きていてほしいのよ。私が私のやり方で変えた浮遊大陸群を、

あの子の目でちゃんと見てほしい。だからもちろん、わざわざ殺しに行ったりす

ることもない。......さっきラキシュちゃんが私の目的を知りたがったのは、つま

り、それを確認したかったんでしょ?」

その通りだ。

「あの子が自分でできないっていうなら、ラキシュちゃんを殺すのも、私がやっ

てあげるしかないのかなって。あんまり甘やかすのもどうかと思うし、今回だけ

ね」

「ま……待ってください、です!」

ラキシュの背後。納骨廟の闇の奥から、小柄な影が飛び出してきた。

「何の話、してる、ですか!?: オデットさん、さっきから何、言ってるです

かР:」

「リツ——」

その瞬間、オデットは驚いた。少なくとも、そう見えた。

リなんとかと呼ばれかけた//スパーダゥは、仮面を外していた。徴の薄い、幼

い少女の顔が露わになっていた。顔は栗鼠のそれだとばかり思っていたのに◦小

柄だったのは種族のせいではなく年齢のせいか◦それらのことに、ラキシュも驚

ぃた。

この少女は、小柄である。そして、おそらくはこれまでの生活がそういうもの

だったせいだろうが、薄闇に潜むことに、やたらと長けている◦そうでなくとも

視界が頼りにならないこの納骨廟、この少女が本気で身を隠したならば、そうそ

う簡単に見つけられるものではない。

そしてオデット•グンダカ^—ルは、フエオド^ —ルの姉なのだ◦できることもで

きないことも、弟に似ている。余裕のある態度で自分の手札を隠すことは上手い

が、手札そのものが非常識に多いというわけではない。できることと、できない

ことが、ある。

「——クスパーダゥちやん……いたのね」

一瞬の動揺を、あの静かな微笑ですぐに塗り隠した。

「教えて、くださいです。オデットさん、何、してるですか」

ちらりとラキシュを見て、表情を青ざめさせる。

「ラキシュさん、怪我してる」

「……おっけ。説明してあげる」

覚悟を決めたょぅな顔で、オデットは、ナィフを握っているのとは逆の手を差

し伸べた。白く細い、汚れらしい汚れのまるで見えない、そんな手。

「だから、行きましょぅ」

その手の白さを、クスパ^ダゥは無言で見つめている。

「あなた、昨日護翼軍基地に入ってから連絡がとれなくなったじやない?ちや

んと安全なところに潜ってるのかなって心配してたのょ。教えてなかった予備塒

を使ってたっていうのは、ちょっと盲点だったかしらね」

「......オデットさん」

「というかね、本当に、もう危ないことはしなくていいんだからね? 私、そこ

そこ頼りになるお姉ちやんのつもりなんだから。あなたが欲しい情報は、私が代

わりに」

「ワタシ、優しいオデットさんのこと、大好きです。でも」

少女は、一歩を、退いた。

その一歩の分だけ、オデットから距離を広げた。

A Jつ

гワタシにだけ擾しいオデットさんのことは、怖いです」

きょぜつ

明確な、そして単純な、拒絶の言葉。

一瞬。ほんの一瞬だけ、堕鬼種が今にも泣き出しそうな顔をしていたように、

ラキシュには思えた。まばたきをひとつしてから改めてよく見れば、そこにある

のは先ほどまでと何も変わらない、曖昧な微笑み。

「仕方がない、わね。気づかなかったのは、私の落ち度だもの。結果は受け入れ

ないと」

妙に明るい声でそう言って、オデットはくるりと踵を返す。

「元気でね、リッタちやん。これは、嘘とかじやないから」

歩き出す。共同納骨廟の奥、ラキシュたちからは離れる方向へと。

г......私を殺すんじやなかったの?」

その背に問うと、

「もう殺したわ」

あっさりとそう返してきた背中が、すぐに、闇の中へと溶け消える。

ラキシュは、空——は見えなかったので、その場の天井を仰いだ。

やっぱりね、と思う。

最初から、わかっていたはずのことだ。自分は、本来、存在していてはいけな

いモノだ。壊れてしまった妖精は消えるのが運命。こうやって在り続けているこ

と自体が間違っている。その間違いのッヶを、フエォドールが支払い続けてい

る。だから、このまま自分がここに居続ければ、遠からず、彼は命を落とすこと

になる。

あの女は、言う通り、確かにラキシュを殺していったのだ。

こんなことを知らされて、まさか、これ以上フエオドールの隣に生き続けるこ

となど、できるはずがないのだから。

——私は、いつまであなたの隣にいられるのかしら。

——君が僕に愛想をつかしてくれるその時まで、かな。

-つまり、死が二人を別つまで、って?

——あ一……えと、裏とか追及しないで言葉通りの意味でなら、そうなる、

ね?

ほんの数日前に、二人で交わした言葉。

もう、はるか遠い昔のことのように思える。

あの時に既に、覚悟は決めていたはずだ◦永遠を望めるような立場ではない、

だからその時が来たならば、素直にフエオドールの隣から消えてなくなろう◦そ

して、その時が来るまでは、その幸せを、胸いつぱいに嚙みしめていようと。

そして、当然のように、その時は来た。それだけだ。と、

「さあて、どうしようかしらねつて痛つ!?:」

黒い少女、フエオドールがクスパーダゥと呼びオデットが//リッタちやん//と

呼んでいた彼女に、いきなり手を摑まれた。

「泌みるですけど、がまんしてください、です」

傷口に、いきなり、おそらくは消毒薬であろう液体をぶつかけられた。次い

で、簡単な止血。それから、湿布と包帯がぐるぐると傷口を覆う。

「手慣れてるのね」

「たくさん、やつてきましたから」

少し、声が重い。

(練習してきた、ってわけじゃないのね……)

深くは詮索するまい、と思う。あまり、思い出して楽しい過去ではないだろう

と思えたから。

г••••:ひゃいっР:」

突然、耳に何かが触れた。

驚きの声に驚いたか、その何かは、すぐに引っ込んだ。

黒い少女が、自分のすぐ目の前で、ちょっとだけ背伸びしているのに気づく。

そんなことに今まで気づかなかったくらいに周りが見えていなかったのだという

ことにも、ついでに気づく。

「な、何р:」

「あ、ごめんなさい、です」

慌てて、その少女は距離を離す。

「その……つらいときつて、耳のぅしろ、さわると落ち着くます、から」

よく見ると、目の前の少女の頭の上には、ふわっとした毛に包まれた立派な猫

の耳。

「あなた……猫徴種?」

「わからない、です。お父さまもお母さまも、お兄さまたちも、立派な徴無しで

した。ワタシ、だけ、よくわからない」

大きな耳が、まさに落ち着かなそぅに、小刻みに揺れている。

悪戯心が湧いた◦その耳の後ろ、根本のあたりに手を伸ばす◦少女は一度大き

く体を震えさせたが、もともとは自分の言い出したことだからか、おとなしくラ

キシュの指に身を委ねる。

ぎゅつと目を閉じるその姿を見ていて、素直に可愛いなと思ぅ。

可愛いなと思ぅその気持ちが、いくつかの記憶を連鎖的に引きずり出す。

「......アルミタ」

「え?」

「ユーディア。イルストj卜。デイルフェイ。マシヤ。サリヤ。ェクルエク

次々に頭に浮かぶ名前を、手あたり次第に並べていく ◦それはすべて、『ラキ

シュ』の記憶の中にある、現代の妖精倉庫に生きる妹たちの名だ。

今ここにいるラキシュは、自覚の上では、ほぼエルバ•アフエ•ムルスムアウ

レアの人格を主軸にして存在している。そのせいで、『ラキシュ』の記憶はどこ

まぶ

となく遠く、よそよそしい絵空事のよぅに感じられる。眩しくて温かくて大切な

思い出も、色の褪めた絵画のよぅにしか感じられない。しかしそれでも、それが

美しくて眩しい景色であることには変わりがない。

ラキシュにとってのあの子たちは、今を生きる、幸せになってほしい妹たち。

エルバにとってのあの子たちは、かつて自分たちが願った通りの、幸せな未来を

勝ち取れた後の妖精たち。

会いたい、とい、っ気持ちが湧いた。

今さら戻りたいとは、あるいは輪の中に入りたいとは、思わない。けれどせめ

て、ひと目見るくらいのことはしたいと思つた◦けれどそれは叶わない願い。な

ぜなら自分は、フエオドールの命を繋ぐために、今すぐにでも彼の傍を離れなけ

ればならない身-

「......あら?」

気付いた。もしかして、と思つた。

距離◦そぅだ◦距離だ。

フエォドールの体調の変化について思い返す。

例の瞳の力とやらで、ラキシュはフヱォドールの大まかな居場所と状況とを感

じ取れる◦これまで、自分から離れていた間、彼は快調——とまでは言わずとも

激しい不調もなく、悪だくみと活動を続けていたはずだ◦なのに、自分が傍にい

る間、彼は激しく調子を崩していた◦何度も昏倒したところを、間近に見てき

た。

仮説が浮かぶ。

距離を離せば、フエォドールへの負担は大きく減らせるのではないか。

原理はわからない。けれどこれまでの状況の推移を考えると、充分にありうる

話だと思える。少なくとも、自ら命を絶つ前に、試してみるだけの価値はある。

何ょり、これで問題を解決なり緩和なりができれば、『もう、殺したわ』などと

格好のついたことを言って去ったオデットの鼻を明かすこともできる。それは、

ちょっとだけ痛快な話だ。

(離れていても……ううん、離れていれば、フエオドールの力になる方法はある

はず)

辛い決断ではある。目覚めてからこちら、フエオドールの傍にあることだけが

ラキシュの全てだったから。しかし、まさにそのことこそが彼を苦しめている原

因であるというなら、迷うことはない。

物理的な距離を隔てたままで、彼に寄り添うのだ。

まずは、そうだ。38番浮遊島で、『ラキシュ』の友人たちを守ろう。フエオ

ド-ルの手の届かないところにいる、フエオド^ —ルの守りたい者たちを、自分が

代わりに守ろう。

それがうまくできれば、自分はこれから先も、生きていける。自分自身に、

「まだ生きていていいょ」と言つてやれる◦たとえもう二度と彼に会えないとし

ても、それでも心は彼とともにあるのだと信じてやつていける。いや、心が彼と

ともにあること自体がそもそもの問題ではあるけれどそれとはちょっと違う意味

で。ああややこしい。

Г……私、これから、遠くに行こうと思うの」

少女が、顔を上げた。大きな耳が、少しだけ揺れた。

「死人がいつまでも生者のそばにしがみついてるのは、みっともないし。生きて

るほうの健康にもよくないし。ちよつと、行つてきたい場所もいくつか思いつい

たし」

少女の耳から手を離し、

「だからね。隠れ家に戻つたら、フエオドールに、伝言をお願いできるかしら

身を離そぅとした。その袖を、強く摑まれた。

「-スパ1ダ?」

「マルゴ、です」少女は首を振る「マルグリット•メディシス。オデットさんだ

けは、『リッタ』つて呼ぶですけど、あれ、あんまりよくわからない、です」

「え……」

「生まれたのはエルビスの国。生まれてからずつと、そこにいました◦家族はあ

んまり優しくなかつたけれど、大好きなコンヤクシャがいたから、楽しかつたで

す。ずつと一緒にいるつて、約束しました。そういう約束をするからコンヤク

シャなんだつて。でも」

まつすぐに、目が合つた。

濃い黒の差さった、琥珀色の瞳。

「マルゴは、マルグリット•メディシスは、五年前、エルビスの国と一緒に、死

にました。ここにいるのは、同じ名前と思い出を引きずつてるだけの、おばけで

す」

「-そ、っ」

目の前の少女、//スパーダゥ改めマルグリットの瞳を見つめ直しながら、ラキ

シユは思う。「おばけ」という言葉を使つてこそいるが、もちろんこの少女は、

生身の生き物だろう◦正真正銘、誕生のメヵニズムからしておばけそのものであ

る黄金妖精とは、まるで事情が違うはずだ。

けれど、それでも。あるいは、それだからこそ。

まだ生きている身でありながら自らそう名乗るということ、自分を死者だと言

い張ることの意味、その重さを、ラキシュは無視できない。

「お話、よくわかりませんでした。ラキシュさんも、死んでるんです、か? 死

んでるから、フエオド^ルの前から、いなくなるですか?」

「ん......まあ、そうなるかな」

曖昧に、ぅ頷く。

フエオドールは、誰かを大切にせずにはいられない人だ◦自分がその場所にい

させてもらつた。甘えさせてもらつた。だから、もう充分だ。その幸せを、大Ш

な他の誰かに譲ろう。たとえば、そう、ティアットなら。なんだかんだで優しく

て、真面目で、ひととまつすぐに向き合うことのできるあの子なら◦きつと、

フエォドールを幸せにしてくれる。

「ヮタシも……一緒に行って、いいですか?」

「へ?」

間の抜けた声を出してしまった。

「ヮタシも、死人です。これ以上ずるずるフエォドールの傍にいると、そのこ

と、忘れそうになるです◦フエォドールが元気でいてくれてるのがわかった、そ

れだけでもう充分です。それに」

いろいろと堪えているのだろう。今にも泣き出しそうな顔。

「一人ぼっちでいなくなるの、寂しい、です」

抱き寄せる。抵抗もなく、黒ローブがまるごとすっぽりと腕の中に納まる。

「……いきなり二人もいなくなったら、フエオドールが、寂しがるでしようね」

「しかたない、です。フエオド^ —ルは、まだ、生きてるですから」

意見の一致。これは仕方ないなぁ、と思う。

ラキシュは顔を上げて、

「そういうことなんだけど、あなたはどう思う?」

暗がりの奥に、声をかけた。

「隠れる気、そんなにないんでしよう? さっきから見えてるわよ、翼の先っ

ぼ」

悲鳴じみた「んげ」という声。それから少し遅れ、バッの悪そうな顔をした、

見知った鷹翼種の男が姿を現す。

びくりと、腕の中の少女……マルゴが身を震わせる。

「あなたは……確かナックス、だったかしら。フエオドールの友人の」

「そのナックスだよ、覚えていてもらえて光栄。いや、適当なところで顔を出そ

うとは思ってたんだけどさ、雰囲気的にそんな感じでもなかったもんでね?」

「だとしても、Щき見というのはあまり良い趣味じゃないわよね?」

「それを言われるときついなぁ◦俺ら嗱屋稼業ってのはさ、出来合いの情報を右

から左に流すだけじゃ成り立たないわけ◦新鮮なネタを自分の目と耳でつかむ姿

勢を大事にしとかないと、業界の中ですぐに埋もれちまうわけで」

「あまり良い趣味じゃない仕事ってことよね?一

г……返す言葉がないな、そいつは」

ナックス•セルゼルが肩を落とす。

「どうしてここにいるの?」

「だから、ネタの仕入れ◦さっきの彼女オデット•グンダカ^ルの動向、いま熱

いんだぜ。護翼軍にも帝国にも、市の役所にも旧貴族たちにもょく売れる」

「じゃなくて。あなた、38番浮遊島の軍人でしょう?」

「あ一、あれね。あれはやめた」

あつさりと、とんでもないことを言う。

「もともと副業として、依頼されて始めたもんだったからね。その依頼が終われ

ば続ける理由も特になし、と。いやほんと俺ってああいう肉体労働に向いてない

のょ」

わざとらしく肩をすくめる◦その姿をラキシュは細めた目で観察し、

「……ひとつ、お願いしてもいいかしら? あなたはあくまでフエオドールの友

人であって、私の世話を焼く義理はない——けれど、他に頼れる相手もいないの

ょ」

持ちかけてみた。

「行きたい浮遊島が、いくつか、あるの」

「お安い御用……と言いたいところだけど、いまのご時世、港湾区画の監視キッ

ぃぜ?」

「わかってる。だからお願いしたいの。そういう伝手、あるんでしょう?」

瞬間、なぜかナックスの顔から、表情が抜け落ちた。

そう感じた次の瞬間には、そこには曖昧で軽薄な笑みが貼り付いていた。

かつとう

いまナックスの中で激しい感情のうねりがぶつかり合ったのだと、なぜか感じ

た◦表に出さないようにしながら、簡単には下せない決断を、無言で行ったのだ

と0

「いくつか、あるね。ちよっとお金のかかるものばかりだけど……ま、それは後

でフエォドールのやつに請求するから、いいや」

それきり、ナックスは言葉を閉じて、歩き出した。ついてこい、ということな

のだろ、っ。ラキシュはマルゴを腕の中から解放すると、その手だけを引いて、歩

き出す。

共同納骨廟に並ぶ無数の棺と、その中に眼る者たちは、何も語らない。

静かな道の中、歩む三人の足音だけが、棘のように耳元にまとわりつく。

1 フエオド^—

あなたの瞳のことを、聞きました。

私があなたの隣にいることで、あなたを傷つけてしまうとも。

あなたに寄り添うことくらいしか、この身に意味はありません。けれど、その

ためにあなたが苦しむことも、本意ではありません◦だから、私はここを離れま

す。どこか遠く、この#の刃があなたに届かないところへ去ります。

愛の深いあなたに向かってこういうことを言うのが、どれだけ残酷なことなの

かは、理解しているつもりです。その上で、お願いします。

私のことをどう力忘れてください。

隣に残る人のことを、どうか大切にしてください——

г……な」

意識せずに、指に力がこもった。

ぐしやりと、手の中の書き置きが、握りつぶされた。

「なんでそうなるんだよおお!」

フエオドールは、叫んだ。

理屈はわかる。

この瞳の力の危険度は、距離の近さによって増幅される……などという話は聞

いていなかったが、そうなのだと言われれば納得もできる。実際ここに至るま

で、彼女がそばにいるほど頭痛は激しさを増していたし、離れている間には和ら

いでいた。

物理的な距離が離れてしまえば心は通じ合いにくくなる◦そういうものだと言

われればそうなのかと納得できてしまう理屈ではある-世間に大勢いるであろ

う遠距離恋愛中の人々に、少々申し訳ない気もするが。

けれど、そんなものは、知ったことじゃないのだ。頭痛がひどかろうが心が壊

れょうが、それは全部、フェォドール•ジェスマンが引き受けられたはずの痛み

なのだ。今回ぶっ倒れてしまったのは、自分がひ弱だったからでしかないのだ。

自分がもう少しだけ頑丈で、我慢強ければ、何の問題にもならなかったはずなの

だ。

••••:わかっている。この思考は理屈が通っていない。

もっと強ければといくら仮定を積んだところで、その強さを持っていない者の

ところにその未来はやってこない。加えて、仮に超人的な強さで痛みを凌いでい

たとしても、やがてくる死そのものを避けられるわけでもない。どうせ終わりは

やってくる、それが少々早くなったり遅くなったりするだけ。

しかし、それでも、悔やまずにはいられない。

何かができたのではないか。他の未来へ行き着く手段があったのを、見落とし

ただけではないのか。自分の弱さを、ふざけるなと叱責せずにはいられない。

г............っ」

繋がりそのものが切れたわけではない。遠く、ぼんやりと、ラキシュのいるで

あろう方向は直観できる。彼女はまだ生きている。充分に近づけば、もう少し正

確なところがわかるだろう。だから、その気になれば、彼女を追うことは、でき

る。

追って、追いつめて、それから……それから、どうする。

問題は何も解決していないし、彼女の判断を覆すような材料は何もないのだ。

つまり、この情けない男がいくら泣いて追いすがったところで、彼女はすぐにま

たそばを離れていくことだろう。

このまま彼女と距離をとる、彼女に距離をとってもらうのが、総合的に考え

て、一番いいのだ。それは、動かせない事実なのだ。

「でも、これじや……僕が、君を、追い出したみたいじやないか……」

くしやくしやになった書き置きを、再度広げる。

書き置きの隅のほうに、おそらくは々スバーダ//のものであろう、『ついてい

きます』という小さな一文を認める。何で、あの子まで◦何がどうなったらそう

いうことになるのか。理解ができない。想像も追いつかない。

「ねぇ」

その肩に、ティアットの小さな手のひらが置かれる。

「ちょっと、外に出ない?」

fT

風が、前髪をぐしゃぐしゃにかき乱していった。変装用の偏光眼鏡まで飛んで

いきそぅになったので、慌てて指で押さえる。

見晴らしのいい丘の上。

辺りに人の姿はない。ベンチのょぅな気の利いたものも見当たらなかったの

で、草の上に直接尻を下ろした。じんわりと、布越しに冷たさが染み入ってく

「ひゃ丨、いい風!」

楽しそぅに悲鳴をあげて、ティアットがその隣に座る。

Г……そぅだね」

折った膝の上に額を乗せて、フエオドールはつぶやくように答えた。

「あ一ほらほら、顔上げなさい。景色も絶品だから。ここがどこだかわかる?

知る人ぞ知る感じだけど、いちおう有名な場所なんだからね我ながら矛盾してる

けど」

顔を上げて、ざつと周りを見渡して、

「映像晶石のお話で見たことあるな。『発条仕掛けの恋と夢』のラストシー

ン?」

力なく、そう答える。

「そう-—それ*って、え、きみ、あれ観たの!?:」

「義兄さんが好きでね。けっこう付き合わされたよ」

フェオドールの義兄というのは、つまり五年前の『エルビス事変』の元凶とし

て処刑された、エルビス国防空軍副団長そのひとである◦後の知識人がこぞって

勝手な人物像を捏造してくれていたが、私人としての彼は、完璧なまでに気さく

な、良い義兄だった。

「そこの木陰で、主人公の自動人形が壊れたんだよね? 街の人たちに見守られ

ながら」

「そう-— そうそうtうそう-—」

こくこくこくこくと、ティアットの頭が上下に激しく揺れる。

「いいシーンだったよね。そこまでずっとコメディみたいな展開ばっかりだった

のに、あそこだけ、しんみりした感じで。いつも意地悪だったおじいさんが、そ

こだけ優しくて」

そこで思い出したように、

「……あは、まさかきみとこんなとこで、こんな話できると思わなかつた」

「そうだね」

街を、見る。

映像晶石の中の景色とは、少し違、っ。

四十年近く前に撮られたものとの比較なのだから、当たり前と言えば当たり前

なのだが。現実に見るその景色は、より鮮やかな色をしているように感じられ

た。

この街は、まだ生きている。

かつての、栄光に満ちていた最盛期の姿に比べれば、劣るのかもしれない。け

れどそれでも、ここには多くの者が未来を信じて、そして現在を生きている。

гんで、頭痛のほうはどうなの?」

「楽になつたよ。なくなつたわけじゃないけどさ、ほとんど気にならない」

「そか。じゃあ、ラキシュの判断は間違いじゃなかったわけだ◦距離さえ離して

おけば、ひとまずきみのその目玉パワーの副作用は抑えられる、と。ずっと大丈

夫かはまだわからないけど、あの子もきみも元気に生きていけるかもっていう希

望は摑めたわけだ」

「そういうことに、なるね」

「そのわりに嬉しくなさそうだけど、あの子の体に未練?」

「そりゃ、そうだよ......って、違う! 体とか未練とかじゃなくてもっと普通の

意味で、いなくなつたら寂しいし、心配でもあるょねつて話で!」

「はいはい、やらしくないやらしくない」

隣のティアットが、何やら紙袋をがさごそやつている。

「さつきから、何やつて-」

「ほぃ」

質問の言葉を口にし終わるょりも早く、目の前に答えが突き出された。

答えは丸くて、真ん中に穴が開いていて、甘い匂いをさせていた。

「......ツ? •一

「以外の何に見えるといぅのだね、フエォドールくん?」

何やら偉そぅな口調でそんなことを言われ、ド^ —ナツを口の中に突つ込まれ

甘い。

「快気祝いってことで。こんなこともあろうかとね。あの隠れ家の近くにおいし

そうな店があつたから、チェックしといたの」

ふふんと鼻を鳴らしつつ、ティアットは再び紙袋を漁ると、チョコレートの

たっぷりかかったドーナツを取り出してかぶりつく。

「うひゅ、ほいひい」

表情を蕩かせて、頰をもぐもぐやりながら、何かをしゃべる。行儀の悪いこと

だ。

その様子を横目に見ながら、フェォドールもまた、改めて受け取った自分の

ドーナツの、二口目をかじりとる。やや砂糖の主張が強いこと以外は、素朴な味

だ。驚くほど美味というわけではないけれど、値段相応というか、充分に食べら

れるというか、疲れ切った体に染みわたるというか、なんだかこういうのが久し

ぶりな気がするというか、つまり、

г……おいしいな」

もぐもぐもぐもぐ、ごくん、

「そうだね」

口の中のものを飲み下すのに遣った時間のぶんだけ遅れて、テイアットが頷

懐かしいな、と思う。

少し前まで、こういう時間を、当たり前のように過ごしていたような気がす

る0

「きみさ」

景色のほうをまっすぐに見つめ、ティアットが軽い口調で尋ねてくる。

「ラキシュのこと、好きなの?」

「そりゃあ......」

「上司として部下に対してうんぬん、ってのはナシね。きみ、とっくに馘なんだ

から」

先手を打って潰された。

г徴無しは趣味じゃない、ってのもナシね。種族で色眼鏡つけてひとを評価する

ょうなやつじゃないでしょ、きみは」

もうひとつ、潰された。逃げ場がない。

一言だけ答えて、あとは黙っていょうと思った。

「好きに、決まってるだろ」

それが失敗だったと、言った後に気づいた◦ごまかすつもりでいたはずなの

に、ただの一言とはいえ、本心を口にしてしまつた◦しまつたと思つた時にはも

う遅い、封じていたものの蓋が開いた◦どろどろとした感情が流れ出し、フエォ

ドールを塗りつぶした。

「ぁ」

今さらながらに、思い知った◦彼女が傍にいてくれた、そのことに自分が、ど

れだけ支えられていたのか。何も咎めず肯定してくれた、そのことに自分が、ど

れだけ力づけられていたのか。堕鬼種の瞳などというものに縛られた不自然な感

情に踊らされながら、それでもどれだけ彼女が自分の力になってくれていたの

どれだけ自分が、彼女の優しさに、甘え続けてきたのか。

隣のティアットが、こちらの横顔をЩき込んできている。観察されている。そ

のことに気づいて、顔を逸らす。

「おっけ」深く重い溜息を聞く「その、なんだっけ、瞳の力? で、あの子を都

合のいい操り人形として連れ歩いてるだけだったりしたらブッ殺すつもりだった

けど。その情けない顔に免じて、とりあえずいろいろ不問にしといたげる」

г……間違ってない。僕は確かに、彼女を、都合のいい操り人形にしてたんだ」

堕鬼種の瞳の力は、確かに、見えない糸で彼女の心を縛っていたのだ◦そのこ

とから逃げるつもりはない。

「ブッ殺されるのは、嫌だけどさ。その事実からは、逃げないよ」

拳を固めた。指にはほとんど力が入らなかったけれど。

「ふうん」

г……それだけ?」

「他に何か言ってほしいの?」

「いや、そういうわけじゃ……ないけどさ」

ド-—ナツにかじりつく。

咀嚼する。嚥Рする。

眼前に広がる街の灯を、ぼんやりと眺める。

ゆっくりと、時間が流れていく。

「やっぱ、クトリ先輩たちみたいには、なれないなぁ……」

そんな寂しげな、それでいてどこか楽しそうなつぶやきを、聞いた。

急がなければいけないはずだったのだ。

一日でも早く、一秒でも早く、妖精たちを解き放つつもりだったのだ。

だから、休まずに走ってきた。ここまでやってきた。

そぅやって縮めてきたはずの貴重な時間が、無為に、ただ、流れ過ぎていく。

「ときにフエオドール。もひとつだけ、訊いてもいいかな」

гん」

ぼんやりとした頭で、先を促す。

「マルゴ•メディシスって名前、知ってる?」

г……え」

耳を疑った。

「あのクスパーダちやんゥの本名だったり、する?」

思わず、唾を飲み込んでいた。

「どこで聞いたのさ、そんな固有名詞」

「以前、別の場所で、任務中にね。まぁ、答えはいいや◦今の顔で想像はついた

し」

ティアットヵ空を仰ぐ。

「結局あの子もいなくなったし。あ一あ……仲良くなりたかった、んだけど

な-~」

「意味がわからない。説明してよ」

「嫌で一す」

歯を見せてティアットは意地悪く笑ぅ。

そしてそれきり、何度尋ねても、答えを教えてはくれなかった。

2•貴族の屋敷

へくし、とラキシュの口から小さなくしやみがこぼれ出た。

体を小さく震わせる。冷えてきたのだろうか。

辺りを見渡す——そこは、いわゆる豪邸そのものだった。正確にはその玄関

ホール。やたらと天井が高くて、その天井に何やら莊厳な絵まで描かれていて、

巨大で重そうなシャンデリアが下がっていて。そして視線を下ろすと、正面に

でっかい肖像画。二階に続く階段。屋敷の奥へと向かう大扉。

肖像画の中から、気難しそうな栗毛の狼頭がこちらを睨んでいる。

暖かそうな毛皮だと思った。

この人がこの屋敷を建てたのかもしれない◦この玄関ホールは広々としすぎて

いて、毛皮のない種族の自分には寒々しい。自分たちには、そう、ちょっと狭い

くらいの建物に、大勢が一緒に住んでいるくらいの熱量がちょうどいいのだと。

「なんだ……徴無しではないか!」

不機嫌そうな大声が、ホール全体に響き渡った。

でっぶりと太った白い狼頭の獣人が、見るからに不機嫌そうな顔でこちらを睨

んでいる。ラキシュはそちらを一瞥してから、すぐ隣に立つ男に目を移す。

「いやいや閣下、この子たちの種族について、先ほどお伝えはしていたはずです

が」

へらり、と誠意のない笑みを浮かべて、ナックスは言った。

「何であろうと構わん、連れてこい、という寛大なお言葉を頂きましたよ?」

「む……しかしだな」

「必要なことであると、受け入れておられると思いましたが」

「それは……別の話だ、混ぜ返すな!わざわざ私の前に汚らわしいものを晒し

た、貴様の無思慮について話をしているのだ!」

どういうことかしら、と思つた。

どうやら自分たちは歓迎されていない、ということはわかつた。ずいぶんと口

汚く罵られているらしいということも理解した。そこまでだ。何がどうしてこう

いう状況になつているのか、そのあたりがいまいち把握できない。

「所詮は場末の情報屋、貴族的な配慮には欠けているようだな!」

「あ^"、まあそう力もしれないすね一

興奮して唾を吐き散らす狼頭に向け、ナックスは肩をすくめる。

「んじやま、この子たちの件、お話ししてた通りにょろしくたのみますょ」

「わかつておる*いちいちしつこいぞ!」

肩をいからせ、不機嫌をまき散らしながら、白狼頭が屋敷の奥へと去つてい

く 0

猫徴種の従者に、部屋へと案内された。

「あいにく、ただいま客室が全てふさがつておりまして。こちらの部屋でご容赦

いただきたく思います」

こぢんまりとした部屋だつた。

調度らしい調度は何もない。屋根裏に位置する部屋なのだろぅ、それほど高く

もない天井は斜めに傾いていた。窓の向こうには、あまり距離を隔てずに、別の

建物の漆喰の壁。太陽が差さないせいか、あるいは風が通りにくいせいか、溜

まった空気が少し湿って感じられる。

「案外いい部屋ね」

ぼつり、眩いた。

「あの剣幕だったから、馬小屋にでも放り込んでおけ、みたいな話になるかと」

「ご主人様は礼を知る方です。たとえ徴無しが相手であっても、客人の尊厳を損

ま 、レ,J

ねるような真似は致しません」

「あっそ......」

言葉こそ丁寧だが、話の内容はあまり礼儀正しく聞こえない。

とはいえ、ふざけているというわけでもなさそうだ。心底からの嫌悪を抱いて

1ダ

いる相手に対して、彼らは、その心が許す限り最大限の譲歩をしているのだろ

、っ0

「それでは、私はこれで。後ほど夕食をお持ちします◦何か御用がありました

ら、そちらの鐘で呼び出していただければ」

深々と頭を下げ、従者は部屋を出ていく。

ラキシュとナックス、そして無言のままラキシュの袖にくつついたクスパー

//……改めマルゴの三人だけが、残された。

........................なかなか、すごいわね」

そんな感想が、口をついて出た。

徴無しは、多くの種族の者たちに、嫌われたり憎まれたり鬱陶しがられていた

する。これは浮遊大陸群の常識であり、その知識自体はラキシュの中にもしっ

かりとある◦徴無しであるうえ黄金妖精でもあるこの身、『ラキシュ』としても

『エルバ』としても、種族を理由に悪意を向けられた記憶はいくらでもある。

しかし、今回のょうな扱いをされたことは、ちょつと記憶にない。

「や、すまんね。ここのご主人、もともと獣人以外に人権認めてないお貴族サマ

でさ。いちおう、あれでも色々あって丸くなったほうなんだぜ?」

あっはっは、とナックスが無責任に笑う。

「ちなみに、俺らみたいな有翼諸種のこともお気に召さないらしくてさ。もとも

とコリナディルーチェは毛皮の深い獣人だけの街だったんだ、そうでない種族の

者は全てつまみだすべきだ、ってずっと主張してる」

マルゴの体が、びくりと一度大きく震える。

この子は徴無しと呼ぶには、少しばかり獣人に近い体をしている。顔を、と

いうか耳を見せれば少しはあの男の態度が軟化していたかもしれない。だが、当

人がローブのフードを外そうとしないのだから、仕方がない。

「なんでまた、そんな人のとこに連れてきたのよ」

「もちろん必要だからさ。バレないように飛空艇で行きたい場所があるんだ

ろ?」

「それはそうだけど、あの感じじや、協力なんてしてもらえそうにないけど」

ギギルに紹介された豚面種の商人たちに頼るということを、まず考えた。しか

し彼らは、あくまでもフエオドールの協力者である◦ラキシュ個人が力を借りよ

うというのはいまいち筋が通つていないし、下手をしたら、フエオドールにさら

なる迷惑をかけることにもなりかねない。

この事倩はナックスについても同様ではあるのだが、なんというか、彼のほう

が話しやすいし、頼りやすいし、利用することに引け目を感じない。なのでこう

して、協力してくれそうな人を紹介してもらったわけだけれど。

「大丈夫だって。あのお貴族サマ、今ちょっと厄介ごととか抱えてるみたいで

(7)^

さ。喉から手が出るくらい、助けが必要になってんだよ◦それこそ、自分の主義

主張を一時的に曲げるくらいにね」

「曲がってアレなのね••••:」

「曲がりに曲がってアレなんだ。それはともかく、交換条件さえちゃんとのめ

ば、裏の飛空艇の手配くらいはやってくれるはずだ」

交換条件。

あまりいい予感はしなかったが、無料での助力を要求できるような立場でもな

い。そこは受け入れるしかないところなのだろう。

「さてと。俺はここで失礼するよ。後は自分たちでよろしく一

「......え? 置いていくの?」

「大丈夫だって。種族は違っても言葉は通じる、心は通じなくても利害は合わせ

られる。ラキシュちやんならいけるつて。俺、保証しちやうょ?」

「保証はいいから、もう少し-」

「んじや、そゆことで」

有言実行。

軽く手を上げると、ナックスは、さつさと部屋を出て行つた。

「……むう」

簡易ベッドに腰かけて、小さく唸った。

なんというか、心細い。

言葉は通じる、とナックスは言つていた。しかし、先ほどのやりとりを思い返

すと、まさにそこに、少々の不安が浮かんだ。今のラキシュは、あまり交渉事に

自信があるほうではない。

「ま、焦つても仕方がないことではあるけど……」

ふに。

両方の耳朶を、何か温かいものが包み込んだ。

目の前、マルゴの両手が、軽くこするようにしてラキシュの耳朶に触れてい

る。

г:::マルゴ?」

「落ち着く、ですか?」

「いやあの……ああ、うん」

先に言っていた、耳の後ろを触ると落ち着く、というあれか。

マルゴ自身の経験則のようなのだが、この子の猫めいた耳と、そうでない自分

の耳と、同じように扱っても大丈夫なものなのだろうか。……いや、それ以前

こ0

「もしかして私、そんなにいっぱいいっぱいに見えてた?」

「ちよっとだけ、ですけど」

「そっか」

少し考え方を変えてみようと思った。

まず、当初の最大の目的である、フエオドールからの距離。これは、今のとこ

ろ、充分に達成できているように思える。今もまだ彼との不思議なつながりは

残っているし、大まかな距離と状況についてぼんやりと把握できている——だか

ら、彼は今のところ無事でいると確信も持てている◦とはいえまだ同じ市内にい

るということに変わりはないので、早いうちに別の浮遊島まで移動してしまいた

い事情に変化はないが。

そして、その浮遊島の移動の話。言質などはとれていないが、交渉は今のとこ

ろ、ある意味において順調だと言っていいはずだ。この屋敷の主人、あの白狼頭

は、徴無しである自分たちを明らかに嫌悪している。嫌悪しているのに、追い出

すこともせず、いちおう屋敷に迎え入れた。これは、彼がそれだけ重要な役割

を、徴無しであるラキシュに求めているから。

重要な役割。

セニオリスのことを連想する。あれはまさしく、ラキシュ•ニクス•セニオリ

スという個人が担っていた最高の役割であり、存在理由だった。けれどあの剣は

いま、自分の手元にない。持ち逃げするのもなんだと思い、置いてきた。

目を閉じて、記憶を探る。

かつて『ラキシュ』は、あの剣に対して、複雑な思いを抱いていた。それはか

つて尊敬する先輩が振るっていた剣だった◦非業の運命を背負った者にしか扱え

ないといういわくのある剣だった。その剣に選ばれたということは、『ラキ

シュ』自身もまた、ろくな目に遭わない将来を決めつけられたようなものだっ

た。

(というか……充分に悲惨よね、現状……)

人格を失い、他人に体と記憶を乗っ取られた。

なかなかにひどい話だと、当事者ながらに思う。

そして、加えて、もうひとつ。『ラキシュ』の記憶によれば、この剣に適合し

た直後、自らの手で、親のように慕っていた相手を、刺し殺している。

今のラキシュにとつて、『ラキシュ』の記憶を思い出すというのは、以前に読

んだ本の記述を頭に浮かべる感覚に近い。あくまでも他人事。実感を伴う形での

回想ではない。

なのに、少しだけ、胸が痛い。

「大丈夫、です」

優しく、マルゴが耳を撫でる。

「ヮタシ、一緒にいる、ですから」

「......そうね。ありがと」

くすり、ちいさく笑つて、優しい指先の感触に身を委ねる。

(......そういえば)

ふと、ひとつの疑問が頭に浮かぶ。

(聞きそびれちゃったけど、あの偉そうな貴族の名前、何て言うのかしら?)

fT

その屋敷から少し離れた裏通り。

辺りに人の気配がなくなったところで、ナックス•セルゼルは足を止めた。

г言われた通りに売ってきたぜ。……本当に、これでいいのかよ?」

薄闇の中へと、苦い顔で問いかけた。

「赤の他人じゃないんだぞ。本当に、そう簡単に切り捨てられるのかよ?」

「今さらなことを訊くのね?」

薄闇の中から、女の声が応えた。

「他人だろうと身内だろうと、命に軽重の差はないわ。もちろん、男女も老若も

関係ない。私がこれまで、どれだけの人たちを血に沈めてきたと思うの?」

「家族みたいな子たち、なんだろう?」

「だから殺しやすいんじゃない◦そもそも、家族だからなんて理由で背中を刺せ

なくなつてるようじゃ、堕鬼種なんてやつていられないわよ?」

ナックスは唇を#む。

「胸糞悪ぃな」

「そう?良識派だったのね、少し意外」

「るせぇな。後晦だけはすんなよ」

「ふふ、それこそ、今さらなことを言うのね」

女の声は笑う。

「決して許されない悪事を働くコッって、わかる?それはね、一番後悔する道

を選び続けること。自分で自分を殺したくなるような間違いを、常に積み重ね続

けること。それが私の選んだ生き方よ。今さら後悔から逃げるなんてことはな

い」

「ああ-そうかい。じゃあ、もう何も言わねぇよ」

ナックスは自分の髪をぐしやぐしやにかきむしると、それ以上薄闇の声には構

わず、歩き始めた。

「大嫌いな自分をとことん追いつめる時の、その笑い方」

誰にも聞こえないように、小さな声で、眩く。

「そぅいぅところだけ、姉弟で、そつくりなのな」

3.避起者たち

無数の樽が、階段を転がった。

悲鳴を上げて、六人の男たちが——民間人を装った帝国の兵士たちが、巻き込

まれて階段を落ちていった。

「こっちだ、早く*」

呼ぶ声に応えて、ナィグラ^卜は隣を走る単眼鬼のでっかい手をひっつかみ、

横の路地へと飛びこんだ。

逃げに逃げて、追っ手の姿が見えなくなってから、さらにもう少し距離を稼い

で。

「ふう……悪かったね、グリック。急に呼びつけて」

ふひい、と特大の息を吐いて、マゴメダリは手近な壁に背を預ける。

「まったくだ◦こちとら天下の護翼軍人サマだぞ。お尋ね者どもが気安く連絡よ

つか 、

こすんじやね^よ。まえんそコラ」

楽し気に笑いながら、緑鬼族がその肩——には手が届かないので、代わりに腰

をばんばんと叩く。

「僕の友人の中では、君が一番、自分の心に嘘を吐くのが下手だ◦今の立場がど

うあろうと、少なくとも話を最後まで聞いてくれると信じてるんだよ」

「けっ、言ってくれやがる」

緑鬼族、グリック•グレィクラックは嬉しそうにそう吐き捨てる。

「久しぶりね、グリック」

ナィグラ^—卜が声をかけると、「おう」と歯を見せて笑う。

さすがにサルべージヤーとしての装備に身を包んだままでは目立つと判断した

か、珍しいことに、ラフな私服姿だ。動き易そうなシヤツに、膝までのだぼっと

したズボン。ベルトの周りにポーチを幾つも下げているのが、まるでアクセサリ

のようにも見える。

「......あら、ノフトは? あの子、いま、あなたの監督下にいるはずよね?」

「あ一、揃ってふらっと消えちまいやがった。この街のどこかにいるとは思うん

だがな」

「ちよっと。位官以上の監視責任って、そんなに軽いものだったの?」

「はは、気ィにすんなっての。バレたところで、最悪俺がクビんなるだけだ。そ

れに」

声を落として、

「今この街にいる護翼軍は、そのレベルの命令違反に、いちいち目くじら立てて

るだけの余裕がね一んだ◦お前さんらにかかってる追っ手を見てもわかんだろ?

まともな手を選んでいられね一ほど、本格的に切羽詰まってやがる」

「:••:そう、ね」

長年、妖精倉庫で護翼軍の協力者をやってきたのだ。ナィグラートは、護翼軍

という組織がどういうところなのか、最低限の知識を持っている◦そして、その

知識に照らし合わせれば、今のこの街の状況は明らかに異様だ。

「ちなみに俺ぁ、ここの総団長の優しさのおかげで、何も知らされてね一んだ。

何がどうなったらこんなややこしい状況になんのか、とっくり聞かせてもらおう

じやね一か」

「もちろん聞いてもらうつもりたよ」

マゴメダリは重々しく頷く。

「でも、話は道中で。今はとにかく急いで移動してしまいたい」

「そりゃそうだが、このへん、落ち着いて隠れられそうな場所なんてそうそう

ね一ぞ。縁のサルべージャー協会にまで行きゃ遮音室があるけどよ、ここから

じやちと遠い」

マゴメダリは小さく笑って、

「大丈夫。ちょうどいい場所の心当たりが、ひとつだけあるんだ」

「お?さすが旦那だな。どの店の話だ? 『草編みヵバン』? 『チキンレッ

グ•チヱア』力? いや意表をついて『トゥア•アミヵ』あたり?」

「そういうのじゃないょ。落ち着いて隠れられそうな場所なんてそうそうない

て、ついさっき君自身が言ったばかりじゃないか」

「ぁん?」

「僕が言ってるのは、もっと人が立ち入らなくて、もっと話がしやすくて、そも

そも僕らが必要としている情報が手に入るかもしれない場所」

太い指を左右に振って、

「殺人現場、だょ」

fT

最近になって、護翼軍関係の要人が何名も続けて殺されている。

内部では『黒塗りの短剣』と称されているこの連続殺人事件は、実際には、護

翼軍内部の粛清に近い性質のものだ◦岩将補佐が「こいつらを殺せ」と命令を下

し、その配下が忠実に任務を遂行している。

凄まじいのは、最初の犠牲者がこの岩将補佐本人であること◦そして、残され

た者たちはこの命令の理由も目的も知らされていないということだ。

マゴメダリは、その六人目の——最後の犠牲者となりかけた張本人だ。そし

て、これまでに殺されてきた面々の名前を見て、「なぜ殺せという命令が下され

たのか」を察したただ一人の人物でもある。

——もう、この言葉には行き着いているかな。モウルネンの夜、だよ。

——妖精の調整について知識を持つ六人は、その全員が共犯者だ。

——ずっとあの夜の記憶に怯え続けていた——

(............よくわからない、わよね)

マゴメダリは、あれきり、何の説明もしてくれていない。

モウルネンの夜とは何なのか。なぜ自分たち六人のことを共犯者と呼ぶのか。

どうして五人の死に疑問を抱かず、自分も殺されることを受け入れようとしてい

たのか。いったい何が、このマゴメダリほどの大きな男(物理的に)を怯えさせ

ていたのか。

わからないことは多く、というか、わからないことばかりだ。

けれどマゴメダリは、「何も訊かないで信じてくれ」と言った。そしてナィグ

ラートはそれを受け入れた。だから、何も訊かずに、マゴメダリの逃避行に付き

合っている。

彼の言う通り、自分たちの行き着く先に、大事な娘たちの未来があるのだと信

じて。

fT

鉄扉の中央にでかでかと、『立ち入りを禁ずる』の張り紙。

鍵は無残に壊されていたが、代わりに、幾重にも巻きつけられた太い針金が、

これ以上ないほど厳重に、その扉を封鎖していた。

「ぇいっ」

ナィグラートはノブを握り、少しだけ力を込めた。

ノブがきしみ、針金がちぎれ、扉が開いた。

「あら。開いちやつた、不用心ねぇ」

頰に指をあて、冗談っぽくそう言ってみた……が、連れの男二人は、どちらも

が頰をひきつらせるだけで、笑ってはくれなかった。

どこかの意地悪な人間種だったら、こういう時、気の利いた意地悪な返しをし

てくれたんだろうな……などと、一瞬だけ遠い気持ちになる◦今はそんな時では

ないとすぐに思い返し、表情を引き締める。

鉄扉を潜る。

薬品の臭いが鼻の奥を刺す。

床上に、割れた試験管やビーヵー、そして無数の書籍や紙片が散乱している。

何らかの研究施設だっただろうことは、ひと目でわかる◦そして、もう研究施設

としては復帰のしようがないほどに荒らされているということも。

「ここで殺されたのは、護翼軍とは協力関係にある秘蹟研究組織の一人でね◦も

ともと、僕の同僚だった男なんだ」

要人連続殺人事件の最後の標的となりかけた当人であるマゴメダリ•ブロント

ン医師は、懐かしそうに目を細める。

そして、心痛に沈んだ声で、死んだ旧友のことを語る。

「僕は妖精の体質を改竄するほうを専門にしたけれど、彼は遺跡兵装の謎を解明

する道を選んだ。といっても、何もわからないし予算も下りないしで、すぐに諦

めたらしい。ここ数十年、ずっと酒と博打の毎日だと言っていたか。彼は、最初

期の二位呪器技官の一人なんだ——」

そんなことを語りながら奥の部屋に至り、中身を放り出され空っぽとなった本

棚に向かう。太い指で奥を探る。本棚を床に固定していた金具が外れる。「ょい

しょ」、気の入らない掛け声とともに単眼鬼の剛腕が棚を抱え、横にずらす。

「それと、こ、っいぅ仕掛けが好きなやつだったんだ」

その棚の後ろには、壁がなかった。

「か……隠し扉あ?」

グリックが、目を丸くして呆れる。

「この辺りもなかなか地価が高いし、ふだん使いできない部屋にスぺースを割く

のは合理的じやないんだけどね◦それでも隠しておかないといけないものがある

のと、あとはまあ個人的な趣味とで強行したらしいよ」

「あ一、まあ、、っん。趣味じやしよぅがね一よな、趣味じや」

「え? 納得する場所、そこなの?」

「そりやそ一だろ。自分のロマンを追って生きてる以上、他人のロマンはできる

だけ尊重しね一とな......っと」

グリックは携帯灯をポーチから取り出し、点火。光量を絞って扉の向こうを探

る。

「けっこう広いな。旦那にはちと窮屈かもしれね一が」

「なに、文句を言えた立場でもないさ」

のそりと扉をくぐり、実際に窮屈そうに身を屈めながら辺りを見回す。質素な

机の上、乱雑に散らばるノートを認めると、軽くばらばらと目を通す。

「——、っん、やっぱりだ。彼の結論も、僕のそれとよく似ている」

「そ一かいそ一かい、そりゃよかったな」グリックは頭を搔く「……んで、結局

何がどうなったってんだ? 何であの物騒な連中は先生の命を狙ってて、先生は

そんな悟ったみて一な顔してんだよ?」

「ああ◦全部話すよ」

静かな声で、マゴメダリは言った。

つ、S

ナィグラ^卜は、小さく唾を飲み込んだ。これから語られょうとしているの

は、今まで彼が徹底して秘してきたもののはずだ。そこには秘されてきただけの

理由と、今この時にその禁を破るに足るだけの理由があるはず。

「僕がうかつにヒントを口にしたせいで、あの堕鬼種姉弟あたりが、そろそろ真

相に気づいてしまっているかもしれない◦そうなれば、君たち相手に全てを隠し

ていることの意味も薄くなるからね」

おだ

マゴメダリは単眼を細め、穏やかに、そして悲しく笑う。

「でもその前に、ひとつ覚悟をしてほしい。僕がこれから話すことは、本来、こ

の世界に残っていてはいけない知識だ。具体的には、知ってしまえば、立場が僕

らと同じになる。護翼軍に命を狙われる」

「……待って」ナィグラートは口を挟んだ「先輩たちが狙われてるのって、妖精

の子たちを調整する方法を知ってるからじやなかったの? それって、すごく知

りたいけど、今ここでするような話じやないでしよう?」

「調整の方法の話をするわけじやない◦彼女たちは大人になれない、彼女たちは

それぞれ一振りずつの遺跡兵装にしか適合しない、僕たちがそう仕組んだ……そ

の理由の話を、しようつてことだ」

ナィグラートは息を吞む。

「そして、もうひとつ。君たちがこのことを知れば、モウルネンの脅威が力を増

すことになる。何が何でも、それこそ命を捨ててでも、その発動を止めなければ

ならなくなるだろう。その覚悟を決めてから、この先の話を聞いてほしい」

4•遺跡兵装モゥルネンについての記憶と考察

さて。実際、少しばかり尬がなじではある。

ティアットが隣にいるのだ。

外見だけを言えば、鮮やかな若葉色の髪と瞳を除いて、ありふれた徴無しの少

女そのものである◦フエオドールよりも背は低いし、手足は華奢だし、顔つきは

あどけないし、振る舞いはどことなく幼げだしと、いかにも脅威になりそぅにな

V

しかし厄介なことに、黄金妖精である彼女は、燃え盛る魔力の助けを得て、

フエオドールとは比較にならない力を振るぅ◦拳を振るえば岩をも砕き、地を駆

ければ風より早く、空は飛べるし火も吹くのだ。……いや、さすがに火を吹くこ

とだけはないが、それはともかく。

ГЙがさないからね」

そこまで強力な相手が、至近距離からずつと、こちらのことを見張つている。

逃げて逃げ延びられる相手ではない。組み伏せて敵ぅ相手でもない。口車

は……極端なネタを振れば騙されてくれるかもしれないけれど、それはそれで、

後が術ぃ。

ティアットょり強いラキシュが一緒にいれば、また話は変わつていた。けれ

ど、今の自分たちは、まるつきり邪魔者なしの、二人きりなのだ。

(参つたな……)

この厄介な監視者を引き連れたままでは、身動きがとれない。

たとえば、コリナディルーチェ市でのフェォドールの協力者、豚面種の商人た

ちのところに戻りたい。しかし今それをすれば、敵であるティアットにこちらの

内情を明かしてしまうことになる。それは、さすがに、うまくない。

「……なんで、元武官が、黄金妖精に監視されてるんだろうな。逆じゃないの

か?」

「日ごろの行いとかでしょ」

なかなか反論のしづらいことを言われる。

「わたしだつて困つてるんだからね」

人気のない道を歩きつつ、ティアットはむくれてみせる。

「早いところ38番島に連れて帰りたいけど、いま第一師団のひとたちにきみのこ

とバレたら大変なことになるし」

その隣で、フエオドールは頰を搔く。

г……第五師団に戻っても、僕が大変な目に遭うことに変わりないんだけど」

「それはほら。自分でやったことの範囲ではちゃんとひどい目に遭ってもらわな

いと。ここの師団に任せたら、それよりもっとひどいことになりそうって話で」

反逆者の末路など、どうせ死刑か終身刑である。場所が第一師団だろうが第五

師団だろうが、そこは変わらないだろう。差となるのはせいぜい、死の前に拷問

のプロセスが入るかどうかの違いだけ。

「死なせないよ。わたしはきみの敵だから、そんな逃げ方は許さない」

どことなく嬉しそうに、ティアットは言う。

「田舎に閉じ込められて強制労働。それがきみの末路なんだから」

「あ一、労働環境劣悪な鉱山とかで鶴嘴片手に?」

フエォドールは肉体労働が苦手だ。苦手を生涯にわたって押し付けられる、な

るほどそれは確かに辛い罰だ◦と思ったのだが、

「なに言ってんの。そんなとこ行っても、きみ、何の役にも立たないじやん」

「……そうだけど。別にいいだろ、役に立たなくても。罰なんだから」

「適材適所ってどういう時にも大事だと思うけど。それよりいい場所に心当たり

があるんだよね、うちの倉庫の下っ端なんだけどさ」

「下っ端?」

「家事手伝い全般。……大勢の、リィエルみたいな子たちの面倒をみたりする」

それは確かに辛くて大変で、鶴嘴片手の鉱石掘りに負けないほど疲れそうな話

で、そして——夢のある未来の話だ。

「それよりさ」話を切り替える「利害は一致してるはずなんだ、きみの協力が欲

しぃ」

「ゃだ」

「話も聞かずに即答すんなって。要は、ここの第一師団が落ち着くまで身動きが

とれないって話なんだろ? だったら、連中が抱えてる問題を僕らが解決してや

ればいいって話じゃないか。そうしたら、めでたく三——二人で38番島に帰れる

だろ?」

ラキシュの顔が、脳裏に浮かんだ。すぐにかき消した。

早く38番浮遊島に帰りたいのは、フヱォドールにとっても同様だった。

〈十一番目の獣〉への攻撃を開始する予定の日付まで、もうあといくらも残って

いない。一日も早く成果を持ち帰らなければ、コロンやパニバルが戦場へと送ら

れてしまうのだからと。

遠い空の下、本来の予定を繰り上げて、既に攻撃は始まっているということ

を、フエオド^ルはまだ知らない。

「あのねぇ◦事件って、連続殺人事件と、単眼鬼先生の誘拐事件だょ?きみが

どんだけ名探偵かは知らないけど、そんな簡単に解決なんて……」

「前者の犯人は護翼軍自身、もう少し具体的に言えば//桃玉の鉤爪//岩将補佐と

その直属の部下だ◦マゴメダリ•ブロントン博士は自身の意志で逃走している、

ナィグラート女史がその連れになっているはずだ」

г……え」

ティアットが足を止める。

「護翼軍が犯人……って、え、どうして?なんでそんな話になってるの? て

いうか、なんできみが、そんなことまで知ってるの?」

「前に言っただろ、僕はマゴメダリ博士と一度合流してるんだよ。その時にいろ

いろと話を聞いたし、独自に入手した情報とすり合わせもした◦不足もまだ多い

けど、問題の外郭くらいは浮彫りにしてる……」

ふと。フエオド^ —ルは足を止める。

そぅだ。自分は情報を集めた。けれど、欠けたままのパーッが数多くある。そ

れは、護翼軍の機密としてすら存在しないもの。マゴメダリ医師の頭の中だけに

あり、彼が誰に対しても頑なに明かそぅとしなかったもの。

モゥルネンの^^。

遺跡兵装モゥルネンに関わる、何らかの、事件。

г............おかしい……よな?」

その日に何かの事件があった。それはいいのだ。その詳細の情報は危険なもの

であり、公開することができない。それもまだいいのだ。

問題は、その事件の存在そのものを秘匿していることと、にも拘わらず

遺跡兵装モゥルネンそのものの情報は通常の機密扱いで存在していることだ◦モ

ゥルネンが危険だというならば、普通に考えて、そのことを誰かが語り継がなけ

ればいけないはず。事件があったこと自体が忘れ去られてしまえば、同じことが

また将来に繰り返されかねない。

「どうしたの?」

「いや……ちよつと……」

状況が嚙み合っていない。不自然だ◦不自然なものには理由がある◦もちろ

ん、護翼軍の情報管理体制にほつれがあっただけかもしれない。機密扱いされる

べきものがそういう扱いをされず、そうでないものが機密扱いされていたという

ような話かもしれない。

けれど、もし、そうでないのなら。誰も、間違えてなど、いなかつたとした

ら0

「危険なのは、モウルネンの夜の記録の内容ではない••••••?」

ぼつり、ひとつの仮説が唇をついてこぼれる。

「モウルネンの夜について知っていること自体が、岩将補佐たちに死を受け入れ

させるほどの、重大な問題となる......つてことか?」

「お^い◦こら^ —。フエオド^ —ルや-—い◦道端で立ち止まってぶつぶつ言い出す

とか、通行人に迷惑だぞ一。……こら、聞いてる?」

もちろん、聞こえちやいない。

フエオドールは、一人の思索に深く沈んでいる。

「そうだとしたら……そうか。妖精たちを万が一にもモウルネンと適合させない

よぅにしている、そのために調整に手を加えている◦先生の言っていたあの言葉

が、そこに繋がるんだ。つまり、モウルネンには、スペックに見合わない危険が

潜在している——」

fT

「遺跡兵装モウルネンの特筆能力は、『その能力を知る者をすべて支配する』

旧友の遺したノートのぺージをゆつくりとめくりながら、マゴメダリは静かな

声で、死刑宣告じみたことを口にした。

「——と、僕らは推測した。あくまで推測だ。懇切丁寧にマニュアルに書いて

あったってわけじゃない。実際にモウルネンが起動したときに起きた一連の事件

を見て、おそらくそういうことだろうと言語化しただけだ。けれど、かなり正確

な解釈たと思うよ」

グリックが、ぽかんと口を開けている。

ナィグラートも、ぽかんと開いた口を、両手で覆い隠している。

「人間種たちの遺した記述では、モウルネンは『仲間と力を合わせる』剣だって

ことになってて、だいぶ話が違うんだけどね。もともとその記述が間違っていた

のか、それとも五百年の間にモウルネンのほうが変質したのかはわからないけ

ど」

「よく……飲み込めね一んだが」グリックがうめく「そりゃ、あれか? そのモ

ゥルネンつ一剣がその気になったら、この場にいる三人が全員、揃って手下にさ

れちまうの力?」

「そういうことだね。護翼軍が徹底して情報を消去したことと、『黒塗りの短

剣』の一件で僕以外が死んだことで、結果的に、リスクはそれだけに抑えられて

る」

「もし俺が今の話を街中に触れ回ったら、街がまるごとそっくりやられるって

か?」

「もちろん」

「って、いやいや。物には限度ってもんがあんだろ。この街に何人いると思って

んだ、さすがにそれ全部ってのは話に無理が——」

冷や汗混じりに笑い飛ばそうとするグリックを、マゴメダリは無情に制する。

「『モウルネンの夜』は、かつて一人の妖精が、遺跡兵装モウルネンと適合して

しまった事件のことだ。場所は27番浮遊島〇コリナディルーチエほどではなかっ

たけど、かなり大きな都市を抱えた、かなり栄えた島だったょ」

ゆっくりと首を横に振って、

「モウルネンに支配された人を見れば、モウルネンの能力が支配だと理解してし

まう◦理解してしまえば、モウルネンに支配されてしまう◦連鎖が連鎖を呼ぶ。

一人が二人◦二人が四人◦四人が八人◦そこに誰かがいる限り終わらない。都市

ひとつ、まるごとが飲み込まれ、まるで〈獣〉のょうに周囲を破壊し始めるま

で、時間の問題だった」

г——『モゥルネンの夜』についての知識を持つ、いや、認識すること自体が、

同じ災害を再び招くことのトリガーになりうる……だとしたら、マゴメダリ医師

のあの態度も説明がつく◦関連する情報をまとめて全部隠そうとしていたのは、

どんなに些細な情報でも変わらずに危険だったからか、あるいは、どの程度の情

報から先がどれだけ危険なのかの正確なところを彼も把握していなかったか

ら......だとすると......」

「こら」

ぱこん、と紙筒で頭をはたかれた。

「......ティアット」

「なんでそこで『そういやいたなあ』みたいな顔するかな、この男の子は」

フエォドールは我に返る。

「あ……いや、ごめん。うん、ちよっといろいろ考えてた」

гん、それは見てわかった。で、何を考えてたって?」

あつさりと問われ思わす口ごもる。

「協力しようって、さっききみが言ったんじゃない。何をする気なのかは知らな

いけど、でっかい先生とナィグラートを助けてくれるんでしよ? そのための方

法とかを考えてたんじゃないの?」

それは、確かに、それに近い話ではあるのだけど。

「どうせきみのことだから、わたしたち妖精を使命から解放するとかも、一緒に

Uら

狙ってるんでしよ?」

それも、間違いなく、指摘通りではあるのだけど。

「じゃあ、その先もちゃんと話しなさいよ。どんな悪だくみを企んでるのかは知

らないけど、いちおう、聞くだけは聞いてあげるから。あと、それ聞いてから、

協力するかどうか決めたげるから」

ティアットの目が、まつすぐに、こちらを見ている。

思わず、フエオド^ —ルは目を^Jらす。

やましいことを数多く抱えている身である。加えてこの瞳には、いまいち制御

の出来ていない精神交感の力まで宿っている◦だから、この少女の視線を正面か

ら受けるようなことは、できない。

「……剣が必要なんだ。遺跡兵装モゥルネン」

「もうるねん?」

聞き慣れない固有名詞に、ティアットはきょとんとした顔になる。

「危険な剣だ。おそらく、取り扱いをちょっと間違えれば、浮遊島のひとつやふ

たつは簡単に墜ちてしまうレベルの。でも逆に、、っまく扱うことさえできれば、

君たち妖精を守る、最高の兵装にもなるはずなんだ」

なにそれ、聞いたことないんだけど。

なにそれ、リスク大きすぎるんだけど。

なにそれ、、っさんくさすぎるんだけど。

——ティアットの言いそうな否定の言葉が、次々フエォドールの脳裏に浮かん

だ。その中のどれを現実のティアットに言われたところで驚かないだろうと覚悟

も決まつていた。実際、自分がいま口にできる言葉では、説得力のあることは言

えなかつた。リスクをぼやかす跪弁も、うさんくささをごまかす飾り言葉も、出

てこなかつた。

「ふうん」

果たしてティアットは、呆れも怒りもせずに、軽く相槌を打ってきた。

「その剣を手に入れられたら、でっかい先生とナィグラートは護翼軍に追いかけ

られなくなるし、コロンとパニバルは無事に帰つてこられるし、アルミタたちも

元気になれるってわけ?」

「えあ-.......うんまあそうたね」

曖昧に頷いた。 、、

「お一け一、そこまでは、わたし的にも申し分ない結果だ。だけど充分じゃな

い。わたしの協力が欲しかったら、もうひとつ、というかふたつ、最終目的に追

加しなさい」

「え。あ、いや、ちょっと待って。現時点でもうかなり難しいというか、これ以

上はさすがに簌しいというか、多くを求めすぎるとひとつも手に入らないという

故事が——」

堕鬼種は口先で生きる種族だなどと、誰が言ったのか◦フエォドールはしどろ

もどろになって、情けない言葉を垂れ流す。

その鼻先に、ティアットはびしりと指を突き付けて、

「きみが、ラキシュたちと一緒に、ちやんと幸せになること」

「-え? I

すっかり、意表を突かれた。けれど、少し考ぇてみれば、それはいかにも、

ティアットの言い出しそぅなことだった。

「ちなみにラキシュは、今もぅ幸せなんだってさ。だからあとは、きみの問題。

『僕にそんな資格はないんだ一』みたいないつもの逃げ口上はナシ。ちゃんと自

分の将来とか、帰る場所とか、そういうのを考えること」

「いやあの? 僕は反逆者なんだよ? 人生とっくに行き止まりなんだよ?」

「だからさ、言ったでしよ、きみは妖精倉庫行きだって」

確かに言ってたけど。

「そもそも反逆者が将来考えちゃいけないって、誰が決めたの?」

そりゃ当然、軍法を作った昔の人じゃないだろうか。

ひどい無茶を言われている◦とてもじゃないが、現実的に吞めた条件ではな

い。けれど、どんな言葉を尽くしたところで、ティアットにそれを撤回させられ

る気がしない。

「わかったよ、それでいい」

折れるしかない、と結論する。

どうせ口約束だ。後からどうにでも破却できる。そう自分に言い聞かせる。

「よし!」

満足そうに、ティアットは笑った◦曇りのない、この子は本当にいま心から喜

んでいるんだということが伝わってくる、そういう笑顔だった。

fT

状況に対して、後手に回っている——フエオドールはそう感じている。

何せ自分たちは、この街で起きている棣々な事件の、当事者ではない。マゴメ

ダリ•ブロントン医師のように、黙っていても事件の中核に引きずり込まれるよ

うな立場にない。必死になって情報を集めて、事件の概要を外から把握するくら

いのことしかできていない現状では、なおさらのこと。

そろそろ、主導権を握らないといけない。そのために必要なのは、状況を自分

の手でかき回すことだ。事件そのものの形を変え、中核の場所を動かし、自分以

外の誰もが状況の全容を理解できない展開に持っていくことだ。

(……本当はなりふり構わず、ラキシュさんを遣い捨てるべきだつたんだろう

な)

不安定でいつ暴発するとも知れない、最強クラスの妖精兵。その存在を伏せず

に、いっそ武力として誇示していれば、護翼軍も帝国兵も姉もマゴメダリ医師

も、フエォドールのことを無視できなくなっていたはずだ。

もちろんそんな、最終目的を自らの手で叩き壊すょうな真似など、できるはず

もない。しかしその「できるはずもない」にこだわった結果が現状なのだという

ことも、受け入れなければならない。

彼女とは違う、使える手札が必要だ。誰にも無視を許さないほどの、フエォ

ドールを状況の当事者に引き上げるに足るだけの、強力な手札が。

「さて、と」

街角で、立ち止まる。

どしたの、という目で見上げてくるティアットを目で制し、そのまま、視線を

横へ動かす◦民間用の小型自走車が停車している。用事があるのは窓の向こうの

運転席——ではなく、まるで鏡のように磨かれた、窓硝子そのもの。

г-やあ」

フエオドールは、その窓硝子の向こう側に、声をかけた。

『-ょう』

窓硝子の向こう側から、そう、返事が戻ってきた。

ティアットは眉を奇妙な形に歪め、フエオドールの顔と自走車の中との間で、

視線を行ったり来たりさせている。それはそうだろう、何せこの自走車は無人

だ。傍からは、誰もいない運転席に向かって挨拶しているょうにしか見えないは

ずだ。

「状況が落ち着いた……ってわけでもないんだけどさ。そろそろ後回しも限界で

ね。君がどういうモノなのかについて、確認させてもらう」

『へぇ?』

窓硝子に映った黒髪の男が、愉しげに、唇を歪めた。つまり、フエオドールの

呼びかけに対して、明確に反応をして見せた。

『前に話した時には、ほとんど鸚鵡返ししかできなかったはずなんだがな。それ

は、今なら俺と会話が成立すると、予想してたツヲだ。何故だ?』

フエオドールは、この黒髪の姿を知っている。『死せる黒瑪瑙』と書かれた箱

の中に横たえられていた死体のそれだ。

あの箱は、大賢者の遺産だと嗱されるほど厳重に運び込まれ、アィセアニ位武

官待遇の指示で零番機密倉庫に安置されていたものだった。無責任な噂話にょれ

ば、そう、実は既に死んでいた大賢者が最後に遺した遺産かもしれないというこ

と。加えていわく、その中には最悪の災厄が詰め込まれていて、決して開いては

いけないのだと——

「時間が経ったからね。前までのあれは、君が、大陸群公用語に……いや違う

な、会話をするということ自体について償れてなかったから、ああいう反応に

なったんだろう?」

『へぇ』

今度は感心したような声。

「もっとも、そんな気がしていたってレベルの話でしかなかったよ◦予想では

あっても確信じやなかった。ま、声をかけるだけかけて、外れたとしても失うも

のは無かったしね。分はいい賭けだった」

くいくいくい、と袖が引かれている◦誰と話してるの何が見えてるの、まさか

ヘンなもの拾い食べたんじやないでしようね——そんな言葉を視線に込めて、

テイアットかじつとこつちを見ている。とりあえす手のひらで制する◦テイアッ

卜の頗が小さくふくらむ。

予想の当たり外れと関係ないところで、テイアットの機嫌が損ねられた。冷や

汗が額を流れ落ちる、が、今はそちらに構ってなどいられない。

「それで、君は……悪魔、か?大昔、人間種たちの心に寄生して、破滅に導い

ていた精神体……」

『大外れだ。が、微妙に本質を捉えてもいるな』

何が楽しいのか、黒髪は、にやにやと湿った笑いを浮かべている。

『精神体ってところが、だいたい当たりだ。物質体はお前が見た通りとっくに死

んでるし、セニオリスに呪われてる以上は生き返れもしねえ。半身と並んでおと

なしく世界の終わりまで死んでるしかねえ身だったんだがな』

ちよいちよい、と鏡の中の青年は親指で自分の顔を示し、

『いまここにいる俺は、その死体からお前の目が吸い出した、一種の幻想体だ』

幻想体。知らない言葉だ。気にはなるが、今はそれよりも。

「セニオリスに呪われてる、と言ったな」

低く問う。ょく知る固有名詞を聞いて、傍らのテイアットが、表情を変える。

「ぁれは、使用できる者も、使用されるタイミングも非常に限られていた、機密

兵器だ。ラキシュさんが、〈獣〉と戦う時くらいしか、持ち出されていなかった

はずだ。つまり」

『正確にはラキシュ以前に適合する妖精もいたし、何百年か遡ればまた事情が大

きく変わったがな。まぁそれはいい。何が言いたい?』

г••••:つまり、お前は、」

喉がからからだ。唾を飲み込む。

「〈十七種の獣〉のひとつ……なんだな?」

テイアットが目を剝く◦何かを言おうとして、口をぱくぱくさせる。フエォ

ドールの袖をつかみ、誰もいない自走車の中を、凝視する。

『ははつ!』

黒髪は、笑った。その右目が、不気味な金色に輝いているのが見えた。その態

度が、それ以上ないほど正確な、質問への回答となっていた。

「そぅ、か」

フエオドールもまた、笑つた。

浮遊大陸群を脅かす存在◦万物の仇敵◦黄金妖I精たちを戦場へ追いやる元凶。

善悪とは関係ないところに存在する、最悪の害悪。

これは、大当たりだ。

緊張と歓喜と恐怖と希望で、止めよぅもなく体が震えた◦とんでもない厄札で

はあるが、まさに今自分が求めていた、強力な手札であることに間違いはない。

「——なら、改めて、ものは相談だ、黒瑪瑙」

言葉が通じるならば、そして相手の望みを知ることができれば、交渉ができ

る。交渉ができるのならば、制御も利用も、できるはずだ◦堕鬼種の……いや、

フェォドール•ジェスマンの舌先ならば、それが可能なはずだ。

「君の力を、貸してくれないか」

そしてフェォドールは、奇妙な懐かしさなどを感じつつ、その提案を口にす

る。

「浮遊大陸群を墜とすために」

5•ラキシュと遺跡兵装とその内側に眠るもの

フエオドールは今頃、何をしているだろう。

自分がいなくなつたことで、寂しい想いをしてはいないだろうか。

……いや。まつたく寂しくないなどという話になると、それはそれで悲しい。

少しくらいは寂しがつてほしい。けれど、少しだけに留めておいてほしい。彼を

傷つけたいわけではないけれど、それはそれとして、ほんのわずかなかすり傷く

らいは刻んでおきたいな、みたいな。そういう、微妙にして繊細な気持ち。

(——いや。なに考えてるのかしらね、私)

長い溜息を吐き出す。

そんなことを考えていたせいか、うまく寝付けない。

窓を開けて、空を見上げた。

高速で流れる灰色の雲が、空の大半を覆っている◦大きく輝く月が、何度とな

く灰色の中に沈み、そして息苦しそうに姿を現す。

г......いやな空」

ラキシュは小声でそうこぼした。

同室のマルゴは、シーッの上で、文字通り丸くなって眠っている◦狭いところ

に身を隠さなければ休めないような生活の中で、体に染みついてしまった習慣で

あるらしい。膝を抱えるようなその姿勢は、ただ見ているぶんには、とても愛ら

しいのだが。

「それに……」

風が湿っぽい。それに、妙な気配がただよってもいる。

気配を殺そうとしてレる気配。音を抑えようとして動レてレる者の音。

これは害意だと、ラキシュは判断した◦誰かを害する意志を持った何者かがい

る。それも一人や二人ではない。十人以上の大所帯で、この大きな屋敷の敷地の

周りを静かに囲んでいるのだと。

-すぐに攻めてくる、つてわけじやなさそぅね。

目を細め、薄い寝間着の上にヵーディガンを羽織ると、部屋を出た。

窓からの月明かりを頼りに、暗く長い廊下を歩く。

正面に、小さなランタンの灯りが揺れる◦灯りは少しずつ近づいてきて、猫頭

の従者の姿を闇の中に浮かび上がらせた。

「これは……曲者かと、間違えかけました」

驚いた風もなく、従者は淡々と告げてくる。

「既に非常識な時間です、お客人はどうか部屋のほうに」

「その曲者の話をしたいんだけど。既に囲まれてるの、気づいてる?」

言って、ラキシュは窓の外を指し示した。従者は一瞥だけをそちらに向け、す

ぐに「ああ」と得心したように、

「お客人こそ、あれに気づかれましたか。ずいぶんと神経質でいらっしやるよう

で」

褒めてはいないんだろうなと思う。

г貴翼帝国の潜伏兵士です◦実害はありません。夏の羽虫のようなものです、気

にせずお休みいただければ」

「いいの?人数も練度も、それなりみたいだけど」

「だからこそ、です◦彼らは組織だ。そして、組織同士の争いというのは、銃や

剣などという野敷な道具を用いたものとはまるで違う。この#(れ高きビルル、ハル

ンホムロン家に害を為そうなどという無謀な輩は、コリナディルーチヱに存在し

ません」

——ビル、ル……え、何?

固有名詞をひとつ聞き取り損ねたが、さすがにそれを尋ね直すと相手の機嫌を

損ねてしまうだろうと察した。流すことにする。

「偉いから喧嘩を売られない、つてこと?」

「稚拙ながら、正しい理解です。ビルルバルンホムロン家は、最も古き貴族のひ

とつ。それに刃を向けるということは、コリナディルーチェの歴史と誇りそのも

のに仇なそうということです◦いかに無知無謀の輩であろうと、そう簡単には踏

み切れない」

「ふうん......」

いまいち、自信たっぷりに言い切る根拠がわからない。鼻先で相槌を打ってし

ま、っ。

「コリナディルーチェは、美しい街でしょう?」

「え? ええ、そうね」

「四百年以上前に、この街は既に、この美しさを完成させてこの空にあったので

す◦気高き獣人の祖たちが、それを成した◦私たちはそのことを誇りに思ってい

る」

「そ/っなの」

「ええ。その誇りは、私たちのものだ。私たちだけのものだ。最近になって土足

で上がり込んできた者たちになど、決して譲りはしない」

……まぁ。何が言いたいのかは、わからないでもない。

今の主張は、つまり、こういうことだ。自分の親が立派な家を建てた。その家

を継いだ自分たちが楽しく暮らしていたら、よそから獣人ではない赤の他人がず

かずかと踏み入ってきた。そして、「うちの家は美しいでしよう!」などと周り

に自慢まで始めた。そんなことは間違つている、許せない、と。

理屈の一面ではある。

そして、理屈の一面でしかない。獣人が獣人がと繰り返しているが、それは誇

りとやらを占有する正当性を自分に言い聞かせるために持ち出してきた、彼らに

とってもっとも都合がいい分類でしかない。ものの見方を少し変えるだけで、た

とえば「四百年前の人々だけのものであるはずの誇りを、今を生きる人々が勝手

に振りかざしている」のようにも言えてしまうのだ。

厄介なのは、彼ら自身、詐術めいたその理屈を、どうやら心の®から#じきっ

ているらしいということ。信じる者は疑わない。疑わないものは変わらない。誰

に何を言われようと、一度信じたものに死ぬまで夠じることだろ、っ。

(……刺激しないのが一番面倒ないわよね、たぶん)

曖昧な笑みを浮かべて、頰を搔いた。

おそらく、誇りうんぬんの話を差し引いて、今の状況はこういうことだ。

この屋敷にはなにか、コリナディルーチヱ潜伏中の貴翼帝国のあの兵士たち

に、目をつけられる理由がある◦先方としてみれば、武力行使でさっさとケリを

つけてしまいたいタィプのネタだ。しかしこの、ビルルなんとか家は、無視でき

ないレベルの財力だか権力だかの持ち主。下手に喧嘩を売れば、政治的に面倒な

ことになる。だからああやって、遠巻きに監視して隙を窺うくらいのことしかで

きない、と。

「まあ、危険がないっていうなら、別にいいわ。お世話になってる身だし、でき

ることがあるなら力を貸そうかなつて思つただけで-」

ふと、疑問を思い出す。

「——そういえば、交換条件の話、まだ聞いてなかったわね」

「と言いますと?」

「私たちに、何を望んでるの? そこまで獣人以外を嫌いなあなたたちが、

鷹翼種の紹介で徴無しを屋敷に招いてまで、させたいことがあるんでしょう?」

ああ、と従者は軽く頷く。

「それこそ、戦闘でならそれなりの働きはできるつもり◦でもそれ以外だと、

私、大した技術は持っていないわょ」

「いえ、構いません。金には金の、石には石の使い道があるものですから。あな

たには、ふさわしい特別の役目を用意してあります◦その時まで、少しばかりお

待ちいただくことになるとは思いますが」

「思わせぶりね。……それで、内容はまだ秘密ということ?」

гご了承っください」

従者が深々と頭を下げた。

思いつきで目的地を決めたとはいえ、一応は、先を急ぐ身のつもりだ。あまり

悠長にしていたくはない。しかし、無理を押し通せるような立場ではないのも間

違いない。

я

「寝るわ」

これ以上、話すこともない。そう判断し、踵を返した。

「おやすみなさいませ」

背後、従者の手にしたランタンの光が、揺れながら遠ざかつてゆく。

廊下に投げかけられた影たちが、怪しく踊る。

-ろくな仕事じやなさそうよね、とりあえず。

あくびが漏れる。

多くの者がそうであるように、ラキシュもまた、面倒事が好きというわけでは

ない。そしてこの屋敷はどうやら、とびきりの面倒事の詰め合わせのような場所

だ。できるだけ早く、その厄介な用事を済ませて、飛空艇に乗ろう。

そのために、まずは睡眠をとろう。そう思い、廊下を歩き出す。

『一面に広がる赤い世界』

足を止めた。

一瞬の眩暈を自覚した。そしてその中で、幻覚じみた光景を見た。

『ぐちやり』『と何かが潰れた音がした』

『ぐちやり』『と何かを潰した感触があつた』

「な……」

頰が冷たい。気づかないぅちに、床に倒れ伏していた。

手足に力が入らない。震える腕をなんとか支えにして立ち上がろぅとするが、

何度試みても果たせない。

予兆のない、突然の異変。覚悟も決めていなかったし、心の準備もしていな

かった◦だから混乱する。対応どころか、状況の把握すらままならない。何が起

きているのかがわからない。何をされているのかもわからない。

何が起ころぅとしているのかもわからない。

ただ、ひとつだけ。まともに働かない思考の中で、なぜか確信できることがあ

る。

_分は、この感覚を、知っている。

かつて一度、あるいはそれ以上の回数に渡って、触れたことがある——

『ゴミのょぅに崩れ落ちる誰か』

『燃え盛る炎』

あらし こぅかい

『止まらない悲鳴』『嵐の夜』『燃え落ちる飛空艇』『後悔』

いくつもの断片的なィメージが、一瞬だけ、目の前を横切っては消えていく。

いくつもの断片的な記憶が、一瞬だけ、心の水面を叩いては消えていく。

『灰色の大地』『生きたい』『代えのきかない目的』『無明の夜』『ナサニア』

『くるぶしに絡みつく無数の手のひら』『叶わなかった夢』『終わる現実』『笑

い声に似た絶叫』『無尽の洞』『マゴメダリ•ブロントン従軍研究医』『故郷を

望む声』『遺跡兵装モゥルネン』『還りたいといぅ強い想い』『限りなく広がる

灰色の砂原』『輝き綴る十四番目の獣』『心が焼ける』『繫がる』『縛る』『飲

み込む』『そして』

これは。

そぅだ。

エルバの。

妖精兵エルバ•アフェ•ムルスムアウレアの。

0^0

記憶が。

モウルネンに。

飲み込まれて。

駆れて。

消える。

■の。

「-ああああああ!」

精神が壊れる、そのことを肉体が拒絶した。肺の中に溜まっていた全ての空気

を、喉が裂けるかといぅ勢いで吐き出し、絶叫した。

五指の爪を、夜着の上から、自分の胸元に突き立てた◦引き裂くつもりでかき

むしった。痛みがわずかに、心をつなぎ止める役に立った。

「あああああああああああああああああ!」

思い出せていなかった◦思い出すのを忘れていた。かつてエルバ•アフェ•ム

ルスムアウレアが、どこで、どのよぅに、何と戦い、そして死んだのか。その手

がかりは確かにこの心の中にあったはずなのに、触れることを無意識に拒んでい

た。

その記憶が、今、次々に蘇ってくる。

ナサニアとの争い。赤く染まる髪。弾け飛ぶムルスムアウレア。遠くからの呼

び声。心の中に入ってくる何者かの意識◦遠い、誰かの記憶。この空に浮かぶあ

らゆるものに対し、際限なく膨れ上がる怒りと憎悪◦脳裏に浮かぶ灰色の砂原の

情景と、それを懐かしいと思/っ気持ち。

「あ......ああああ......あ......」

心が、剝落してゆく。そのことを、実感する。

自分の内側、深いところに封じられていたものが、殼を破って目を覚まそぅと

している。そのことを、確€する。

このままでは、自分がいなくなる。そのことを、予感する。

「ティア……ニバ……ロン……」

廊下に這いつくばったまま、自分自身の血で濡れた手を、虚空に伸ばした。

途切れ途切れに、親しいはずの者たちの名を、呼ぶ。

「フエオド……ル……」

拳を、固めた。

今にも尽きそぅな体力をかき集め、気力を奮い立たせた。

(まだ——終われない)

自分は幸せだ◦望外の幸福を得て、ここまで生きてきた◦それは間違いない

し、そこに疑いを持つ気もない。けれど、未練はあるのだ。

そもそも死んでいたはずの身、そしてさっさと死んでいなくなる、/き立陽で、

それでも図々しくも、生きていたいと願ったのだ。生き汚く這いずることを選ん

だのだ。ならば当然、こんなところでこんなやつを相手に、屈するなどありえな

V

たとえ離れていたとしても、フエオドールと同じ方向を見ていたい。そう願

い、そう望んだ◦だから、顔を上げて、前を見ろ。それが、あの優しい堕鬼種と

混じり、彼に惹かれ、彼に焦がれている者の責務だ。

「久しぶりね◦相手の都合に構わず情熱的に迫ってくるところとか、全然変わっ

てないみたいじゃない——」

#み破った唇から、血が滴る。

「でもね◦悪いけど、女の意地とかそういう感じの都合でね、前回みたいに簡単

には支配されてあげられないの◦私の心が欲しければ長期戦を覚悟しなさい、モ

ウЛ、yvン-」

焦点の合わない目を前方の闇に向けて、震える笑みを浮かべる。

「——いえ、〈輝き綴る十四番目の獣〉——П」

»т

ビルルバルンホムロン家所有第七別莊の、大金庫。

固く閉ざされた鋼鉄の部屋の中央に、一振りの剣が安置されている。

並の体格の種族であれば片手では振り回せないだろぅ、赤灰色の巨きな剣だ。

そしてその刀身には、無数の金属片を繋ぎ合わせて作られているかのよぅに、

無数の罅が入っている。

その罅が、わずかに開いた。

罅の内側、金属片同士のつなぎ目から、かすかに光があふれ出した。

遺跡兵装を知る人が見れば、それが、適合者の魔力に呼応して剣が「熾きた」

ときの現象だといぅことがわかるだろぅ。しかしこの金庫の中は当然無人であ

る。剣の柄を握る者はもちろん、その光景を目撃する者自体、存在しない。

熾き上がったのは、わずかな時間のこと。

光は少しずつ薄れ、やがて消える。

罅は埋まり、剣は、元の姿を取り戻す。

そして——遺跡兵装モゥルネンは、再び闇の中に沈黙した。

それは、何の変哲もない玩具だ。

白色の石から削り出され、磨き上げられた、盤遊戯用の駒。ずんぐりとした兵

士の形を摸したそれは、遊戯の中では確か突撃槍兵の役割を与えられていたはず

だ。盤の中央、戦車が切り拓いた道を左右から固めて戦況を支配する。決して派

手な働きはしないが、この駒の扱いひとつで打ち手の力量がある程度読めるとい

うほど重要な駒だ——と、以前読んだものの本には書いてあった。

オデット•グンダヵールは、その盤遊戯を自分で遊んだことがない。だからそ

の、駒の強さとか働きとか重要性とかについて、自身で実感し理解しているわけ

ではない。だから、実際にその駒を手の中で弄びながら想うのは、もっと別のこ

と0

昔、二人の子供が、この駒を使って、楽しそうに遊んでいたのだ。

白い髪の少年と、黒い髪の少女。

あの頃は二人とも、十にも満たなかつた◦小さな二人に挟まれた小さな遊戯

盤、その上で幾度も幾度も、贋物の戦争が繰り広げられた。

『まおう、つて何ですか?』

そう、少女が尋ねたことがあつた。指さされた先には、他より一回り大きく削

り出された、禍々しい形状の黒い駒。魔王というのは、確かその駒の名称だ。

『ただの悪い王様、ですか?』

魔王。なるほど。改めて問われてみれば、なかなかに定義に困る言葉だ。

直感的には、少女の表現でも間違いはないように思える◦が、歴史を振り返れ

ば、悪政を敷いた王も悪漢どもをまとめた王も数限りなく、しかし彼らの全てが

魔王と呼ばれるようなものだったかというと、さすがにそんなことはない。

女は少し考えて、

『——ただ悪いだけじゃダメなの。すっっごく悪くて悪くて悪くて、悪すぎたせ

いで「こいつが死ぬだけで世界中のみんなが幸せになる」ってくらい悪い王様な

のよ』

『幸せ、ですか?』

言葉は理解できても腑にまでは落ちなかったのだろう、少女はきよとんとした

顔でそう問い返してきた。その一方で、

『物語の舞台装置ってことだね◦そいつが全ての悪の元締めだから、いなくなれ

ば世界から全ての悪が消える。全ての罪、全ての穢れを背負って物語から退場す

る最高の聖者。きれいな世界を作り出すために用意される、究極の生贄だ』

男の子のほうが、得意げな顔で、そんな可愛くないことを言い出した。

『すごい。みんな幸せになるの、すごいです。やっつけにいかないと、ですよ』

話をどこまで理解しているのか、少々興奮した顔で少女がそんなことを言い出

す。女は苦笑し、『でもね』と盤上のその駒を指先でつつく。

『そんな悪者はね、お話の中にしかいないの◦現実は何があっても、めでたしめ

でたしで終わってくれたりしない……誰も終わらせてくれたりしないから』

『じゃあ、僕がなるよ』

ふふん、と少年が鼻を鳴らした。

未熟者が大きく出たものだと女は思ぅ。とはいえもちろん、堕鬼種の子供が巨

悪に憧れるのは当然のことであり、健全な話でもある。微笑ましいものだと温か

く見守ってあげてもよかったのだけど、

『無理ね』

ばっさりと、幼い少年の語る夢を切り捨てた。

『悪者の中の悪者よ?誰かに惜しまれたり泣かれたりしないで死ねないといけ

ないのよ?寂しんぼうのフエオドールなんかが、なれるはずないじやない』

なんだよ、と少年は唇を尖らせて、

『姉さんだったらなれるっていうのかよ』

そんな風に反撃をしてきた。

『私? 私だったら——そ、っねえ——』

女は考えて。

考えて、そして——どのように答えたのだったか。

「ま......どうでもいいことよね」

眩いて、女は回想を打ち切った。

思い出は美しく、それに比して現実は汚い。過去は力をくれるかもしれないけ

れど、その力を使ってできるのは、今を生きることだけだ。

見渡せば——場末の宿の、薄汚れた狭い一室。調度らしい調度といえば、じめ

かべ か

じめしたベッドがひとつと、壁に掛けられた銅鏡がひとつきり◦せめて花の一輪

かざ

も飾ってあれば、もう少しましな気分になれそうなものを。

ベッドの上に自前の毛布を敷いて、その上に腰かける。

玩具の駒を握りしめ、過去の回想の代わりに、現在について思いを馳せる。

「大賢者は死んだ」

眩く。

「最後の星神も消えた。黒燭公たち地神の力も尽きた。浮遊大陸群を維持する

力はすでに無く、地上に降りる計画も間に合わなかった◦生きたいと願う者たち

の心と伴は、いつだって、生きようとする他のものを踏みにじる-」

激しい頭痛。顔をしかめる。

オデットは堕鬼種だ。そして堕鬼種には、その瞳を通して他者を魅了する力が

あるとされる。これは事実であり、同時にとんでもない誤りだ◦その力の本質は

魅了などではなく、精神の混淆◦人格やら記憶やら感情やらの混合物を、自分の

中から相手の心へと流し込む。同時に相手のそれを吸い上げる◦結果として、相

手の精神に直接、大きな影響を与えることができるという寸法だ。

もちろんこれは、極めてリスクの大きな行為だ。この力を使うということは、

他者の精神を自分の中に受け入れるということにも通じる◦それは大きな負担

だ。放っておけば精神が崩壊する。

あるいは古代の堕鬼種、悪魔の血の濃かったころのご先祖たちであれば、話は

違っていたのかもしれない◦が、血の薄まった現代の自分たちにそんな強さはな

い。自分自身が壊れるのを防ぐためには、相手を殺し、その心を消してしまわな

ければならない。

ここまでが前提。そして、ここからが問題。

もし精神を支えた相手が不死の存在だったなら、術者たる堕鬼種はどうなるの

か?

「——もう、この『浮遊大陸群に』生きる者たちに時は残されていない。私の愛

した者たちも◦あなたの愛した者たちも◦みんな等しく、もう、未来を許されて

いない。悲しいお話。ねぇ、あなたもそう思うでしょう……」

壁へと。そこに掛けられた、薄く曇った銅鏡へと、目を向ける。

鏡の中には、もちろん、場末の宿の、薄汚れた狭い一室の光景◦じめじめした

ベッドと、その上に敷かれた毛布が一枚。

けれど、その上に座る者の姿は、堕鬼種の女などではなく。

「......ネフレン•ルク•インサニア?」

灰色の髪の少女が一人、何の感情も窺わせない表情で、ただ小さく俯いてい

あと力き/おあと力よろしいようで

誰もが過去を生きてきた◦誰もが現在を生きている。しかし未来は白紙でしか

なくて、そこを生きる者たちの姿は誰にも見えない。削れ行く世界の片隅で、誰

もが他の誰かに、明日を生きて欲しいと願いを託している——

そんな感じでお送りしています当シリーズ、『終末なにしてますか?もう一

度だけ、会えますか?』第四のエピソード、佳境に入つてまいりました! てい

うか今回では終わんなかったですよコリナディルーチェ編! 「上下巻みたい

な」と前卷あとがきで書いたのに、まさかの上中下巻ですよ!お姉ちやんたち

と先輩たち、ほんと出番自重して!

いよいよ容赦も遠慮もなく押し寄せてくる、前シリーズからの合流者たち◦空

白の五年間に何が起きて、誰をどのょうに変えていたのか◦少しずつ明らかにな

る過去の記憶が、まだ見ぬ未来を少しずつ照らし出す。

そんな感じでお送りする、次回はきっと痛快バトルアクション。嘘です。

それはそれとしまして。アニメの話。そう、アニメの話をさせてください。

前巻までのあらすじでご紹介(宣伝)させていただきました通り、前シリーズ

『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』がこ

の春にアニメ作品となり、放映されました◦十五年の生を力いっぱい駆け抜けた

クトリ•ノタ•セニォリスの姿を、三か月かけて、大勢の方にお茶の間で見届け

ていただきました。

いやもう。すごいですょ◦原作を大切にしつつ、しかし決して縛られたりはし

ない。アニメならではの「終末な(略)」が、確かにそこにありました。原作の

クトリとは少しだけ違う形で、しかし間違いなく、アニメのクトリも世界一の幸

せを摑んでいました。

今からでも『NETFLIX』などの動画配信サィトで見られますので、見ら

れなかった方も見逃していた方も、あるいはもちろんもう一度見返したいという

方も、ぜひぜひ、あちらの空の妖精たちにも会いに行ってやってください。

D VDやブル^—レイも発売開始していますので、そちらもよろしくです。

それではまた、いつかは晴れるであろう、遠い空の下でお会いできると願つ

二〇一七年夏

かれの あきら

枯野瑛

カバー•口絵•本文イラスト/ue

デザイン/ムシカゴグラフイクス

カバー•口絵•本文イラスト/ue

デザイン/ムシカゴグラフイクス

http://tl.rulate.ru/book/8730/176518

Обсуждение главы:

Еще никто не написал комментариев...
Чтобы оставлять комментарии Войдите или Зарегистрируйтесь