Готовый перевод Shuumatsu Nani Shitemasu ka? Mou Ichido dake, Aemasu ka? / sukamoka volume 3: Том 3 (Иллюстрации+том на японском)

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これは少しだけ、昔の話だ。

具体的には、浮遊大陸群の共暦で四一五年の、春の出来事。フェォドール.

ジェスマンと妖精の少女たちとの出会いからは、三十年弱の月日を遡っている。

ひとつの、争いがあった。

もちろんそれ自体は、さして珍しいことではない。当時は少しばかり荒れた時

代でもあった。もぅ少し正確に言ってしまえば、少々大きな戦争が起きていたの

だ。

時代の主役は6番浮遊島を中心に広がる自治空域、俗に言ぅ『貴翼帝国』。老

皇を弑して皇帝の座を奪った将軍が、ノリと勢いで——と周囲からは見えた——

周辺の浮遊島や都市群へと侵略を始めたのだ。

都市群は都市群で、それぞれ勝手に、抵抗したり恭順を示したり商売を始めた

り謀略に勤しんだりした◦混乱が生まれ、広がり、収拾がつかなくなり、そして

『浮遊大陸群の存続のため外敵と戦ぅ』ための組織だったはずの護翼軍までが動

き出した。

無数の思惑が空を駆け巡り、打算と感情が人々を駆り立てた◦血が流れ、金が

動き、命が消えていった。

その争いは、そぅやって広がり行く戦火の、ひとかけらだった。

fT

燃ぇ上がる«が、於亂を批ぅ。

横たわる飛空艇の残骸は、大小合わせて五隻。その全てが、激しく燃え続けて

いる。

鋼と鋼の打ち合わされる耳障りな音。

一度、二度。少しだけ間を空けて、もぅ一度。

刀身いっぱいに罅の入った奇妙な大剣——いわゆる遺跡兵装——を手に、二人

の少女が斬り合っている。

遺跡兵装は、その見た目以上の威力を秘めた兵器だ◦使い手の熾した魔力に呼

応し、不死の〈獣〉に抗するほどの力を生み出す。そんなものを全力でぶつけ合

えば、もちろん無傷ではいられない。傷つき、傷つけられながら、少女たちは消

耗していく。

打ち鳴らされる剣と剣。押し合い、拮抗する力と力。

二人同時、弾かれたような勢いで後方に跳躍。互いに距離をとる。

「そこをどいて、ナサニア^ —」

ぼろぼろになった軍服をまとう少女が、血を吐くような叫びをあげた。

その手には、隙間からまばゆい光を放つ遺跡兵装。銘はムルスムアウレア◦波

打つような蒼と翠の色彩が、絶えず刀身の内側でのたうっている。

「あなたにだってわかってるはずでしよう、本当に倒すべき相手が何なのか!

生きる資格がある者が、誰なのか!」

彼女はもちろん、黄金妖精だった。

黄金妖精は護翼軍の所有する兵器の一種であり、その用途は、浮遊大陸群に攻

め込んでくる〈深く潜む六番目の獣〉との戦闘と定められている。その基本的な

事情は当時も変わらず、それ以外の理由のために戦うことはもちろん禁忌とされ

ていた。

この時代にも、妖精倉庫と呼ばれる部署は存在した。そしてやはり、それは、

本来「倉庫」という言葉が示す意味合いとは少し異なる形で運用されていた◦生

きて動いて世話の必要のある兵器というのはつまり軍馬や軍鳥と同類であるとい

うことてある◦その解釈のもと高級な軍馬と同じような扱レをもつて彼女たち

は管理されていた◦住処は灰色の塀に囲まれていた。病気にならない程度に清潔

を保たれ、体力を蓄えられる程度に食餌を与えられ、命令を理解できる程度に教

育されていた。

そして、そんな環境下でも、-おそらくは軍馬や軍鳥でもそうであるように

——彼女たちはそれぞれの心を育んでいた。

「それは、あたしたちが考えていいことじやないよ、エルバ」

対峙するもう一人の少女が、同じく血の香りのする声で、眩くように答えた。

「悲しいのもわかる。悔しいのもわかる。これ以上つきあつてらんないつて気持

ち、めちやくちやよくわかる。けれどそれでも、あたしらだけは、それを言つ

ちやいけないんだ」

「それが正しい判断だとでも、言/っ気Р:」

「……その質問に意味はないよ。わかるだろ?」

相対する少女もまた、静かに魔力を熾す。

手の中の大剣、遺跡兵装パーチェムに縦横の罅が走り、淡い光が滲み出す◦今

にも荒れ狂いそうな暴威を刀身の内に秘めたまま、少女は構えをとる。

「正しさなんてものは、前提のほうを変えればいくらでも歪むもんだ。あたしは

今、浮遊大陸群の未来を——それがどんなに醜いものであれ、未来が残るという

ことのために戦つてる。けれどあんたはそうじやない」

「醜いとはまた、ずいぶん控えめな表現じやない」

頷きもせず、ただ目をわずかに細める。

「その未来では、私たちは、本当にただの兵器になってる。〈獣〉相手だけじや

ない。私たちを所有する誰かにとって都合の悪いやつを、一方的に叩き潰すだけ

の便利な道具になつてる。たつたいま、私たちが、そうさせられたように!」

二人の背後には、大小合わせて五隻の、飛空艇だったものが炎を噴いている。

そのうちひとつは、護翼軍の攻撃艇。残りは帝国の軍用輸送艇と、その護衛

艇。

火力炉ではなく呪燃炉を主動力とする飛空艇は、暴走したとて、それ自体が大

きく火を生むことはない◦火元となったのは、これら五隻が積んでいた荷物◦そ

して、荷物に仕掛けられていた、万一の時に証拠を消し去るための爆破仕掛け。

大量殺戮兵器を前線に運ぶための輸送艇だと聞いていた。目的地に届けさせる

わけにはいかないと、最小限の犠牲で大きな悲劇を防ぐためだと、そう言われて

いた。

結果は、どうなったのか。

自分たちが墜とした輸送艇には、大勢の民間人が乗っていた◦様々な種族の者

が入り混じっていたのと全体的に焦げていたのとでうまく見分けられなかった

が、女性と子供が多かったょうに思えた。

なぜこんなことになつたのか◦ここにある情報だけでは判断ができない。偽情

報をつかまされたのかもしれないし、連絡の行き違いがあったのかもしれない

し、民間人の中に本物の殺戮兵器を運搬している誰かがいたのかもしれないし、

単に暗殺したい相手が民間人に紛れていたのかもしれないし、帝国籍の艇を墜と

せるのなら中身はどうでもよかったのかもしれない。

今さら真実を知る手段はなく、そしてその必要もない。

自分たちは、同朋たる浮遊大陸群の民を、殺させられたのだ。その事実だけ

は、後ろの真実がどんなものであったにせよ、変わらずにそこにある。

「こんなことをさせられて!これからもさせられるつていうのに! それでも

納得できるっていうの!?:」

叫びとともに、駆けた。

剣が——〈獣〉を殺すためのものであるはずの遺跡兵装が——交わる。

高く、重く、またあの金属音が弾ける。

そのままの姿勢、刃と刃を重ねたままで、力と言葉を互いに押し込んでゆく。

「……それでも、あたしら妖精は、軍に寄生する形でしか生きていけない」

「何を!」

「あたしも、あんたも、倉庫のみんなも、護翼軍の兵器としてしか存在できな

い。今ここであんたが馬鹿なことをしたら、後輩たちの未来も一緒に全部吹き飛

ぶことになる」

「それでもいい。汚れた兵器として遣われる前に終わらせてやるのも、先輩の務

めだ」

「それはただの傲慢だ、エルバ!」

「何とでも言いなさい、私はもぅ、妖精種の未来に希望を信じられないのよ!」

爆発めいた轟音をたてて、二人がそれぞれ反対方向へと吹き飛ぶ。

着地◦靴底を突きこまれた土砂が、大型の炸裂弾でも叩きこまれたかのように

爆散した。

迷わず、二人ともがその場で反転。開いたばかりのその間合いを、助走のため

だけに踏みつぶす。激しく熾された魔力に賦活された脚力は、二人の体を、常識

を超えた速度で前へと運ぶ◦重心を前方へと放り棄て、少しでも速く、少しでも

重い一撃を叩きつけるための、突撃の力へと全てを換える。

金属音。すれ違、っ。距離が離れる。身を翻し、再び突撃する。

続けて三度。四度。

二人の妖精兵が、互いに譲れない未来を懸けて、命を込めた刃を振るう。

今さらな事実に、ここで触れよう。

この二人は、同じ倉庫で育った、親友同士だった。

幾つかの戦場を共に駆け抜けもした。互いが互いを支え合い、ここまで生き延

びてきた。おそらくは死ぬときも同じ、もし死別することがあるとしたら自分が

相手を庇って斃れた時くらいのものだろうと、二人それぞれが同じように考えて

さえいたのだ。

いつまでも、などと都合のいい夢はみない。せめてその命潰える時までは一緒

にいようと。誓うまでもなくそう願い合えた、そんな二人だったのだ。

絶え間なく弾ける火花に混じり、涙の雫が散る。

それがどちらの眦から流れたものなのかは、誰にも分からない。

——これは、少しだけ昔の話だ。

だからもちろん、戦いはとうに決着している。

この時敗者となった少女は当然のこと、勝者となった少女もまた、それからそ

う時を経ずに命を失った。二人がそれぞれに案じた未来の行方を見ることなく、

まぶたを閉じた。

この戦いがあつたことを知る者は、もう、ほとんどいない。

1•笑顔の仮面

それは、とても古いおとぎ話。

地上にまだ人間なる種が栄えていた時代、子供たちを寝かしつけるために母

親が読み聞かせるよぅな、優しい民間伝承だった。

もちろんその手の物語の常として、細部には様々なバリエーションがあった。

口から口へと伝えられるたびに、新しく文章にまとめられ製本されるたびに、伝

承の詳細は少しずつ変化していった。しかしそれでも、要諦となる部分はほとん

ど変わることなく、ずつと伝え続けられていた。

いわく、たくさんの仕事を抱えて困り果てた靴職人のところに訪れ、少量のミ

ルクと引き換えに仕寧を手伝ってくれる小人がいるのだと。

いわく、それは体が小さいせいで、人間のよぅに手早く仕事はできない。一晚

をかけて靴の片方を作り上げるのがやっとなのだと。

伝承の中には、こんなものもある◦それは悪戯を好み、ちよつとでも目を離す

と色々なものをめちやくちやにして姿を消す。あるいは、たくさんの金貨を持つ

ていて、地の底に隠していたり壺に入れて持ち歩いていたりする。楽しそうに逃

げ回る彼らをうまく捕まえることができれば、大金持ちになれるかもしれな

それは、人間たちの歴史にそつと寄り添つていた、優しく人懐こい隣人たちの

記録。

——『レプラヵーン』といぅ名の、古き妖精たちの物語。

「……なるほど」

フェオドール•ジェスマン四位武官は、小さくうめいた。

軍服に身を包んだ、堕鬼種の少年だ。くすんだ色合いの銀髪、淡い紫色の瞳。

背は高くも低くもない。人好きのする笑顔の上に、小さな眼鏡を載せている。

「ょく分かった」

本を閉じる。

開店休業状態だった街中の貸本屋から借りてきたものだ◦学生向けの入門書と

いう体裁で、今はもう失われた古代の神話伝承について、わかりやすくまとめら

れている。

もともとフェオドールは、遠い歴史にもオカルト的な記録にも、さほど興味を

持つていない。けれど、『レプラカーン』という字面からは、目が離せなかつ

た。読まずにはいられなかつた◦そして、そこに描かれている古代の『レプラ

ヵーン』と、フエォドールが知る『黄金妖精』とを、比べずにはいられなかつ

た。

体が(程度の差はあれど)小さくて。

人間がやるはずだった仕事を代わりに務めてくれて。

ちよつと要領が悪くて。

悪戯好きで。

そして、ちよつとでも目を離すと、あつという間にどこかに消えてしまつて

ああ、まつたく。全部とは言わないまでも、主に性格的なところと性質的なと

ころは、さすがによく似ている。

「つまり、ずっと昔からそうだったんだな、君たちは」

つぶやき、本の表紙を指先で撫でる。

誰かがやらなければいけないことを、代行する存在。

きっと、ただ役に立たせてもらうことと、そばにいることだけを代価に求め

て。そして実際に、わずかなミルクだかだけをもらって幸せそうに笑っていたの

だろう。

そして邪悪にして凶悪にして極悪な人,間種たちは、彼女たちをとっつかまえ

て、黄金とやらを搾り取り、来る日も来る日も靴づくりをやらせていたに違いな

いのだ。

「滅びて当然だったんだょ、そんな連中は」

かつては肥沃だったという大地とともに、彼等はとうに滅びている。

得体の知れない侵略者、〈十七種の獣〉と呼ばれる暴虐なる者たちが、その大

地をことごとく破壊し尽くした。潰し、削り、枯らし、腐らせ、消し去つた。

かろぅじて生き延びた者たちは、〈獣〉たちの牙の届かない場所へと住処を移

さなければならなくなった◦具体的には、空の上。百を超える数の浮遊島が造り

あげた、大きな——しかしかつての地上に比べればあまりにささやかな——新し

き世界へ。

それから流れた時間は、五百年。

浮遊大陸群は、決して楽園ではなかった◦安全でもなかった。多くの犠牲を積

み重ね、多くの涙を振り払いながらでなければ、この小さな新世界は維持できな

かった。

そしてその上でなお、世界は削れ続けていた。

ひとつ、またひとつと、浮遊島は墜とされていつた。ある島は空にまで届いた

〈獣〉の脅威に屈して。またある島は、それとはまつたく関係のない、そこに住

まう者たちの行いの結果として。

誰もが、知識としては知つていることだ。

そして誰もが、事実として否定できずにいることだ。

世界はかつて、一度滅びかけて。

そして今も、滅びに向けて歩み続けている。悲しく笑う黄金妖精たちの命を搾

り取り、薄水の上の平穏を謳歌しながら。

「滅びて当然なんだょ、こんな連中は」

固めた拳に視線を落とし、フヱォドールはもう一度、その言葉を繰り返した。

あの日から、十日ほどの時間が経っている。

その間の変化について、簡単に触れておこぅ。

まず、ラィエル市を形づくる機械仕掛けたちは、順調に急速に劣化を続けてい

る。

ずっと昔、この街が鉱山都市であることをやめたころに、多くの技術者たちが

ここを去っていた。39番浮遊島が〈獣〉に吞み込まれ、次はこの38番島だといぅ

話になった時に、残りの大半もまた逃げ去ってしまった。この市に残された者た

ちには、自分たちの足元を形づくる機械仕掛けを維持する手段がない。

壊れた機械は勝手に直ったりしない。一度限界を超えてしまえば、もはや帰る

道はない。不調を無視し、故障を放置し、崩壊したものを切り捨てるといぅ形で

しか、人々はもぅそこで生きていくことができない。

この街は、一月前、流通の要たる港湾区画の半ば近くを切り捨てた。そしてこ

の十日の間に、市街の二割近くを、機械部分制御不可であるとして危険区域に指

定◦市民の立ち入りを禁止した。

ラィエル市はまだ死に終わっていない。けれど、確実に削れ続けている。

さらに別の話として。

常識を超えた強さで魔力を熾したラキシュ•ニクス•セニオリスは、人格崩壊

だか何だかに陥り、ずっと眠り続けている。

意識を取り戻しそぅな兆しは、まったくない。

そして、これは、当たり:一則のことだが。

リンゴは——ことあるごとにフエオドールの腹に全力の体当たりをぶつけてき

たあの幼い妖精は、もぅ、どこにもいない。

t

整備資材、砲弾と火薬、食料、嗜好品各種、その他もろもろ◦ひとつひとつ木

箱の中身を改め、手元の物資リストと比較していく◦荷札は間違っていないか。

数量は記載されている通りか◦配送のどこかの過程で、不良軍人にょるちょろま

かしが発生していたりはしないか。

今回護翼軍中央から運ばれてきた補給物資の量は、輸送飛空艇二隻分に届い

た。

「——はい、確かに受け取りました」

手元の物資リストから顔を上げ、山積みになつた木箱をぐるりと見回してか

ら、フェォドール•ジェスマン四位武官は力強く頷いた。

「ところで、リストにあるこの『極秘』つて箱、結局何だつたんでしょぅね」手

元のリストを手の甲で軽く叩き「アィセアニ位武官待遇に直接引き渡す、つて

なつてますけど」

「ああ、例のやつですな。黒くてでかくて、鎖でぐるぐる巻きの箱」

「、っへぇ、あからさまに匣しいですねそれ」

「怪しかったでありますよ実際」

輸送隊所属の蛙面人は、ぴるぴると舌を出し入れしながら言う。

「中身は、うちの艇にも知らされませんでしたなあ◦とにかく大事に運べ、中身

については詮索するな、とだけ。そんなん具体的にどう扱えばよいのだというも

つか

のでして、いやもう気を遣う気を遣う」

「あはは、ご苦労様です」

ここでフエオド^ルは声をひそめて、

г……噂じゃ、例の『大賢者の遺産』なんじゃないかって話でしたけど」

いかにも与太話ですよという体裁で、そんなことを言う。

罪のない噂話は、平均的な軍人の大好物だ。案の定、蛙面人はぎよろりと目を

剝いて、その話題に興味を示した◦同じように声をひそめ、周囲を一度見回して

「例の都市伝説ですな◦ここ数年の護翼軍最上層部の忙しなさは、大賢者様が既

にこの空を去られているが故だ……でしたか」

ここ数年の護翼軍は、どこかがおかしい。

表だっての話題にこそならないが、水面下では広く囁かれていることだ。

護翼軍は、浮遊大陸群全体の存続のための軍事力だ。これは大前提。そして少

なくともこの点は、今も昔も変わってはいない。その上で、ここ二、三年の護翼

軍は、迷走を始めている。コストのかかる兵器を解体したり、逆に有効度のわか

りにくい新たな兵器に巨費を注ぎ込んだり。意図の不明な形で兵力を再編した

り、それまででは考えられなかった各自治領域への内政干渉を行ったり。

迷走の直接の原因は明確で、護翼軍の意思決定システムそのものにある。

名目上、護翼軍の最高意思決定権は、五人の将官にある◦そして、彼らのそれ

ぞれが、護翼軍の大きな動きを決定する権限を持っている。

つまり、こ、っいうことだ。浮遊大陸群全体の存続という目的を共有していて

も、五人がそれぞれに違う手段を心に描けば、当然、足並みは揃わない。ならば

意思や意図のすり合わせを行えばよいのかと言えば、彼らの地位の高さゆえにそ

れもうまくいかない。護翼軍は決して巨大な規模の組織ではないが、それでも将

官ともなれば、大都市の首長にも匹敵する権限と責任と不自由を持つことになる

のだから。将官同士の合意を得るのは、都市同士の合意を得るに等しい。

そんなシステムの上でも、なんだかんだで護翼軍はこれまでやってこられた。

その理由は何かといえば、やはり大賢者の存在をおいて他にはない。

大賢者。

おそらくこの浮遊大陸群で最も有名な、偉人中の偉人である。

いわく、〈十七種の獣〉によって地上のすべてが滅び去ろうとしていたその

時、わずかな生き残りを空の上の大陸群に導いた救い主。いわく、浮遊島同士の

争いが激化しようとしていた時代に護翼軍の設立を支え、それからずっと陰から

見守り続けている、大いなる守護者。彼がいなければ浮遊大陸群は存在せず、彼

がいなくなっていれば浮遊大陸群は維持されてこなかったとまで言われる、スぺ

シャル重要人物。

護翼軍の名目上のトップが将官たちだというなら、実質上のトップは彼だ◦彼

は浮遊大陸群の歴史そのものであり、さらにはそれ以前、地上に栄えていた国々

についてすら造詣が深い。彼が健在でありまとめ役として舵をとり続けてきたか

ら、護翼軍はこれまでひとつの組織としてやってこられた。

だから。実際に護翼軍がばらばらになり始めた今、当然のように、人々の間に

はひとつの噂が流れていた。

いわく、大賢者はもういない。

浮遊大陸群そのものと言ってもいいだろう偉大なる守護者は、どういう理由に

よってか、この空を離れた。我らはついに、自分たちの足で歩きださなければな

らない時を迎えたのだ……と。

г言われてますよね、大賢者はこの空を去る前に、ひとつの箱を遺した。その中

には、最悪の災厄が詰め込まれている◦しかしその災厄は、浮遊大陸群を本当の

絶望から救う最後の希望ともなりうるものなのだ……とかなんとか」

「ォチも色々予想されてますなぁ。〈獣〉にも効く夏風邪の病魔だとか、二日酔

いによく効く代わりに死ぬほど苦い丸薬だとか、大昔に大賢者が惚れてた娘の似

姿だとか」

「みんな想像力ありますよねぇ」

しみじみと頷きあう。

ろくでもないォチばかりが揃うのは、この手の罪のない噂話の常である。雑談

のネタには、中途半端な現実味などいらない。荒唐無稽であることのほうが大切

なのだ。

「今回のその黒い箱が、その遺産かもしれない。僕たちの手の届くかもしれない

ところに、神話に近い浪漫の産物があるのかもしれない。夢のある話ですよね」

「とはいえ、機密に鼻づら突つ込んで確かめるわけにもいきませんからな。謎は

謎のまま、浪漫は浪漫のままにしておくのが一番ではありましよう」

両目をぐりぐり動かしながら、たぶん蛙面人は笑つたのだと思う。

フエオド^—ルもまた、「ですよねぇ」と、ш!らかに笑う。

げこ、と蛙面人は興味深そうに喉を鳴らし、

「フエオドール殿、最近、何か吉事でもあったのですかな?」

「え?」

「以前にお会いしたときより、ずっと明るい顔をしているように見受けられる」

返答に困る。

「……気のせいです。特に何もないですよ」

「で、ありますか」

貴殿らの種族は目が小さくてわかりにくいですな、と蛙面人が首をひねる。

離れたところで、顔なじみの上等兵が腕を振る。お一い四位武官、ちよっと手

伝ってくれ一。それを受け、フエオドールは「今行きま一す」と明るく手を振り

返す。

「それじゃ、ここで僕は失礼します◦後の手続きは、係の三位技官が担当になる

はずですので、そちらにお願いしますね」

言って、少年は走り出す。

あれから、十日が経っている。

その日々のほとんどの間、フエオドールは、実に明るく振る舞っていた。

笑顔を絶やさず、誰に対しても明るく接し、仕事ぶりはそれまで以上に丁寧

だった。

妖精の存在おょびその特性については、現在もまだ極秘事項のままである◦あ

の時突然にラィエル市内で侵食を始めた〈重く留まる十一番目の獣〉を仕留めた

のは、フヱォドール•ジヱスマン四位武官が極秘で預かっていた、最新の試作爆

弾であるとされた。

いわく、リンゴを殺され、ラキシュを倒され、それでもフエオドールは〈獣〉

に立ち向かった。爆発を含めあらゆる衝撃を吸収し侵食の速さへと換えてしまう

はずの〈十一番目の獣〉に対し、それでも、手の中の爆弾を投げつけることを選

んだのだ、、っんぬん。

本人の知らない間にそんなストーリーが出来上がり、第二師団中に広められて

ぃた。

「大した子よねぇ、実際」

同期である蛇尾種の四位武官は、最近の彼について、感心したようにこう評し

「大事な部下と、娘みたいに可愛がってた子を、同時になくしたわけでしよ?

でもその直後に、自分の危険を顧みないで、ちゃんと仇を討った。そして今は、

ああやって精一杯に明るく元気に生きてる」

、っん/っん、と/っなずいて、

「あれはきっと、生き残った彼がちゃんと胸を張っていないと、ラキシュちゃん

たちが悲しむからよね。ほんとは泣きたいくせに、無理しちゃってさ」

「兵士として在ることを選んだ、ということでしような」

付き合いの長い狼徴種の上等兵は、痛ましげに耳を伏せてこう評した。

「戦場に立つならば、戦友との死別は避けられん。失うこととどのように向き合

い、立ち向かっていくかは、それぞれが答えを見つけねばならぬこと◦深い悲し

みを背負いながら、それでも立ち上がり戦い続ける……」

感動を表すように、ゆっくりと首を振る。

「それが、苦しみの底から四位武官が見つけ出した答えなのでしよう」

「英雄など所詮、他人の命を踏み台にして成りあがった者の別称にすぎん」

付き合いの長い猫徴種の上等兵は、最近の彼について、忌ま忌ましそうにこう

語った。

「どこまでが計算通りかは知らんが、全くよくやったもんだ。自分を慕ってくる

娘を犠牲にしてまで、順調に手柄を重ねる◦出世も早まることだろう◦品位も良

識も常識もかなぐり捨て、ただ上のみを目指す」

ふん、と不機嫌も露わに鼻を鳴らす。

「その我欲だけは大したものだと、認めざるを得んな」

fT

「最近のフヱオドール、君はどぅ思ぅ?」

いきなり高いところから声をかけられ、抱えていた木箱の山を取り落としかけ

た。

「......そんなとこで何サホつてるんですか、ナックスさん」

恨めし気な顔で、ティアット•シバ•ィグナレオは声の主を見上げる。

「休憩だよ休憩。人聞き悪いことは言いつこなしだ」

積み上げられた大型木箱の山に腰かけた鷹翼種の青年——ナックス•セルゼル

上等兵は、片目をつぶり肩をすくめた。

「俺たち有翼の種族はほら、骨格とか華奢にできてるし筋肉つかない体質だし

で、力仕事には向いてないんだよね◦世の中には適材適所って言葉があるわけだ

しさ」

「ふ一ん?」じっとりと責めるよぅな目「それはあれですか? 妖精は華奢じゃ

ないし筋肉がっしりしてるから、力仕事を任せて安心って意味ですか?」

「いやそこまでは言わないけどさ」

弁解するよぅに軽く手を振りながら、ナックスはティアットの手元を見る。

г言わないけど、実際君って、見た目より相当力持ちだよな?その箱、そんな

に軽いもんじゃないだろ?」

「まぁ、そですけど」

当の木箱を軽くゆすって姿勢を正し、両腕と胸とに重量を分散させる。

箱の中には、護翼軍で採用されている重火薬砲で広く使われる、共通規格の砲

弾が詰まっている◦いまテイアットが抱えているのは、そんな木箱を縦に積み上

げてみっつ◦ナックスの言ぅとおり、なかなか重い。たぶんだが、単純に目方を

比べるのなら、テイアット自身の体重ょりもずっと上……のはずだ。たぶん。

「ちょっとだけ魔力を使って、全身を賦活してるんです」

軽く体をゆすってみせる。

魔力◦生命力の裏技。死に近しい者のみが強く熾せる、形なき力へと繋がる無

形の回路。そして受肉した死霊であるテイアットら妖精は、本来の意味では生き

てすらいない存在だ。ゆえに、魔力を扱ぅ技術との相性はすこぶる良い……のだ

、、、〇

「わたしってラキシュみたいな才能がなくて、すごく強い魔力ってのは熾せない

んですよ◦でも逆にそのおかげで、暴走とかの心配がほとんどないの◦だから、

こういう時には気軽に使えてけっこう便利」

「……持ってる力を十全に使いこなせてるってのも、立派な才能だろ?」

「コンプレックスまみれの凡人としましては、そういう正論で納得したくないと

ころもあるのですよ^ —だ」

拗ねたような口調でそう答えてから、一転して声を落とし、

「……ひとことで言って、見てらんないです」

гん?」

「さっきの質問。わたしが、今のフエオドールについて、どう思ってるかって」

少し時間を空けてから、ああ、とナックスは小さく頷く。

「そぅいぅ感想になるってことは、君にも今のあいつの素顔、見えてるんだ

な?」

「くやしいけど、嫌ってくらいにはっきりね。あいつって嘘つきのくせに、根っ

このところは、ばっっっかみたいに素直だから」

はああああ、とこれ見ょがしに重たく息を吐いてみせる。

「あの『真面目で誠実で好人物で眼鏡な四位武官』の白々しい演技が、以前にも

増して完璧だもの。演技が完璧ってことは、それだけ、素顔の自分を抑えつけて

るつてこと」

もともとフェオドール•ジェスマンは、二面性を隠し持つ人物だった。真面目

で誠実な顔はその片方でしかなく、その陰には意地悪で性悪で根性悪な本性が隠

れていた。そして微妙に隠しきれずに、ちらちらと漏れていたりもした。

けれど今の彼には、その、ちらちらと漏れていた部分が、かけらも見えない。

それくらい徹底的に、今のフヱォドールは、自分の心を押し殺している。

少なくとも、テイアットの目には、彼がそう見えている。

「でもそんなの、自分自身から逃げてるだけじゃない。どうせそのうち現実と向

き合つて、今ょりずつと辛い気持ちになるだけなんだから」

リンゴがいなくなつたこと。ラキシュが眠りについていること。もちろんこれ

らの事実は、テイアットの心にも大きく罅を入れている。しかしテイアットは、

フエォドールとは別の意味で、それを表には出さないことを選んだ——妖精兵と

して愛情に散ることを自ら望む者として、今ここで足を止めることは許されない

と,©つたから。

他の誰にも強いる気はないし、共感を求めるつもりもない。テイアット•シ

バ•イグナレオー人だけの中にある、ささやかな矜持。

「ずいぶん力強く言いきるんだな。もしかして経験者?」

「……別に。こんなの、ただの一般論」

ばさり、と鷹翼種の翼が一度大きくはためく。木箱の上から飛び降りたナック

スが、テイアットのすぐ隣に降り立つ。

この重い荷物を代わりに持ってくれたりするんだろぅか、とテイアットは一瞬

だけ期待した。けれどもちろん、そんなことにはならなかつた。

「テイアットちゃんはもぅ知つてるかもしれないけどさ。フエオドールつてさ、

子供のころにちょいと、大きな事件に巻き込まれたことがあるんだょ」

「事件?」

「そ、事件◦そん時に親類縁者からただの知り合いまで、とにかく周りにいた誰

も彼もを一度に亡くしてんだ。だから、こう言っちゃなんだけど、大事な誰かを

失うことは、経験済み。また同じょうな目に遭ったからって、今さら折れて壊れ

たりはしない」

それが良いことか悪いことかは分からないけどね、とナックスは渋い顔で言

、っ0

「折れそうになっても、壊れそうになっても、今さら立ち止まれやしない。そん

なことは、あいつの過去が許さない……ってさ」

「-ナックスさんって、フエオドールとは、昔からの友達なんでしたっけ」

「まぁな、あいつが護翼軍に入った最初の年からだ。あいつが出世して個室をも

らうまでは、ずっと同じ部屋に押し込められてた」

「じゃあ、その……もしかして、あいつの夢っていうか野望っていうか、そうい

うのを聞いたことあつたりします?」

ティアットは、フエオドールの本気の叫びを、少しだけ聞いたことがある◦そ

れは何というか、あまり多くのひとに聞かれてはいけなそうな内容の……けれど

間違いなく、彼の心が本当に求めている未来の姿だった。

世界を捨てることを決めたんだ、と、彼は言っていた。

世界を護るためにある軍に所属し、四位武官という地位につきながら、その立

場と真逆のことを、宣言していた。あれは一体、どういうことだったのか。

「あん?」

顔をЩき込まれた◦反射的に、目を逸らしてしまった。

「まぁ......いちおう、それなりにはな一

びくりと、ティアットの肩が勝手に震えた。

ナックスは意地悪く片目を閉じて、

「さすがに女の子の前じや言えない内容なんだけどな?」

「あ、そういうやつですか」

UL. ^т/ レ ^

拍子抜けすると同時に、口元がほころんだ。

助かった、と思う。自分から尋ねておいてなんだが、冷静なままでこの話題を

続けられる自信がなかったから。

「猫徴種の美女と仲良くなる、とかそういう感じですか」

「そうそう。艷っとした黒毛がいいとか、そういう話」

「身の程知らずの高望みですねえ」

けたけたと笑い合う。

「まあ、あれだな」ふ、とナックスは笑いを緩めて「過去の誓いも未来の夢も、

過ぎれば毒にしかならないってやつだ」

その言葉は、ティアットの記憶を小さくくすぐった。聞いたことがある。確か

その後ろには、こぅ続いたはずだ。

「ええと——我々は所詮、現在といぅ点の上でしか生きていけないのだ、でし

たっけ」

それは、小さかったころに大好きだった物語——何度も繰り返し観に行った映

像晶石の中で、ささやかれていた一言◦退役軍人だった主人公(ハンサムな

爬虫種だった)に、かつての上官(渋い蛇尾種だった)が煙草をふかしながら

送った、別れの言葉だ。

ナックスが小さく口笛を吹く。

「渋いもん、知ってるんだな」

「たまたまです」

答えて、ティアットは腕の中の木箱を、ひよいとまとめてナックスに押し付け

た。

繰り返すが、それは砲弾の詰まった、見た目よりきっつい重量物である。

「ぅえんぎっ!?:」

よくわからない悲鳴をあげながら、それでもナックスはそれを取り落としたり

はしなかった。両腕を伸ばしきり、派手に体勢を崩し、脂汗で顔面をびっしより

と濡らしながら、それでもしっかりと重量を支え切る◦ふだんの振る舞いこそ軟

弱めいているが、それでもさすがは軍属の上等兵といったところか。

「防湿倉庫の四番に持ってっといてください。それじゃ」

「ちよ、ちよつと待つてティアットちやん、これ重さけつこぅ冗談にならな

ぃ!」

「華奢で筋肉のないわたしでも持てたんだから、ナックスさんなら大丈夫です

よ」

「きみつてときどき、言/つことすごく図太くなるよね!?:」

悲鳴をあげるナックスを背後に、ティアットはその場を後にする。

「背骨、俺の背骨がかなりやばい!」

……ぎやあぎやあ騷ぎながらも投げ出したりはしないあたり、なんだかんだ

言つて、彼もちやんと軍人なんだなあ……そんな、どぅでもいいことに感心しな

がら。

2•浮遊大陸群の敵

空が青い。

雲が白い。

どこかから、気の早い春の花の香りが漂ってくる。

そして、窓辺から顔を突き出してぼんやりと空を眺めているフエオド^ —ルは、

この上ないほど憂鬱な気分を嚙みしめていた。

ラキシュとリンゴが失われたあの事件について考えている。

姉が仕掛けたものではないかと、まずは疑った◦あの、実に堕鬼種らしく性根

のねじくれまがった性悪女が何を考えているのかは、同族にして親族であるフエ

オドールの想像も届かない。何を企み何をやらかしたとしても、改めて驚きはし

ない。

しかし同時に、どうにもそれらしくないという気もしている。今回の事件の詳

細を聞き確かめてみれば、それはあまりに杜撰で偶発的で外連に欠けて、つまり

は「姉らしくない」ように思えたのだ。

だれ

この直観が正しいと仮定するなら、あの姉とは別の誰かが、『エルビスの小

瓶』を商売の、あるいは策謀の種として使つていたということになる。あまり考

えたくない可能性ではあるけれど、だからといって無視するわけにもいかない。

「......といつてもなあ」

問題は、事件についての調査自体が難しいことだった。なにせ、『黄金妖精』

と『小瓶』という二つの機密が関わった一件だ◦どうしようもなく情報源は限ら

れてしまう。

ティアットたちからの報告は受けている。なじみの情報屋にして捕り物の当事

者の一人、ナックス•セルゼル上等兵から、もう少し踏み込んだ事情も聞いてい

る。ティアットたちが捕まえてきたという、豚面種の商人および獣人の護衛たち

の供述についても——ほとんど白紙だったが——書類に目を通した。それが全て

だ。

「あの連中が釈放されるのを待つ……かなぁ……」

おおやナ

何分、『小瓶』の存在自体を公にできない以上、それを商取引しようとしてい

たということを罪に数えることはできない。よって、あの商人たちの表向きの罪

状は、侵入厳重禁止区域への無許可での立ち入りや勝手な機械の起動、さらには

建造物破壊と騒擾と軍務妨害などなどとなっている。

加えて、護翼軍はあくまでも外敵に抗するための軍であり、治安維持に属する

権限を持っていない◦よって、所属する軍人が悪さをした時に独居監房にプチ込

むのとはわけが違うのだ◦一般の犯罪者を捕まえておくなどという権利はない。

「度重なる事件のせいでラィエル市の拘留施設が麻痺しているため一時的に犯罪

者が護翼軍に委託されている」という体裁を整えてはいるが、そんな欺瞞にはど

うしても限界がある。おそらく遠くないうちに、彼らは市法に定められた通りの

身代金を払い、自由を取り戻すことだろう。

そのことに対して、怒りはある。憎悪もある。法が裁けないなら自分でその腹

を刺してやりたいという思いもある。しかし、フエオド^^ルには目標がある。誓

いがある。計画があり、そのために積み重ねてきた日々がある◦だから、踏みと

とまることができた。

「あいつらから、取引相手の正体についてもう少し聞き出せれば……」

「、х.とる^」

——ベたあ、と何か小さくて温かいものが足に貼りついてきた。

見下ろす。

青空の色の髪をした幼い少女が、軍服の下半身に抱きついているのが見える。

「マシユ」マロ、と続けそうになった言葉を途中で呑み込んで「••::リィエル」

その少女の名を、先日聞かされたばかりの新しい名を、呼んだ。

「ぁいあ」

リィエルは、嬉しそうに顔をあげた。よだれが軍服の裾についている。

「こら離れなさV」

「や一」

軽く足を振るが、思いのほか強い腕の力でしがみつかれていて、離れない。

「えとる^- あそふ」

гごめん、今忙しいから」

「いつも、それ。つまんない」

あれからの十日、何度も繰り返されてきたやりとりだ。

リィエル——以前までマシュマロと呼ばれていたこの娘——は、この通り、ま

だこの第五師団にいる。そのぅち、68番浮遊島だったかにあるといぅ妖精たちの

住処へ送られることになるのだろぅが、少なくともそれは今日明日の話ではない

らしい。

今の護翼軍基地は、リィエルにとって、とにかく退屈な場所であるらしい。顔

を合わせるたびにこぅしてフエオド^ —ルにまとわりつき、かまえとわがままを言

う。そしてフエォドールは、多忙を理由にそれを突つばねる。

嘘ではない。実際、フエォドールがやらなければならないことは、数多い。

しかし、噓ではないだけだ。フエォドールが抱えている作業の全てが急を要す

るものというわけではないし、彼がやらなければいけないことというわけでもな

かつた。それでもフエォドールは多忙であることを求め、それを理由に、リィエ

ルを拒み続けた。

この少女がそばにいると、どうしても思い出してしまう。意識してしまう。

リンゴのこと。

ラキシュのこと。

もちろん、幼い子供が、死別を理解できないのは当然だ。妖精だろうと他の種

族だろうとその辺りの事情は変わらない。だから、リィエルが、二人の不在を悲

しんでいないということ自体に対しては、思うことはない。

しかし、それでも。何ひとつ悲しみなど知らずに、無邪気にはしやいでいるこ

の子の姿を近くで見ているのは、辛い。

一生懸命になって取り繕っている優等生の仮面が、溶けてしまいそうなくらい

こ0

「パニバルに遊んでもらえばいいだろ?」

「う一」

嫌そうな顔をされた。愛情表現を剣に頼りがちな彼女は、いまいちこの子に好

かれていない。かわいそうにと思わなくもないが、もちろん自業自得ではある。

「じやあ、ティアットは?」

で2っ丨一

もっと嫌そうな顔をされた。真面目で融通が利かない優等生気質である彼女も

また、やっぱりこの子にあまり好かれていない。自業自得だし、ざまあみろとか

思う。

ならばコロンはどうなのか、という質問は飲み込んでおいた。彼女が今どうい

う状況にあるのかをフエオドールは知っている。目を覚まさないラキシュのそば

から離れず、ずっと看病をしている……というより、ほとんど放心している。少

なくとも、子供の世話を焼けるような状況にはない。

(そつとしておいてやるしかない……よな、あれは)

リィエルの前髪を、指先でくしゃりとやる。

片目をつぶって、/っっとうしそうな顔をされる。

「あまり困らせないでくれよ。部屋に戻って、一人で遊ぶんだ」

г......ぅ一」

不満にめいっぱいに頰を膨らませながらではあるが、聞き分けてはくれた◦小

さな背中がてってけと走り去るのを、言葉なく見送る。

兵舎の一階◦先日まで予備資料室であったところから書類棚を全部運び出し、

ベッドを運び込み、大慌てで形だけ整えた◦そして出来上がったのが、いまアイ

セア•マイゼ•ヴァルガリスニ位武官待遇が使っている部屋である。

「ラキシュはどぅなるのか、つすか......」

手紙か何かだろぅか。何やら書きものをしていた手を止め、アイセアは、くる

りと車椅子の車輪を回してこちらへと向き直つた。

「ちょい長い説明になるけど、構わないっすか?」

「はい、お願いします」

フエオドールは頷いた。

この女性は、妖精兵という機密存在について、どうやら非常に多くを知ってい

る。そしてそれは、単に当事者であるからという枠に収まらないようだ-つま

りティアットたちよりも体系的に、より深い事情まで把握している。

聞き出せることは、少しでも多く聞き出しておきたかった。

「あたしら妖精は、死を理解する前に死んだ、小さな小さな子供の魂のなれの果

てっす。これは知ってるんすよね?」

「はい。彼女たちから、簡単にですが説明を受けました」

「その説明で納得したんすか?」

「いえ、納得は微塵もしていません。ただ、そういうものだと理解はしました」

「なかなか頼もしい呑み込み方っすねえ」

にははとアィセアは笑う。

似合わないな、と思う。

ほつそりとした、穏やかな風貌の持ち主なのだ。徴無しの異性に興味を持たな

いと公言しているフヱオドールだが、この女性がときどき浮かべる物憂げな表情

などには、意味もなく動揺させられたりもする。

だからこそ、その外見と嚙み合わないふだんの語り口調と笑い方とに、どうに

も齋和感が漂うのだ。

まるで、わざわざ他人を演じているように見えるのだ。

本来の自分自身を、作りものの笑顔の後ろに隠しているような。ここにいるの

は自分ではなく、意地悪く笑う別の誰かなのだと、誰かに言い聞かせているよう

そんな少年の心中を知ってか知らずか、アィセアはペンをくるくると回しなが

ら、

「そもそも魂ってのが怪しさ大爆発なオカルトヮードなわけっすけど、そこんと

ころも呑み込んでもらぅとしてっすね◦そのお子様ズ魂には、お子様の記憶や感

情のかけらが、ちょっぴりこびりついてるんす◦本来ほんとに小さな汚れみたい

なものなんで、普通に暮らしてるぶんにはしばらく影響もないんすけどね」

そこで橋子を勧められ、フエオド^ルは腰を下ろす。

「普通に暮らしてるぶんにはしばらく、ですか」

「そぅ。基本的には時間をかけて、限定的な状況においては速度を上げて、それ

らの『前世のかけら』が、あたしたちの記憶や感情を……おおざっぱに言えば人

格を、食い荒らし始めるんすよ」

「食い荒ら......Р:」

動揺が、隠しようもなく顔と声に出る。

アィセアは構わずに説明を続ける。

「ちゃんと成体妖精兵として調整を受けていれば、この侵食の速度は大きく抑え

られる。二十歳近くになるまでは目立った影響は出ない。そしてそもそも、そん

な年まで長生きする妖精なんてものがほとんどいないから、敢えて問題視するよ

うなことでもない……まぁ、最近、いくつか例外が増えたんすけどね」

言葉は濁されたが、フエオドールはその「増えた例外」とやらを推測できる。

この五年の間、〈六番目の獣〉との戦いがなかったからだ◦そもそもの戦場がな

ければ、兵器が使い捨てられることもない。

「ただ、調整を受けていても、特定の条件下では侵食がいっきに加速する。具体

的には、妖精の基準から見てすら『異常』と言える桁の魔力を熾したり、それに

触れたりすること◦さすがに自力だけでどうにかなる話じゃないんで、超高位の

遺跡兵装で魔力増幅フル稼働することつてのと、ほとんど同義つすね」

г遺跡兵装」

その言葉を喉元で一度咀嚼して、

「ティアットたちはどうなんですか?」

「……あの三人なら心配ないつすよ」

三人。

四人ではなく、三人。

分かつている。ラキシュ•ニクス•セニオリスは、その数には含まれない。

「ィグナレオとカテナは、どちらかというと低位の剣◦コロンのプルガトリオは

そこそこ高位つすけど、そこそこ程度じや今言つたみたいな事態には届かない。

うちの倉庫に今ある剣の中だと、条件を満たすのは反則剣セニオリスと......あと

はヴァルガリスとムルスムアウレアくらいじやないすかね」

にやはは、と、アィセア•マィゼ•ヴァルガリスは笑う。そう多く話したわけ

ではないが、この笑い方は何かの本音を隠すためのものだと、フエオドールは理

解している。

「その、人格の侵食......というのは、具体的にはどのように?」

こわ

「ゥこころゥが壊されていく……とでも言えばいいんすかね。個体差が激しいう

え症例がそんなにないんで、あんまり正確な説明はできないんすけども◦新しい

古いとかと関係なしに、記憶が次々と欠け落ちる。感情がうまく動かなくなる。

知らない記憶とか、赤の他人の感情だとかが、状況と無関係に頭の中に沸き上

がってくる。……特に激しく状況が進行していく最中は、瞳が赤く変わったりす

ることもあるみたいつすね」

瞳の色。

ラキシュの場合、どうだっただろうか。よく覚えていない。記憶に残っている

のは、燃え上がるような赤い髪だけ。

「そうして記憶や感情が壊れていって、そのうち人格が維持できなくなる」

ちんもく

ШН ハ

「生きていくうえで最低限必要なかけらすらなくなってしまったら、昏睡する。

その後は、死体と同じ。体が生きていても、基本的に中身は空っぽっす。放っと

けば、そのまま空気に溶けて、消えてなくなるっすよ」

「治す手段は」

沈黙。

わずかに、アィセアの瞳が濡れているように見えた。

あの日フエオドールは、ラキシュに対して、大切なことを告白した。そして彼

女の言葉を、結局、聞きそびれてしまつた◦そんなものはいつでも聞けるだろう

と、自分たちにはまだまだ時間があるはずだと、そう思つていたから。思いこん

でいたから。

自分たちは、薄水の上に生きている。そのことを、忘れてしまつていたから。

悔やんでも、嘆いても、カレンダーの日付は遡らない。失われてしまつた相手

とは、もう二度と、会うことが叶わない。

「君のせいじゃないつすよ」

労わるような、アィセアの声。

なぜかは分からないが、その声の優しさが、癇に障つた。

「僕のせいじゃない、ですか。誰のせいでもない。それはそうですよね」

隠しようもなく、苛立ちが声に出てしまう。

こ、っいぅ時、堕鬼種の舌は、必要以上になめらかに回る。なめらかすぎて、自

分自身でも何を言っているのかが分からなくなる。心にもない言葉か、あるいは

ねむ

それこそが心の奥底に眠る本音なのか。その判断もつかなくなる。

「大手を振って誰かを恨めるなら、誰もこんなに苦しんだりしない。諦めて受け

入れるしかない。全部最初から決まってたことで、誰が何をしたって変えょぅが

なかったんだって。決まった運命には、誰も逆らえないんだって◦それで納得す

るし力-」

「フヱォドール君」

舌が、止まる。

舌だけだ。額のあたりにこびりついた衝動的な熱は、引いてくれない。

「——何ですか」

「自分も騙せない下手くそな嘘は、感心できないっすよ」

静かな声。

「どうして、いえ、僕の言葉の何が噓だと?」

「何がも何も。ティアットから聞いたんすけど、自分で言ってたんすよね? 誰

かのために命を遣う、そういう生き方や考え方が許せないって◦じゃあその時点

で、妖精を殺してるのは運命なんかじゃないって、君は気づいてるはずっすよ」

反論は。

本能的に脳裏に浮かんできた、いくつもの反論の言葉は。

全て、棘のように喉に引っかかり、外には出てこなかった。

「運命なんてものがそもそも本当にあったとしてもね、そいつはそれなりに手ぬ

るいっすよ。あたしらの戦いには、なんだかんだ言ったって、ちゃんと退路があ

る」

知っている。

「戦いたくなければ、戦わなきやいい。命令に従いたくないなら、逆らえばい

い。それでも命を投げ出す妖精がいるのは、その子がそうしたかったから。命と

引き換えにしてでも守りたいものがあるから、そうする。つまり......何があの子

たちを殺したのかと問うなら、あの子たち自身の意志だとしか答えられない」

ああ、それも、よく知っている。

「妖精は本能的に死を怖れない、てのは間違いじやないんすけどね◦それでも長

く生きていると、心が生き物の真似寧を始める。自分の未来が鎖されるというこ

と自体に強い不安を抱き始める◦それを乗り越えて死を受け入れるのは、簡単な

ことじやない。それを、運命なんて、それっぽいだけの言葉で片づけて欲しくは

ないし……」

それも知っている。これまで自分は彼女たちの心の在り方を、覚悟を、見てき

た。聞いてきた。触れてきた。だから、

「ラキシュと……リンゴに命を託されたんだつてことから、そんな安い詭弁で逃

げて欲しくもないっすね」

3 •、、、

そう咎められれば、もう、逃げ場がない。

自分も騙せない下手くそな噓◦ああ、その通りだ◦堕鬼種の血が泣いている。

もし両親や姉がこの会話を聞いていたら、大爆笑していたに違いない。

「僕は」

「……もう一度言うっすけど、君のせいじゃないっすよ」

優しいのか厳しいのか、区別のしづらい声のままで、アィセアは続ける。

「強いて言うなら、あの子たち自身のせい◦そのことが許せないというなら、そ

れでもかまわない。けれど、できれば、責めないであげてほしい◦前にも言っ

たっすけど、これはあたしの、個人的なお願い」

まだ熱の引かない頭の奥から、それでもフエォドールは、精一杯に強がった言

葉を絞り出す。

「約束は、できません。僕は、どうしても、あの子たちを受け入れられない」

гん」

アィセアは優しく、そして寂しげに微笑む。

だから徴無しは苦手なんだ、と、フヱォドールは唐突に再確認した。

正確には、徴無しで年上の女性というやつがピンポィントで苦手だ。噓とか本

当とかそういったレベルのやりとりの届かない、なんというかこの、問答無用で

お つぶ

包み込んでくるというか圧し包んでくるというか壬し潰してくるというか、この

独特の雰囲気。こいつを向けられると、どうにも平静が保てなくなる。

思えばラキシュにも、そんなところがあった◦もちろん年齢だけを比較するな

らフエォドールのほうが上ではあったが、包み込むような雰囲気には実年齢以上

の年季が入っていた。そして自分は、なんだかんだで、充分彼女に心を惑わされ

た。

「......すみません。今日はここで失礼します」

顔を伏せて視線を切り、立ち上がる◦さほど勢いをつけたつもりはなかった

が、椅子ががたんと大きな音を立てた。

「うい、っい。またいつでもいらっしゃいっすよ」

いつの間にかアィセアの笑顔は、いつもの人懐っこいものに——年齢に似合わ

ない、悪戯っ子のようなそれに戻っていた。こちらに向けた手を握ったり開いた

りしているのは、いったいどういう挨拶のつもりなのか◦いかにも演技じみたそ

の仕草の向こう側に、いったいどういう本音を隠したのか。

扉のノフに手をかける、

「ああ、そうだ、違う話になりますけど」

その寸前に、思い出したように最後の質問を投げかけてみた。

「今回の補給物資と一緒に届いた『極秘』の箱、あれ一体何なんです?アィセ

アさんたちが直接受け取って、塩漬け樽に収めたって聞きましたけど」

「ん?気になるっすか?」

「それはまあ」

つとめて平淡な声で。あくまでも世間話だという体裁で。

「アィセアさんに届くってことは妖精兵がらみの装備の可能性がありますから

ね。けっこう大きな箱だったって話ですし、中身がティアットたちの使う、例の

遺跡兵装とやらだったりしたら、僕の立場も無関係じゃないわけですし◦知って

おく必要があります」

ちらり、と階級章を見せつけたりもしてみる。

「そいつは確かにそうっすねぇ」

アィセアは少し考えるような仕草を見せて、

「でも大丈夫。あれは、フエオドール四位武官とは直接関係のない、ごくごくあ

りふれた、ふつ一の極秘機密っすよ」

「あ•、そうですか」

つとめて軽く答える。

「じゃあ、気にしないでおきますね」

「およ。意外と淡白な反応」

「興味だけで機密に鼻づら突っ込むわけにもいかないでしょう?知るべきじゃ

ないことを知りたがってはいけない。そのくらいの処世術は弁えてますよ」

さらりと嘘を吐く。

扉のノブに手をかけて、開いて、

どてん。

妙な音を聞いた。

目の前の床に、尻が転がっていた。

その尻はちょうど、今の今まで部屋の会話の盗み聞きをしていた曲者が慌てて

逃げ出そうとして足をもつれさせてしまい、頭から床に突っ伏したばかりのよう

な形をしていた。

「ぶぎゅう」

ついでに言えば、その尻からは、ティアットの(あまり女の子らしくない)悲

鳴が漏れ聞こえてきた。

г……はぁ」

嘆息ひとつ。後ろ手に、扉を閉める。

「あ、え、と……お、おはよう?」

片頰と膝とで床に突っ伏し、尻だけを天井に向けて突き出したその姿勢のま

ま、ティアットは的外れなことを言い出した。

「そろそろ夕方だよ」

「そ、そか、そうだね、、っん。じゃあ、こんばんは?一

「まだ夕方だよ。というか、早く起きなさい◦いつまでも年頃の女の子が続けて

ていい格好じやない」

「それは、その……」

たっぷり逡巡の時間をかけてから、テイアットは「はい……」と妙にしおらし

げに頷き、のそりと身を起こした。

「僕らの話、聞いてた?」

гん......ごめん」

室内を振り返る◦アイセアは『困った子っすねぇ』的な笑みを浮かべたまま、

肩をすくめていた◦とりあえず、彼女のほうには、先ほどまでの話をテイアット

に聞かれて困るような事情はないらしい。

「……別にいいよ、隠さなきやいけないような話はしてないし」

そして、それはフエォドールにとっても同様だった。

「以前から君にははっきり言ってる通り、僕は君たちの在り方に対して不満を

持ってる。どうにかしてやりたいと思ってる。ブチ壊してやりたいと考えてるQ

そいつを再確認してきただけだからね」

「ブチ壊すって、どうやるの?」

「どうにかする。どうにかして、君たちの運命——いや、前提を覆す」

「いや、だから、それをどうやるつもりなの」

「まだ分からない。けれど、近いうちに必ず見つけ出す」

こんなところで、ティアットと長話をする気はなかった。だから、そこで言葉

を切って、眼鏡の位置を正すと、すたすたと廊下を歩き出す。

会話を続ける気がないのは、ティアットのほうにとっても同じであったらし

い。少女の気配は追ってくる様子もなく、少しずつ背後に遠ざかっていく。

ただ、最後に一言だけ、小さなつぶやきだけが、聞こえた。

「救ってくれなんて、誰も言ってないのに」

——誰に聞かせるためのものでもなかったはずの、その一言。

それを受けて、フエォドールもまた、誰に届けるつもりもない言葉を、つぶや

き返す。

「そんなことすら言葉にしないからめんどくさいんだょ、君たちは」

t

——いつかは、この浮遊大陸群と敵対するつもりだった。

——そぅ遠くないぅちに、計画を始動しなければいけないと思っていた。

浮遊大陸群に住む、終末を忘れた全ての人々のことが嫌いだった◦自分たちが

どれだけの奇蹟の上に生きているのかを忘れ、どれだけの犠牲の上に明日を許さ

れているかも知らずにいる連中のことを憎悪していた。

そして、思い知らされた。自分もまた、そういった連中の同類でしかなかった

と0

いつかは、とか、そう遠くないうちに、とか、考え違いも甚だしい。それこそ

が、破滅と向き合うことを遠い未来のことだと思いこんでいる、ハヵヤロウどもの

典型的思考だ。

日常に溺れていた。

恥知らずにも、いつまでもこんな日々が続けばいいなんてことを考えていた。

そんなことはありえないし、そもそも許されないのだと、知つていたはずなの

(リンゴ)

あの小さな手のひらの熱さを、覚えている。

髪の毛を引っ張られた時の痛みも、全力体当たりを受けた内臓がひっくり返り

そうになった時の苦しみも、覚えている。

それら全てを突然に奪い去られた時の、灼熱の絶望を、覚えている。

(マシュマ......リィエル)

たったいま背中を見送ったばかりの少女のことを考える。

今はまだ幼い妖精。十年もすれば成体となる◦軍によって処置を受ければ成体

妖精兵として戦場に向かえるようになる。そしていつかは、ラキシュのように、

その身を焦がし尽くして、いなくなる。あるいはその前に、リンゴのように、そ

の身を燃やし尽くして、いなくなる。

いつか、きっと。あるいは、そう遠くないうちに。

——ああ。

見上げた空には、やけに輝きの強い太陽。

「眩しいな」

手のひらをひさしにして、目を細める。

そうしてみても、太陽の光はとても強い。直視ができない。そこに太陽がある

とわかっているのに、その姿を確かと認めることができない。

「......うん、そうだな」

誰に言われるでもなく。誰に問われるでもなく。自分自身でも何に対する相槌

なのかを把握せずに。それでいて、そのことに疑問すら抱かずに。フエオドール

は頷く。

「そろそろ始めろ、つてことなんだろうな」

指を曲げる。手のひらが、拳へと化ける。

天に向けて、その拳を、高く高く、差し上げる。まるで空そのものに対して、

戦いを挑もうとでもいうように。

しんちよう

慎重に慎重を重ねて、これまで準備を進めてきた◦エルビス集商国が滅びてか

らの、フェォドール•ジェスマンの五年を、すべて注ぎ込んできた。走り始める

のに足りるだけの足場は作れているはず。これ以上、優しい日々に立ち止まって

いる必要もない。

きつと、もう、始めてしまうべきなのだろう。

世界に敵対する最初で最後の戦レを。

3•還り来る者

医務室の隣の小部屋に、小さなベッドと椅子を運び込んだ◦備え付けの棚に

は、緊急時に備えた最低限の医薬品が並べられている。

後には何もない。

最低限必要なものだけを揃え、それ以上の調度を置かない。ある意味において

住人にふさわしい形に整えられた、それがラキシュ•ニクス•セニオリスの病室

だった。

意識を失ったあの日から、少女はずっと、ここで穏やかに眠り続けている。

寝息のひとつも聞こえてこない。

胸元に触れても1動が感じられない。

けれど触れてみれば確かにその体はほのかに温かく、表情は穏やかだ。

しかね はかい

失われたというわりに、あまりに屍らしくないその姿。もしかしたら人格破壊

などというのは何かの間違いなのではないか、そのうちまた目を覚まして恥ずか

しそうに笑ってくれるんじゃないか-そういう希望を抱いてしまう者がいたと

して、いったい誰に責めることができるだろう。

「コロン」

ベッドのすぐ傍ら。小さな椅子に腰かけうなだれていたコロン•リン•プルガ

トリオが、名を呼ばれてゆっくりと顔を上げた。

桜色の髪が一筋、やつれた頰の上をさらりと滑り落ちる。

г……なんだ、パニバル」

「もう遅い。部屋に戻って、自分のベッドで寝たほうがいい。すごい顔になって

るぞ」

振り返る◦パニバル•ノク•ヵテナが、窓を開いている。

少し冷たい——けれど気持ちのいい空気が、花柄のヵーテンを揺らしながら、

部屋の中へと飛び込んでくる。

窓の外は暗い。ああ、本当にもう遅い時間なんだなと思う。

他の都市より進んだ技術が集まっていたこのラィエル市では、今も、雷気を利

用した照明が使える。それは蠟燭やヵンテラなどよりはるかに力強く、太陽のよ

うに部屋の中を照らし出してくれる◦便利なものだ。しかし部屋が暗くならない

と、夜の訪れそのものがわかりにくくなってしまうのか。厄介なものだ。

「もう少し、ラキシュのそばにいたい」

言いながら、自分の目の下に指で触れてみる◦よくわからないけれど、確か

に、少しくぼんでいるような気もする。

「そう言い続けて、もうどれだけ経つ」

「わかってる。でも、ほんとうに、あと少しだけだから」

「その言葉も何度か聞いたよ」

困ったように言って、パニバルはコロンの隣に腰を下ろした。

「残酷な言い方になるが、君がここに居続けたところで、ラキシュが帰ってきた

りはしないんだ」

「うん」

д Jつ

「私は怖いんだ。このままじや、コロン、君までラキシュに続いて私たちの前か

ら消えてしまいそうで」

「うん......」

覇気のまるで感じられない声で、眩くようにしてコロンは答える。

「心配かけて、ごめん」

「謝りたいのはこちらのほうなのだがな」

パニバルは力なく微笑んで、コロンの頭を抱き寄せた。抵抗はない。ぎゅう、

とパニバルの胸元にコロンの目もとが押し付けられる。

押し殺したような嗚咽が、コロンの口元からあふれ出す。

コロン•リン•プルガトリオは、々快活な少女ゥだ。いつも元気いっぱいで、

周りが手を焼くほどに活動的で、難しいことを考えるのが嫌いで◦年を重ねて体

は大きくなったけれど、根っこのところは幼い子供だったころと何も変わらなく

周りの多くの者が彼女についてそう思っていたように、彼女自身にもそういう

自覚はあったし、むしろ積極的にそういう自分であろうと考えている節があっ

た。

けれど、どんなものにも、限界というものがある◦元気が尽きることもある。

動けなくなることもある。嫌な考えが頭の中でぐるぐる回つて止まらないことも

ある。

コロンが、快活で居続けられなくなることだつて、ある。

г……そう、長い別れにはならない」

ぽんぽんとコロンの頭を叩きながら、パニバルが囁くように言う。

「私達の熾す魔力が〈重く留まる十一番目の獣〉に通用することを、ラキシュが

証明してくれた。このままいけば、来たる決戦の日には、ティアットと君と私の

三人で妖精郷の門を開くことになるはずだ」

コロンの肩が、ぴくりと揺れる。

「そうなれば、少しだけ時間差はあるけど、私たち四人ともが同じように終われ

る」

「……うれしくない」

「ものは考えようだ。嬉しくはないかもしれないが、その分、寂しくもない」

「かんがえたくない」

「わがままだな◦実に君らしいが」

「むう」

パニバルの胸に柔らかく抱かれたまま、コロンは目を閉じる。

「終わるために、ここにきたんじやない一

「そうだな。私達の足元の道を、見極めるためだ」

「道を、さがすためだ」

「むう、見解の相違だな◦少し寂しいぞ」

コロンは思う。自分たちは、ばらばらなのだと。

そもそも四人の成体妖精兵がこの浮遊島に派遣されてきたというこの一件を、

当の自分たちは、それぞれに違う解釈をもって捉えていた。違う目的をもって受

け入れていた。それでも肩を並べてやっていけると思っていたのに、そうはいか

なかった。

パニバルは、自分たちの道を見極めるためにここに来たと言った。

それに対し、コロンは、道を探すためだと答えた。

もしここにティアットがいたとしたら、後ろの子たちの道を拓くためだと答え

ていただろう。そして、もしラキシュの意識があったなら、道をちゃんと歩くた

めだと答えていただろう。

その差異を、寂しいと——ああ、そうだ。寂しいと感じる。

「この話、フエォドールが聞いていたら、どう言っていただろうな」

唐突に出てきた名前に、少し戸惑う。

гん……そだな」

「怒っていたかな」

「あいつは、いつも何かに怒ってる」

「違いない」

あっはっは、と。表情と声だけででも、パニバルは笑ってみせる。

ところで、ここに一人の少女がいる。

厳密には「いる」という表現は不適切ではあるが、とにかく存在している。

忘我の淵の向こう側を、少女は彷徨っていた。

そして少女の中には、得体の知れない怒りがあった◦その怒りだけが、おそら

く全てを失っているであろう彼女の、唯一の持ち物だった。

その少女は、死者だった。

遠く、遠く、何かを見ていたように思う。

それは、何やら珍妙な、廃墟のような場所だったように思う。

そこに、誰か、燃えるように赤い髪をした小柄な誰かがいたように思う。

けれど、そのどれもが定かではなかった。

理由はわからない。わからないけれど、なんとなく、感じられることはある。

あれらは、遠い昔、//自分たち//が繫がっていた場所だ。

長い時をかけて、幾度もの魂の流転を繰り返すうちに、遠ざかってしまった場

所だ。

繫がりは、まだ、切れてしまったわけではないのだろう。だから見えている。

繋がりは、もうすぐ、切れてしまうのだろう。だから見えづらくなっている。

——ああ、それにしても。

小さな疑問が、溶けたような意識の隅に浮かぶ。

このク自分ゥは、いつたい、何なのだろう。

死者ではあるはずだ◦そのことは直観している。それが妄想や勘違いの類でな

いことも理解している。けれどそれだけでは、色々なものの辻棲が合わない。道

理に背いている。

死者は何もかもを失つているはずなのに、この心の中には、行き場を持たない

奇妙な怒りが蟠つている◦死者は何をすることもできないはずなのに、なぜか、

「思う」などということが許されている。いつたい、どういうことなのか。

そんな疑問と戯れているうちに、ふと、視界の隅にたゆたう、小さな光に気づ

ぃた。

疑問がひとつ増えた。ここには何もないはずなのに。一切の異物を受け入れな

い、「自分」しか存在しない場所のはずなのに。この淡い光の塊は、いったいど

こから現れたというのだろう。

あんた、何よ?

苛立ちつつも尋ねてみたけれど、返事らしい返事はなかった。

その代わり、光は歩き始めた◦こちらに向かって、まっすぐに、一切の躊躇な

く。その段になって、その光が、人のような形をとっていることに気づく。

距離が詰められれば、光はより強く輝いた◦あるはずもない眼底に痛みを覚え

たような気がして、少女は心の目を細めた。

そうしている間にも、光は歩き続ける。同じ歩幅◦同じ速さ。迷いなく。惑い

なく。

ぶつかる◦そう感じた少女は、レの目を固く閉じて、大きすぎるその光を、視野

の外に追いやった。多少の衝撃を覚悟し、幻の全身をこわばらせた。

そして、おそらくは、その光は少女を飲み込んだ……のだろぅ。その瞬間に心

を鎖していた少女自身には、その瞬間に起きたことを、もぅ理解できない。

理解できることは、ただひとつだけ。

その瞬間のさらに後、//自分//に何が起きたのか、だけだ——

fT

——ぎしり、と、ベッドの発条が小さくきしみをあげた。

コロンは顔を上げた。

パニバルが首を巡らせた。

二人の少女の見ている前で、音の主はゆっくりと#を起こした。

まずコロンの顔に兆したのは、ありえないことが起きたことによる、軽い混

乱。次いで、想像もしていなかった状況を目撃したことによる、純紙な驚愕。

「ラ……」

それからたっぷりと数秒の時をかけて、瞳に、頰に、喜色が差してゆく。春を

迎えたばかりの花のように、満面の笑みへと、ほころんでゆく。

「ラキ……」

ラキシュが目覚めたのだ、と。コロンはようやく、その結論に至った。

パニバルの胸の中から抜け出し、両手を広げてベッドの上へと全カジャンプ

——しそうになったところを、ギリギリで理性が止める。コロンは小柄だが、小

柄なりにそれなりの体重を持ち合わせている。ふだんならまだしも、ずっと昏睡

していた寝起きの相手に叩きつけていいものではないはずだからと。

だから抱きつくにしても、やり方を考えなければならない。縦方向にはあまり

衝撃力ないように斜め下力ら滑り込むように肩と首に腕を回して関節を

「待て」

「ぐへっР:」

完全に不意を衝かれた。

パニバルの手がシャツの襟首を掘み、強く後ろに引いたのだ。

つぶ i

首を潰されるような声-あるいは首を潰された声そのもの-を吐き出しな

がら、床上に尻を落とす。

「なにをする^^」

怒りというより戸惑いを込めて、そう抗議の声をあげた。

パニバルの返事はない。それどころか、こちらを見てすらいない。視線はまっ

すぐに、ベッドの上に半身を起こしたラキシュの顔を見ている。

г……パニバル?」

名を呼んでも、やはり返事はない。その代わりに、

「何かがおかしい」

静かな警戒の声を聞いた。

何が、と問いかけようとした。ラキシュが目を覚ました。何よりもそのことを

喜びたいタィミングに、一体何を気にしているというのか。けれどできなかっ

た。パニバルの表情が、それを許さなかった。

ラキシュが——まぶたを閉じて、また開く。何度かそれを繰り返す。

両の手のひらを、自分の目の前まで持ってくる。握って、開く。まずは左。次

いで右。

ベたりと、自分の体に触れる。

その一連の仕草は、確かに、おかしい。軽い混乱状態にあって、状況が把握で

きずにいるのだろう......というのは、見てすぐに分かる。そこまでは受け入れら

れる。けれどそれだけだとしたら、もう少し、周囲に注意を向けてもいいはず

だ。

今のラキシュは、なんというか、自分自身が何者なのかを把握しようとしてい

るように見える。まるでそれが、慣れ親しんだ自分の体ではないかのように。

「ラキシュ」

慎重に、パニバルがその名を呼んだ。

ゆつくりと、ラキシュの顔が、こちらを向いた。

「具合は、どうだ」

言葉による返事はない。その代わりに、ぼんやりとしていた瞳孔が、ゆっくり

と焦点を得るのを見る。目覚めてなお半ば以上が夢の中にあった表情が、少しず

つ覚醒に近づく。

その瞬間に至り、ようやく状況を、理解したのだろう。

ラキシュの顔に、憎悪にも似た、激しい警戒の色が願れる。

「ぇ」

ラキシュ•ニクス•セニォリスは……いや、その名を掲げるより以前、ただの

ラキシュだったころから、彼女は柔和な少女だった。温和で、気弱だった。その

彼女が、怒りや憎悪といった激しい負の感情に顔を歪めるところなど、コロンは

一度も見たことがなかった。十年に届く付き合いの中で、一度もだ。

なのに、これはいつたい、どういうことなのか。

「あなたは!」

叩きつけるょうな、叫び。

同時に、雷火の迅さで、手刀が奔った◦狙いはコロンの喉。速さは、尋常な兵

土では反応もできないほど。必殺と言って良いだろうその一撃は、しかし反射的

に身を引いたコロンを捉えきれない。体に少し遅れて動く桜色の髪のひとふさだ

けが、ラキシュの手に触れる。

ラキシュは迷わず、その髪を握りしめ、

「ぎゃっ-1?:」

力任せに、あるいは激情任せに、引きちぎった。

ベッドから飛び降りる。ずっと寝込んでいたのに急に動いたからか、あるいは

別の要因が重なっているのか……苦痛に顔を歪め、体を折る。

「やはりな」

呆然とするコロンを庇うように、パニバルが半歩ほど前に出る。重心を沈め、

いかなる攻撃にも対応できるように構えをとる。

ラキシュの目は、パニバルを無視し、まつすぐにコロンに向けられたままだ。

г……あん、た、は……そう……思い出せ、ない……けど、覚えている……」

絞り出すような、濁った声だった。喉の使い方をよく思い出せていないのだと

言われれば、そのまま信じてしまえそうな。

「あんた、は……私の、敵……」

ひゆつ、という小さな音をコロンは聞いた。

それが自分の口から出た悲鳴だということに、少し遅れて気がついた。

「ちょっと悪趣味な冗談、という風ではないな」

いつも通りに落ち着いた、あるいはそう装った、パニバルの声。

「どういうつもりなのか教えてもらってもいいか、ラキシュ。それとも-」

腕を伸ばし、コロンを庇うょうにして立ち、バニバルは尋ねるQ

「——君が何者なのかを、まず尋ねるべきか?」

強い風、

ヵーテンが大きくはためいた。

ラキシュが動いた。萎えていたはずの足で大きく跳躍、開け放たれていたまま

卜、^^ 、っ、、г:'

の窓の向こ、っ-夜闇の中へと身を躍らせる。

後を追おうと、パニバルが身を沈める。

が、そこで動きが止まる。

コロンの指が、その裾を強く摑んでいる。

「コロン」

гごめん……」

引き留めるべきではないのだろう、追わせるべきなのだろう、コロンも頭では

そう理解している。けれど、そうできない。ここに一人で取り残されることに、

耐えられない。

足が震えている。立ち上がれない。

гごめん……一人にしないで……」

震えが止まらない。まるでこの体が、立ち上がりたくないのだと訴えているか

のよ、っに。今のあのラキシュの背中を、大切なはずの友人の姿を、追いたくない

のだとでも言うかのように。

パニバルの目が、コロンと、開いたままの窓との間を泳ぐ。

「どちらにせよ、もう見失つてしまつた、か」

静かにパニバルは言い、コロンの腕をとると自分の肩に担ぐ。

「いいだろう、一人にはしない。が、座つているわけにもいかないぞ。この状況

は明らかに異常だ、少しでも早く先輩たちに報告しなければな」

よつ、と小さく気合いの声。コロンの体が持ち上げられる。立ち上がらせられ

る。

「……パニバル、基本やさしいけど、容赦ないよな」

「良い教育を受けて育つてきたからな。歩けるか?」

「ん。なんとか」

二人、体を寄せ合って、部屋を後にする。

医務室の隣、急ごしらえのその病室は、実に十日ぶりに無人となった。

4•寧く瞳

フェオ^_丨ル•ジェスマンの計画とは、つまりどのよぅなものなのか。

それは、五年前にエルビス国防軍が——彼の義兄が率いていた組織が試みよぅ

としていたものと、よく似ている。よく似ているが、根本のところが大きく違

、っ0

エルビス国防軍の計画は、「〈獣〉の脅威を浮遊大陸群に思い出させる」こと

を目的としていた◦そのために、制圧可能と判断された〈獣〉を自ら浮遊大陸群

に持ち込み解き放ち、被害を演出しょうとした。

しかし、それらの〈獣〉が想定以上の猛威を振るったため計画は失敗した◦二

つの浮遊島が〈獣〉に吞まれ、人々はその恐怖を改めて心に刻みはしたが、だか

らといって行いを改めることはなかった。事変の前も後も、変わらず〈獣〉の恐

怖に抗うことのできる戦力は護翼軍ひとつしか存在しなかったからだ。

フエォドールは考えた。そして結論した。

あの時の国防軍は、そして義兄は、みっつの間違いを犯していたのだと。

ひとつは、軍という大きな単位で理想を実現しょうとしたこと◦なにせ大きな

集団には、多くの価値観が混在する◦多くの価値観が混在する場所では、ひとつ

の理想をそのままの形で共有することが難しい。仲間がひとり増えるたびに、複

雑な部分は単純化され、デリケートな部分は読み替えられ、覚悟を求められる部

分は利害計算に書き換えられる◦理想の言葉は形骸化し、個々の欲望を正当化す

るための免罪符に成り果てる。

ふたつめは、ことの順序を間違えたこと◦護翼軍に代わる〈獣〉と戦う相手と

して、自分たちエルビス国防軍を設定したことだ。それでは、護翼軍というシス

テムを否定するための戦いになどならない。最高にうまく成功したとて、自分た

ちが新たな護翼軍として受け入れられることになるだけ。

そしてみっつめは、自分たちの行いの正しさを信じていたこと◦たとえ欺瞞に

満ちたものであれ、満足している者から現状を取り上げる行為は、恨みと憎しみ

を買う。悪と呼ばれる◦それが当たり前だ。その当たり前を受け入れようとせ

ず、善きものであろうとした。だから、正反対の立場の者の正しさに叩き潰さ

れ、最も無様な悪へと成り果てた。

だからフエオドールは結論した。

誰もが武器を持つべきなのだ◦誰もが戦う権利と舞台を持つべきなのだ。誰も

が死と隣り合わせであるべきなのだ。誰もが浮遊大陸群の現実と向き合うべきな

のだ。

その過程で、数えきれない戦いが起きるだろう。理不尽な死がばらまかれるだ

ろう◦いくつもの浮遊島が墜ちるだろう◦その血と涙に直面して初めて、人々は

知るだろう。自分たちは、平穏を手にしてなどいなかつたのだと。生きていると

いうことは、まだ死んでいないという幸運は、本来どうしようもなく尊いものな

のだと。

そしてその道を示す者は、現在の世界を破壊する者——救われることのない悪

としての、自覚と矜持を持つべきなのだ、と。

それが、十二の時のフエォドールの結論であり、決意であり、誓いだった。

そして、フエォドールは知っていた。

11番浮遊島、コリナディルーチヱ市で起きた最初のエルビス事変の顚末を、処

刑される寸前の義兄の口から聞かされていた。

「護翼軍は、市内に出現した〈月に嘆く最初の獣〉を殺しきってみせたらしい。

それだけの必殺兵器を、彼らは隠し持っていた」

焦点の合わない視線と、半ば熱に浮かされるょぅな震える声。混乱と後悔と罪

悪感に塗れたそれは、いつもの自信と確信に満ちた義兄と同一人物にはとても見

えなかった。

「そして、彼らは〈最初の獣〉の亡骸を回収した。運ばれた先については巧妙に

隠されていたが——まず間違いなく、大賢者のところだろぅ」

忘れるはずがない。

忘れられるはずもない。〈月に嘆く最初の獣〉と、不死不滅であろぅそれを殺

しきってみせた超兵器◦エルビス国防軍の計画を実質上破壊してのけたのは、そ

のふたつだ。そして今、その両方が、護翼軍の手の内にあるのだ。

——だから、あの日、護翼軍の兵士となることを選んだのだ。

どれだけの時間をかけても、どれだけの犠牲を払っても、護翼軍の擁するそれ

らの秘密を暴いてみせる。手にしてみせる。そして、願いを果たしてみせる。

義兄は正しい理想を掲げながら、手段を間違えた。義弟たるフヱォドール.

ジェスマンの憧れを、切った。

だからその間違いを、他でもない自分がこの手で正すのだと——

fT

零番機密倉庫◦通称、塩漬け樽。

幾つかある機密倉庫の中でも、最もヤバいものを集めてある場所だ。

もちろん、この護翼軍基地全体の中でも最も厳重な警戒下にある◦場所は第一

兵器庫地下で、当然だが侵入ルートに使えるょぅな窓はない。壁は強固な鋼鉄製

で、ちょっとトンネルを掘ってみた程度の手では入れない。出入り口はひとつき

り、やたら重たい金属製の扉に、ガチガチにかけられた五つの錠前と警報装置。

トラブルを起こさず中に入るためには、鍵を預けられた何人もの位官の立ち会

いのもと、警備室にも話を通したうえで、正面の扉を開かなければならない。

そのためにハンコを貰わなければならない書類の数は実に十一枚、処理に最低

でも三日はかかる◦ここの最高権力者である一位武官ですら、勝手な出入りは許

されないのだ。

そしてもちろん フエオドール•シエスマン四位武官もそうそうその中に気

安く立ち入れるょうな立場にはない、のだが。

(......ょし)

息を止め、足音を殺したまま、フエオドールは通路を駆ける。

この一画については、この五年の間に調べR、くしてある。目をつぶってでも、

などと言ぅとさすがに言いすぎではあるが、油断をしなければそれなりに走り回

れる。

見回りは二十分に一度、一度やり過ごせばしばらく時間がある。

警報は、仕掛けと場所さえ把握していれば、ちょつとした細工で黙らせられ

る。

五つの錠前を破るための合鍵も、全て準備済み。

扉の開閉の音を抑えるための潤滑油も用意したし、もちろん痕跡を残しにくい

揮発性のものを選んだ。あと必要なものといつたら、肝心なところでミスをしな

い繊細さと慎重さと大胆さと、そしていくばくかの幸運くらいだろぅか。

(落ち着け……落ち着け……落ち着け……)

何度も自分に言い聞かせながら、何十度も脳内で練習してきた手順を繰り返

わずかに軋みながら、扉が開いていく。最低限の隙間だけを確保すると、フエ

オドールはさっさと体を部屋の中へと滑り込ませる。

音を立てないように細心の注意を払いながら、扉を閉める。

「——ふう……」

全身の力が抜け落ち、その場に倒れてしまいそうだった。

安堵の息を、深く吐く。

緊張に荒ぶる心臓が落ち着きを取り戻すまで、少し待つ。だらだらと流れ落ち

てくる汗を、あごの下でまとめてぬぐう。

(寿命が縮んだ……)

護翼軍第五師団では、ほぼ慢性的に、人手が不足している◦どれだけ厳重に警

備をしていても、生身の眼の数が足りなければ、どうしても隙ができる◦その隙

に無理やり体をねじこむような挑戦だったが、とりあえずここまでは、うまく

いったようだ。

少し暗闇に目を慣らしてから、持ち込んだ小型の灯晶石を燈す。最低限の光に

照らし出される部屋の中を、ぐるりと見回す。

それほど広くはない。が、決して狭くもない空間。

大型の棚がいくつか並んでいて、そこに、大小さまざまな大きさの木箱が積み

込まれている◦手近な箱の側面に灯りを近づけて、ラベルを読む。『アケリィ潜

入諜報員名簿』、興味を惹かれなくもないが、目当てのものではないのでひと

まず視線を引きはがす。

足音を殺しながら、次々と木箱を改めてゆく。 『ティン•パーク事件証拠品』

『至天思想典原本』『背反時計設計概念図』。どこかで聞いた覚ぇのあるものも

あれば、まつたく知らないものもある。

おそらくはそれぞれに意味は異なっているのだろぅが、これらはそれぞれに、

今ある世界にとって危険と判断されたもの◦中には、都市や浮遊島のひとつやふ

たつをまるごと破壊しかねないものも混じっているはずだ。

(大した数だなぁ……)

第五師団がこの地に居を構ぇることになったのは、エルビス事変の最中、

<十一番目の獣〉が39番島を喰らい尽くした前後のことだった。兵舎や倉庫など

も、もともとは何かの教育施設だったところを買い上げ、大急ぎで改装したもの

だと聞いている。

あれからのわずか数年で、ここまでの数の禁忌が集められている。

おそらくは、よその師団が抱えていたものが運び込まれてきたりもしているの

だろう。しかしそれを計算に入れた上でも、数が多いという印象は動かない。

よく考えてもみれば、いまこの浮遊大陸群に生きる雑多な種族は、もともとあ

の広大な地上に散らばって生きていたのだ◦その全てを狭いところに押し込めて

いるこの浮遊大陸群という世界は、もちろん非常に不安定なはずだ◦いつ自分た

ちで争い合い、崩壊を起こしてもおかしくない。

わかりやすい〈獣〉という外敵のせいでその危険が目立たなかっただけで、そ

ういう意味での破滅もまた、いつも自分たちのそばにあったはずだ◦そしてこれ

らの「危険物」たちは、その証とでもいえるものなのだろ、っ——

足を止めた。

目の前、一抱えほどの大きな木箱に、『エルビスの小瓶』と書かれたラベルが

貼りつけられている。

「ょし」

やはり衝撃を嫌ったのだろうか、木箱には釘が打たれていない。革手袋をはめ

直し、フиオドールは慎重に蓋を開ける◦緩衝材の海の中に手を突っ込んで、保

護紙に包まれた球状のものをみっつ引っ張り出す。保護紙をはがす。

目当てのものを見つける。紫色の塊を内包した、小さな硝子玉。

「よしよしよし」

ずいぶんと大げさに梱包したものだとも思うが、この硝子玉の危険性を考えれ

ば、そうおかしな話でもない。『エルビスの小瓶』、すなわち〈十一番

目の獣〉。内に封じられたものが解き放たれればすべてが終わるのだと思うと、

どれだけ緩衝材を敷き詰めても不安は拭えないのだろう。

だが、フヱオドールは知っている。実際には、この硝子は見た目よりも厚く頑

じ3t?v

多少手荒に扱ったところで何の問題もない◦それこそ大規模な爆発の中心に置

くか、相当な高所から硬い地面に叩きつけるかでもしなければ、割れるどころか

11を入れることすらできはしない。

「ま、梱包が大げさなのは、僕にとっても好都合だな」

大きさを似せた石の玉をポケットから取り出し先の保護紙に包む◦緩衝材に沈

めて、木箱の蓋をもとのように戻す。

粗末なすり替えだ◦多少目ざとい者がこの箱の蓋を開ければ、すぐにも見抜か

れてしまうだろう。しかしこの部屋には、ふだんは誰も立ち入らないし、立ち入

れないのだ。近日中に盗難が気づかれる可能性は、極めて低い。

さて、ここまでは順調。問題はここからだ。

ここで気を抜いてしまい、脱出に失敗してしまったのでは元も子もない。侵入

の痕跡を丁寧に消して、こっそりと自室に戻るまでは、一切の油断が許されな

V

扉を再び開く前に灯晶石の光を閉ざそうとして-

ふと、気づく。

部屋の片隅。幾重にも鎖の巻かれた、黒い大きな木箱が置かれている。

大きくて、細長い。中に成人男性が一人横たわって、なお余裕がありそうなサ

ィズ。黒という色も相まって、まるで棺のようにも見える。

ぞわり、と背筋を何かが伝った。

口元が勝手にひきつった。

「これ——」

聞いていた話と、外観が一致している。

これが、おそらくは、先ごろに話題に出たアレだ。

補給物資とともにこの浮遊島へと運ばれた、極秘機密。アィセアが直接受け

取って、それからすぐにここに運ばれたといぅ、得体の知れない何か。その正体

は大賢者の遺産だといぅ嗱もありはしたが、もちろん真偽はまつたくわからな

V

しかし、それでもフエォドールには、この中身について、限りなく確信に近い

推測がある。

「——これが、大賢者の遺産」

足音を殺して近づき、側面を改めてみる。

木箱の側面に貼りつけられたラベルは、黒く塗りつぶされている◦その横に、

少し乱れた汚い字で、『死せる黒瑪瑙』と書き直されていた。

容れ物の大きさからして、まさか本物の黒瑪аが入つているということもない

だろう。中身に縁のある言葉を使った暗号名、だろうか。

鎖の隙間から、蓋に手をかけてみる。開かない。

持ち上げょうとしてみる。分かってはいたことだが、かなり重い。こっそり持

ち出すのには、さすがに無理がありそうだ。

箱を破って中身だけを取り出すのはどうか。悪くはないが、それでも、かなり

の時間と道具が必要になる。しかるに、『小瓶』をくすねることだけを考えてい

たフヱオドールの今の手持ちの装備では、木箱破りにはどうにも心もとない。そ

してもちろん、次の見回りがこの部屋の前に来るまで、あまり多くの時間は残さ

れていない。

「今は無理、か」

ここにこれが存在していると確認できたのは、あくまでも予定外の収穫だった

がみ

のだ◦あまり欲を力くものでもない。後ろ髪を弓力れるというよりむしりとら

れるような思いとともに、脱出を決める。

近いうちに必ずまたここに来てやると、心の中で固く誓いながら。

fT

入念な準備が功を奏した。帰りにも、ミスらしいミスをせずに済んだ。

警備の目を搔い潜り、フヱォドールは、塩漬け樽からの脱出に成功した。

夜道を独り歩いている最中、大きく腹が鳴る。

緊張を絶やすわけにはいかないここまでの時間が、フェオドールの腹から大き

くエネルギーを削り取つていた。ことの最中に鳴らなかつただけありがたいとい

ぅものではあるが、

г……はぁ」

小瓶のこと。あの黒い箱のこと。

考えたいことと、考えなければいけないことがある。けれど、空腹のせいで頭

がぅまく回らない。甘いものがほしい。

人気のない道をぶらぶら歩みつつ、いつもの癖で、ポケットの中を漁る。当た

り前だが、食べられそうなものは何も入っていない◦絶望が心を満たす。世界と

か滅びればいいのになどと、ごく自然に思う。空腹時にはろくなことを考えな

い。いやもちろん、満腹時にも似たようなことを考えてはいるのだけど、それは

それ。

既に遅い時間だ。食堂や購買部は当然閉まっているし、ポケットの中に『小

瓶』を突っ込んだままであまりあちこち出歩きたくもない◦私室に戻れば買い置

きの飴があるはずだから、ひとまずそれで場をしのごう。大丈夫。朝が来れば食

堂が開く。そして明けない夜はないはずなのだから——と、

гん?」

妙に騒がしいと思った。

何人かの兵士たちが廊下を走り回る音。何かを早口で言い合っているのも聞こ

える。距離があるせいで細かい内容までは聞き取れないものの、誰か不審人物が

追われているらしいということくらいは把握できた。

不審人物。

まさかばれたのか。心臓が口から飛び出そうになったが、どうやら自分のこと

ではないらしいと気づき、ほつと内心で胸をなで下ろす。

自分ではないなら、また物取りの類でも出たのだろうか。

最近になって数を減らしたが、もともと、そういう手合いは珍しくなかつた。

軍施設内には、民間には出回っていない装備や機材が、あれこれと転がってい

る。多少ならずリスクを覚悟する必要はあるが、それを容れるだけの実入りはあ

るということなのだろう。

あるいは、破壊工作員の類だろうか。〈十一番目の獣〉との大きな戦いが近づ

いてきている今だが、ありえない話ではない。世の中には無数の思惑がある◦護

翼軍は浮遊大陸群の守護者だが、浮遊大陸群の全てに存在を歓迎されているわけ

でもない。守られている側が身勝手なことを言い出すのは、いつどこの場でもあ

りうることなのだから。

г……誰でもいいけど、あまり無茶はしないでほしいなあ」

フエォドール自身、護翼軍に潜り込んだ毒虫のような身の上である◦境遇の近

い者としてその不審人物氏を応援したい気持ちもあるが、警戒が引き締められて

これから動きにくくなつたらどうしてくれるんだと苛立つ気持ちのほうが強かつ

た。つまり、逃げのびるなら逃げのびるで、さつさとしてほしい。

足を、止める。

風が草葉を揺らす、ざわめきにも似た音の波。その中に紛れて、気づくのが遅

れた。

気配がひとつ。近くに、潜んでいる。

敵意。害意。隔意。殺意◦そのどれでもなく、けれどそのどれにも似ている何

かが、どこかから、自分に向けられている。

まずい、と思つた。

フエォドールは、単純な荒事が苦手だ。

剣の扱いは知っている◦体術の基礎もかじってある。それらをぅまく駆使し、

全身を使った詐術も併用することで、武術の真似事を装ぅことには慣れている。

そこらの達人が相手であれば、勝てる——とは言えないまでもそれなりの戦いを

演じられる自信がある。けれど、それはいわば、劇場型の強さ◦準備を整えてか

ら臨む、一対一の決闘の場でしか使えない。こっちの話を聞かず、それどころか

動きを見もせず力任せに殴りかかってくる手合いには、詐術なんぞ役にたつはず

もない。不意打ちをかけられたならなおさらだ。

そしてまっとぅな力比べに持ち込まれれば、剣の修練も体力づくりも大して積

み重ねてきていない貧弱な堕鬼種なんぞに、勝利の目などあるはずもない。

状況を再確認。遅い時間。人気のない道。一人きりで歩いている自分◦軍の敷

地内であるといぅことにさえ目をつぶれば、暴漢の出現条件としては申し分な

V

ここは一気に駆け抜けるか、それとも大声を出して助けを

がさり、

その音を聞いた時にはもぅ遅かった。

振り返る暇もない。右後方の死角から強烈な衝撃を受け、受け身をとる暇すら

なく路上に叩きつけられる。呼気を読まれでもしたのか、肺の中が涸れている夕

ィミングを狙われたせいで、とっさの悲鳴すらあげられない。

(く……つ)

肩の痛みをこらえて、身をよじる。まず視界に入つたのは、清潔そうな白い病

衣。夜闇の中ではとても目立つ。そして次に目に入つたものは、明るい橙色の髪

へ......え?)

その瞬間、理性は、その襲撃者が何者であるかを理解した。その直後、感情が

それを否定した。そんなはずはない、そんなことはありえない。だつてそぅだろ

う、彼女がこんな場所に来られるはずがない。彼女がこんなことをするはずがな

い。そして、彼女がこんな表情をするはずがない。懸命に理屈をつけて現実から

目を逸らす。が、

「ラキシュ......さん......1?:」

頭の片隅の冷静な部分が、ほとんど残っていない肺の中の空気を絞り出すよう

にして、勝手にその名を呼んでいた。

構わず、襲撃者の手が、こちらの体を押さえつけようとしてくる◦闇と姿勢と

混乱の中、体が動くに任せる形で抵抗する◦軍人として重ねてきた訓練と経験

が、なんだかんだで役に立つ。

襲撃者の膂力は、明らかにフエォドールよりも上。技も巧みで、そうそう隙を

見せてはくれない。しかし体格だけは、間違いなく、小柄な少女のそれだった。

たが ふ

その一点きりの優位にしがみついて抵抗する◦互いが互いを組み伏せようとする

二人は、抱き合いもつれるようにして地面を転がる。

(がっ……)

脇腹を、硬い石に打ち付けた◦反射的に、全身の力が抜ける◦拮抗していた戦

況が崩れる◦額と額がぶつかり合う。荒い息を唇の近くに感じる。全身の体重を

かけて肩を押さえつけられる。襟を摑まれ、締め上げられた。

自分はこのまま死ぬのだろうか。

それも悪くはないかもしれない。

脳裏によぎった弱気とは裏腹に、身体が勝手に抵抗を続けた。力の入らない両

腕を巡らせ、侵入者の頭を摑むと、強引に角度を正して視線を交わらせる。

目前に、赤く血走った柑子色の瞳。

視線が、絡み合った。

「き、みは……っ」

いま自分の瞳は淡く輝いているだろうと、フエォドールは確信する。

フエォドールは堕鬼種だ◦そして堕鬼種という種族は、人間種を惑わすもので

あるとされていた。悪しき言葉と呪われた瞳を武器に、高潔な者たちを次々と破

滅に引き込んでいたと言われている。しかし、人間という種がまるごといなく

なってから五百年余り、現代を生きる堕鬼種はすっかり錡びついてしまった。

「悪しき言葉」に相当するものであろう舌先三寸はまだしも、「呪われた瞳」に

あたる邪視の力は、当の堕鬼種たちが存在を忘れそうになるほど、弱り切ってし

まつていた。

今やこの力は、無数の条件を満たした上でなければ使えない、ちょっとしたか

くし芸程度のものに成り果てた◦条件とはつまり、周囲が明るくないこと、息が

かかるほどの至近距離で視線を交えなければならないこと、対象の精神構造がか

つての人間種のそれと大きくかけ離れていないこと、術者が力を精妙にコント

ロールできる精神状態にあること、などなど。それだけのおぜん立てを整えるな

ら、同じ労力をかけて詐欺をしかけたほうがよほど効率が良いというものだ。

だからフエオドールも、こんな力のことは、できるだけ考えないようにしてい

た。

使いづらくて、使い慣れてもいなくて、効果も不安定◦こんなものを使わなけ

ればならないような策は立てるべきではないし、頼らなければならないような状

況になったならもう詰みだ。ずっと、自分に言い聞かせてきていた。

「君は、僕の、友人、だ……丨.」

その瞬間、二人ともが、凍り付いたよぅに動きを止めた。

心臓が高鳴る。

背筋を何かが走り抜ける。

開かれた瞳◦交わされた視線。それらを伝い、フエオドールの中にあつた何か

が、少女の内側へと注ぎ込まれていく。どくり、どくりと◦音のない音を立て

て。

少しずつ、わけのわからない充足感と脱力感が、体中に満ちてゆく。

フエオド^ —ルはこの感覚を知つている。

(まさか、ぅまくいつた......のか......?)

幼少時、この力をなんとか使いこなせないものかと、試行錯誤してみた時期が

あった。しかし何度試しても、成功率は、決して一割前後より高くならなか

た。静かな場所で落ち着いて試みてさえそうだったのだ。

「う……」

襲撃者の、戸惑いの声を聞いた。

「あな、たは……」

ラキシュ•ニクス•セニオリスの声だった。

少なくとも、そう確信できてしまうほどに、よく似た声だった。

「......苦しいよ、ラキシュさん」

そう言って、友好的に少し微笑んでみせた。演技の必要はない◦嘘でもなんで

もなく、締め上げられたままの首が実際に苦しかった。

長い逡巡の時間を経て、襲撃者は、手から力を抜く。

身を起こす。

フェオドールの腹にまたがり、空を仰ぐQ

堕鬼種の瞳は、他者の認識を少し改竄するくらいのことしかできない。今の彼

女の意識の中には、このフェオドール•ジェスマンに対し、「親しい友人だった

ような気がする」程度の思いが芽生えているはずだ。

「あなたは……誰なの?」

静かに問われた。

「ここは、どこなの?」

答えを待たず、続けざまの質問。

尋ねたいのは自分のほうだ、とフェオドjルは思ったQ

前世の侵食とやらにやられた妖精は二度と目覚めない、そう聞いていたのだ。

そんな状況にまでラキシュを追いやった自分への怒りで、眼れない日々を送って

いたのだ。

その彼女が、今こうして、言動こそ奇妙かつ危険なことになってはいるもの

の、とにかく起きて元気に動いている。

まさか、

「……思い出せないのかい?」

少女の質問には答えずに、自分の質問を返した。

記憶喪失、という言葉が脳裏に浮かんでいる◦映像晶石などの創作物語でちょ

くちょく見かける、定番の悲劇的展開だ。その悲劇がラキシュの身に降りかかっ

てきたというなら、それはとても悲しいことだ。

そして同時に、とてつもなく喜ばしいことでもあると^えた。

少なくとも、眠り続けて消滅を待つだけの昨日までに比べれば、よほどまし

だ。過去だとか思い出だとか絆だとかは確かに大事だろぅ◦喪失の痛みは耐えが

たいものかもしれない。けれどそれでも、新しいそれらを今これから積み重ねて

いけば、いつかはその痛みも癒えるはずだと——

「——ぁ」

遠く、松明の火が揺れるのが見えた。

フエオドールが気づくのにわずかに遅れて、少女もまたそちらを見た。

無言のまま少女の全身に走った気配は、おそらく警戒と後悔。

「待——Р:」

制止は間に合わない。弾かれたよぅに、少女は走り出した。

今さらながら、フヱオドールは思い出す◦いまこの基地内では、不審人物が追

われていたはずだということ。そして今自分の目の前にいる——目の前から消え

ようとしている彼女は、誰がどう見ても不審な行動をとつていること。

「ちよつと待つてラキシュさん、」

言葉は途中から力を失い、

「いつたい何がどうなつて——」

最後まで言い終えられる前に立ち消えた。

白い病衣の後ろ姿は、見る間に夜闇の奥へと溶け込み、にじむように消えてし

まつた。

「——何がどうなつてるんだよ」

問いに答える声は、どこからも返らない。

痛みと痒みを混ぜ合わせた不陕感に、小さく顔をしかめる◦さんざん地面を転

がったせいで、あちこちに擦過傷が出来ていた。

自分の体を改め直し、ついでにポケットにしまいこんでいた『小瓶』の無事を

確認する◦やはり丈夫にできている◦もしいまの格闘の衝撃で割れていたりした

ら、自分はいまごろ紫色の彫像になつていたことだろう……改めて考えると、

ずいぶん恐ろしい話だが。

先ほどの格闘の音を聞きつけたのだろう、松明の火が近づいてくるのが見え

る。今は見つからないほうが都合がいい。そう判断し、急ぎ、その場を離れる。

別のことを考える。

彼女はなぜ、逃げているのだろう。

何から逃げているのだろう。

どこへ行こうとしているのだろう。

これからどうするつもりなんだろ、っ。

今の十数秒は、いったいどういう奇蹟がもたらした時間なのだろう。二度と会

えるはずのない彼女に、いったい何が起きたというのだろう。

並べられた疑問を、ぼんやりと頭の中で弄ぶ。答えは出てこない◦思索が答え

の方向へと向かわない。

季節に似合わない、妙に冷たい風が吹く。

フエオドールは小さく体を震わせた。

1•冷たい雨の降る街

ラキシュ上等相当兵が脱走した。

この報は、当然のことながら、慎重に扱われなければならなかった。

本来であれば脱走兵なんてものは、他の兵士たちへの見せしめのためにも、

つか 'まつ あ►こ

大っびらに捕まえられ罰を与えられるべきものだ。しかし妖精兵たちに関しては

事情が違ぅ。確かに彼女らを軍敷地の外で自由にさせておくことはできないが、

その理由は単純に、純粋に、彼女たちが危険な存在だからだ。軍が所有し管理し

ているといぅ体裁があって初めて、ある程度の権利をもった人がましいモノとし

て存在を許されているからだ。

そして同時に、彼女たちのその特殊性について公にすることはできないといぅ

事実がある◦手の空いた兵士たちを総動員しての人海戦術、とはいかない。上等

相当兵の脱走に対しては、上等兵の脱走にふさわしいレベルの対応しかできな

V

総団長室の空気は重い。

そこに集まる者たちの表情に、一様に、焦りと戸惑いが色濃く浮かんでいる。

「僕が行きますょ」

ティアット、コロン、パニバル、アィセア、そして総団長である一位武官。そ

の場の全ての視線が、今の発言者であるフヱオドールに集まる。

「……いま、『僕が』と言つたか?」

軽く手を上げ、パニバルが尋ねてくる。

「それだと、一人で行くというように聞こえるんだが」

「そう言ったんだ。僕が一人で行く。おそらくそれが現状の最善手だ」

「ラキシュは市街地に逃げ込んだはずだ。それに、時間も遅く視界が狭い。これ

はどう考えても、人手が必要になる状況だろう」

「それは間違つていないけれど、少なくとも君たちは連れていけない」

コロンが、びくりと肩を震わせる。

「理由を聞きたい」

「先ほどの話じや、今のラキシュさんはなぜか君たちに対してあまり友好的じや

ないんだろ。戦闘前提の追跡じやないんだ、彼女を変に刺激はしたくない」

パニバルは「うむう」と悔し気な声を漏らし、黙り込んだ。

「かといって、君たち以外の兵士を使うというのも無い話だ。細かい事情の説明

もできないし、そもそもただの『上等相当兵』の捜索に割り当てられる数なんて

たかが知れている◦下手をすれば、意味なくラキシュさんを刺激するだけになり

かねないしね」

「それは道理だけど」

部屋の隅、壁に背をもたれたティアットが口を挟む。

「だからって、きみ一人で何ができるって言うの? 真っ暗で何も見つけられま

せんでした、で済ませられる話じゃないのょ?」

「正直、そうなる可能性はけっこう高い。でも、打てる手がまったくないってわ

けじゃない。僕もこの街にはそれなりに長いんだ、使えそうな目や耳に心当たり

はある」

「ふむ」

被甲種の一位武官が、いつものょうに、軽く頷いた。

「武力で抵抗されるかもしれないわけだが、一人で対処できるのか?連絡係く

らいは連れていったほうがょくないか?」

「そこはそれ。一人でならどうとでも無力化できます」

とぼけた顔で、そう答えた。

つい先ほどに不覚をとりかけたばかりではあるが、まったくの強がりというわ

けではない。不意を衝くなり薬を使うなり。充分に警戒と準備ができるならば、

戦力の差を埋める手立てなどいくらでも用意できる。

「そうか」

とぼけた声で言い、被甲種は頷く。

「監督責任の所在から言っても、おまえがおまえのやり方でやるって言うなら、

特に問題はない。だが、言ったからには結果を出せよ?」

じんりよく

「尽力します」

姿勢を正し、一礼。

「それでは、フヱォドール•ジヱスマン四位武官、これより捜索任務に取り掛か

ります……と言いたいところですが、その前にひとつだけ、確認しておきたいこ

とが」

「何だ」

「いえ、尋ねたいのは一位武官にではなくて」

フエオドールはまっすぐに、一人の女に眼を向けた。

少年の視線を追ぅよぅに、その場の全員の注目がそこに集まる。

その女は顔を軽く伏せたまま、ここまでずっと沈黙を保っていた。心なしか顔

が青ざめているように見える。もちろん、状況を考えれば無理もないことではあ

るのだが。

「アィセアニ位武官◦以前伺ったお話だと、人格が侵食され一度昏睡した妖精

は、もう二度と目覚めないとのことでしたが」

「......そうっすね」

力なく、頷く。

「それでは、今のラキシュ上等相当兵は、前例すらない未知の状況にあると解釈

してよろしいですか」

「そう……だと言えれば、だいぶ気が楽になるんすけどね」

にやはは、とわざとらしく笑う。

わざとらしいと誰もが感じ取れてしまうくらいに、精彩を欠いた表情を浮かべ

る。

「基本的には死体と同じ、と話したと思うんすけどね。実際には、一度眠った状

態からもう一度起きあがるケース。これまでにも、まったく無かったってわけ

じやないんすよ」

言葉の表面だけをとれば、希望の感じられる話だ◦もしかしたら——という甘

い期待が、どうしようもなく、湧き上がってきてしまう。

それでも、語り続けるアィセアの表情は、どこまでも冷たく重い。

「霊体である妖精は、いわば心が本体みたいなものっすからね。心が壊れれば動

かなくなるし、そのうち消えてなくなる。けれどそれは、逆を言えば、中身の心

がそれなりに形を残していれば、体のほうは問題なく動く……ということでもあ

るわけっす」

それなり、という言葉に力がこもっていた。

「本人の心は、とっくに壊れている。砕け散って、パーッも欠けた硝子細工っ

す。けれど……前世のほうの記憶や感情がそこを補えば、体のほうが『自分は生

さつかく もど

きている』と錯t見するくらいの形を取り戻してしまうことは、あるんすょ」

「それは、つまり」

息を吞む。

「ラキシュさんの体を別人になつた、七が動力す-ということです力」

「そういうことっす。や、察しが良い子が相手だと話が早くて助かるっすね」

にやはははは。空っぽの笑顔。

「ただ、単純に前世の誰かさんが生き返った、と決めつけられるものでもないん

すょ。死者はあくまでも死者、一度は全てを喪ったはずのモノっすから。故人の

人格が原形を残したまま蘇るなんてことは、めちやくちや珍しい話◦少なくとも

あたしの知る限り、過去に一例しかなかったはずっすよ」

一本だけ、指を立てる。

「パニバルから聞いた話からすると、今のラキシュは自分が何者なのかも把握で

きていないくらいに不安定だ。ということは、あの子の記憶も感情も、二人分の

ものが混ざり合っている公算が高いっすね」

少し考える。アィセアの今の言葉を姐嚼する。ラキシュたちの姉のようなもの

であるこの女が、いまё分に何を伝えようとしているのかを、飲み下そうとす

る。

吐き気を感じる。

「今の彼女は、ラキシュさんの心を材料に使った、モザィク画みたいなものだ

と?」

「......にやはは」

悲痛に歪んだアィセアの表情は、もう、笑顔としての体裁すら保てていなかっ

た。口先だけでかろうじていつものおどけた貌を装っていた。

(否定しないってことは、その解釈で正解ってことか)

胸の奥のむかつきを、どうにかこうにか抑え込む。

「言うまでもなく、不安定ということは、いつ崩れてしまってもおかしくないと

いうことでもあるっす。ラキシュと前世の誰か◦二人分の心の残滓と欠損がうま

く嚙み合っている間にしか、そのモザィク画としての『彼女』も存在できない。

もし何かの拍子でバランスが崩れれば、ただそれだけで——」

がたり、小さな音を聞く。振り返れば、その場に頹れそうになるコロンを、パ

ニバルが抱き支えているのが見える。

「あ一っと……済まないが」明るい声を作ってパニバルは言う「私たちは退出さ

せてもらえないか。少々息苦しい話が続いたし、少し外の空気を吸ってきたいの

だが」

「ああ、今日はもう休んでいいぞ。疲れてるだろ」

「感謝する」

一位武官に向かって軽く頭を下げ、肩にコロンを担ぐようにして、パニバルは

部屋を辞する。

フエオドールはその背中を無言で見送ってから、改めて自分もまた扉に向か

、っ0

「ねぇ」

足を止めた。

気づかず伏せていた顔を上げて、ティアットの次の言葉を待つ。

「その……もし、ラキシュが……ラキシュじやないラキシュが見つかったら、そ

のね、なんていうか、ええと、うまく言えないんだけど……」

ティアット自身、何を言っているのかわかっていなかったのだろう。いつも無

駄にはきはきしている彼女にしては珍しく、言葉を濁している。

「わかってる」

「……え、今のでわかるの」

本気で驚いた顔をされた。

「たぶん、僕も同じことを考えてる。彼女を見つけたら......まぁ......なんていう

か、うまく言えないんだけど、できる限りのことをするというか」

どうにも曖昧で、中身のない返事。フиォドール自身、自分が何を言っている

のか、いまいちわかっていなかった。

「わかった」

「え。今のでわかったの」

少々本気で驚いた。

ティアットは悔しそぅに頷くと、

「任せたから」

「......ああ」

どぅにも返す言葉が見つからなかったので、曖昧な返事だけをしてから、

「それでは、フヱォドール•ジヱスマン四位武官、脱走兵捜索の任務に向かいま

す」

「お、っ、行ってこい」

一位武官の言葉を背に受けて、総団長室を後にした。

雨が降り出した。

宿舎玄関前の傘立てから誰かの私物であろう安い傘ひとつを拝借し、雑嚢を肩

にひっかけて、フエォドールは暗い街中へと向かう。

実際のところ、普通に探しても、彼女を見つけられる自信がないわけではな

かった。

なにせ彼女は、病衣一枚きりをまとっただけで、靴を履いてすらいなかった。

そうでなくとも目立つうえ、あまり遠くまでは離れられないだろうと予想ができ

た。つまり、捜索範囲はそう広くない。

本来、迷路のょうに入り組んだこの街並みは、本来ならば逃亡者のほうに有利

な地形だ◦が、この近辺に関して言えば、フヱォドールに完全な地の利がある。

ぬ ふナ

基地を抜け出してこそこそと買い食いに耽った日々は、きっと、今この時のため

にあったのだ。噓だが。

もちろん、彼女が魔力を熾して空を飛べば、これらの手がかりはまとめて無意

味なものになってしまう。しかしそれでも、彼女たちの創り出す幻翼はぺかぺか

光ってとても目立つ。むしろ足だけで逃げられるょりも追いかけやすくなるだろ

うと踏んだQ

もちろん、ゴ^~ストタウン化の止まらないこのラィエル市においては、そもそ

も目撃者がまともに見つかる保証はない◦が、それでも、そう分の悪い賭けには

ならないだろうというのがフエォドールの目算だった、のだが。

(なんだ、これ)

街に入った辺りから、奇妙な感覚がつきまとっている。

目にも耳にも鼻にも異常はない。しかし、五感のどれにも属さない、それらと

まったく別の、フエォドールの内側に棲みついた何かが、奇妙な確信を伝えてく

る。

こつちに、いる。

怪しげな導きではあったが、あえて逆らうことはせず道を行く。大通りを少し

歩いて歯車屋の角を右に曲がり、道なりに進んで三つめの油圧門を左上に入り、

でこぼこした路地裏でちょっとしたアスレチックを楽しみながら南東二番、記念

館地区の方へと向かう。

見つけてしまった。

橙色の髪に、白い病衣の少女。

道端の壁に背もたれ、膝を抱えて座っている。

その頭上には小さな庇があり、雨粒に直接打たれることはない。しかし、ここ

に来るまでに降られていたぶんについてはどうしょうもなかったらしい。濡れて

肌に貼りついた病衣はいかにも冷たく、そして重そうに見えた。

その姿を見ていると、孤独という言葉がどうしても浮かんでくる。

「......寒くない?」

さんざん迷った末、フエォドールは、そう声をかけた。

こちらの気配に気づいてはいたのだろう。驚いた風もなく、少女は、うつむい

ていた顔をゆっくりと上げた。

「寒いわね」

雨音にかき消されそぅな小声で、ぽつりと、答えてくる。

その横顔が誰のものなのか、一瞬、わからなかった。顔立ちそのものは、自分

のよく知るラキシュ•ニクス•セニオリスのもの。なのにその表情はフエオ

ドールの見たことのないものだった。

少女の持ち前の雰囲気だった温かさや優しさはどこかに消えている。代わりに

漂っているのは、水か鋼にも似た冷たさだ。ぬいぐるみを探していたはずが、大

理石で彫られた彫像を見つけた◦そのくらいの違和感がある。

砕けたラキシュの心のかけらと、失われていた前世の誰かの心の残滓が、溶け

あい混ざり合い奇蹟的に作り上げた、モザィク画の人格。

フエオドールは眼鏡を外して上着の胸ポケットに収めると、

「どこに行くつもりだったのさ?」

重ねて、そう尋ねた。

「どこでもよかった。だからここにいるのよ」

ラキシュらしくない、どこか投げ出すような口ぶり。

ゆっくりと、距離を縮める。すぐ傍に立ち、傘を差しかける。

少女はちらりとこちらを一瞥だけして、すぐに視線を彼方に戻したQ

「さつきはこめんなさレ」

「え?」

「摑みかかったこと。さっきまで、ものすごく頭がぐちやぐちやしてたのよ◦逃

げるために、あなたの上着を奪おうとしてた……はしたない話だけど」

Г……ああ」

納得する◦少女の着ている病衣は大して丈夫ではないし、何より目立つ。それ

一枚きりを着ての逃避行というのは確かに無謀だ。そして、上着の一枚も羽織れ

ば、少しはましになりそうだというのは、よく分かる考え方だ。

そんなことを考えながら、視線を少し落として少女の体を見る。

病衣はところどころが破れ、その隙間から、少女の素肌が■いて見えていた。

そんな状況ではないとは知りつつも、どうしても目が泳いでしまう◦徴無しの

女の子は趣味ではないのだと何度も_分に言い聞かせ、必死になって真顔を作る

と、顔を背ける。

再び、少女の視線が、一瞬だけこちらを見た◦表情が変わらないので、どう思

われたのかがいまいち分からない。妙な誤解をされていなければいいのだけど

——などと考えながら、上着を脱いで、少女の肩にかけた。

「-失礼jるよ」

少女の目前にかがみ込み、その白い足に触れる。

「え......ちよ、ちよつと、何?」

「君たちの種族、特に体が強いってわけじゃないんだろ?.......ああ、やっぱ

り。ひどいことになつてるじやないか」

素足のまま、ここまで走ってきたせいだろう。足の裏の皮が、盛大に破けてい

る。妖精種族は痛みに頓着しないとかいう話ではあったが、傷を放置してよいか

というのはそれと別の問題だ。このまま放置しておけば雑菌が入って化膿する。

少なくとも、大抵の生き物はそういうふうにできている。

雑嚢から、水の入った瓶を取り出す◦続けて、消毒薬と清潔な布。

「何......してるの?」

「見れば分かるだろ、応急手当てだよ。少し痛むけど、がまんして」

水で傷口を洗う◦小さな悲鳴とともに、少女の体がわずかに震えた。続けて消

毒薬を塗りつけて、布で覆う◦包帯で固定する。

「ひとまずこれでよし、と」

立ち上がる。

「どういう、こと?」

座ったままの少女の視線が、こちらを見上げている。

「どうもこうもないよ。君をこんなところに放つておくつもりはないからね」

「......ああ。そういうこと」

寂しげに、納得の表情を見せた。

「わかつたわ、行きましよう」

「へ?」

「さっきの場所。護翼軍の基地なんでしよう?」

「戻るの?」

「もちろん嫌——なんだけど。私が戻らないと、あなたが困るでしよ?」

言って、少女は自分の肩を見る。フエォドールの上着の肩には、護翼軍所属四

位武官の地位を表す徽章が縫い付けられている。

「こんなことを言うと妙に思うかもしれないけれど、私、今、どうかしてるの。

すごく色々なことを忘れてる。自分の名前も、どうしてここにいるのかも。護翼

軍が嫌いなことは覚えてるけど、その理由は思い出せない」

ぽつりぽつりと、どこか自嘲するように、少女は語る。ときどき、くすくすと

自嘲そのものの笑みを交えながら。

「もうひとつ。あなたが信用できるってことも、覚えてる」

ずきり、心の奥が痛んだ。

それは違う、と叫びそうになってしまった。

г......うん」

「私の中身は、それで全部。空っぽなの。何もできないし、どこにも行けない。

だから、そんな私なんかのために、あなたに迷惑をかけたくないの」

「……君たち妖精は、いつもそうだ」

「え?」

「自分のことは後回しで、他人のことばかり気にかけてる」

言って、フエオド^ —ルは少女の手をとる。

ひよいと抱え上げ、問答無用で背負う。

「きやつ!?:」

妙にかわいらしい悲鳴の声は、あえて無視。

「……僕らのせい、でもあるんだろうな。君たちが放つておけなくなるくらい、

危なつかしく頼りなく見えてるんだろうし」

「ちよつと?」

抗議めいた声は聞こえるが、特に抵抗らしい抵抗はない。ならばこのまま行く

としよう。地面に落ちていた傘を拾い上げ、「悪いけどこれ持つて」と少女に託

す0

——雨の降る街の中。

ひとつきりの维の下。

軍服の上着を羽織った少女を背に乗せて、フエォドールは歩く。

耳元に感じる吐息とか、背中に感じる温かさとか、そういうものからはとにか

く気合で意識を逸らす◦今はとにかく、そんなものに心惑わされている場合では

ない。しっかりしろ自分。まじめにやれ自分。お前はやればできるヤツのはずな

んだ。

「……ここって、変な街ね」

少女の声が曝くょうにぼやく。

「足の下、金属板だし。道がごちゃごちゃしてるし」

「ああ、確かにね」

言い訳のしょうもない話だ。

38番浮遊島ラィエル市。鉱山都市として生まれ、機械技術の集ぅ場所として発

展し、そして〈十一番目の獣〉に近く滅ぼされる街として廃れた。土や木材や石

ではなく、金属板と螺子と発条と雷気線で組み上げられたゴjストタゥン。少な

くとも、浮遊大陸群に一般的な街の在り方だとはいえないだろぅ。

ナむりは

「壁が、いきなり煙吐いたりするし」

「ああ、慣れない人は驚くよね、あれ◦巻き込まれた?」

「ちゃんと避けたわよ。……尻もちはついたけど」

妙に照れた声。恥ずかしいなら、言わなければいいのに。

「つて、あら?」

「今度は何」

「道が狭くなってきてる◦大通りに出るなら、逆の方向だったんじゃない?」

「こつちで合つてるょ」

「護翼軍に戻るんじゃなかったの?」

「君は戻りたくないんだろ?」

「そぅだけど、でも、それじゃあなたの立場が悪くなる」

「そんなもん、見つかりませんでしたって言っときゃいいんだ◦要は、わざと逃

がしたことがバレなきやいいんだょ」

フエオド^—ルの肩をつかむ手に、力がこもる。

「バレたら終わりつてことじやない! わざわざそんなリスク背負わなくて

も......」

「ク君//を犠牲にしたくない」

言葉を遮り、そぅ返した。

「……正直を言って、僕にも、今の君をどう扱うのが正しいのか、わかってない

んだ。危険な存在として拘留するべきかもしれないし、その手間も省いてさっさ

と消去するべきなのかもしれない」

黄金妖精は、危険な存在だ。ひとかけらの愛情だけを理由に、あっさりと自分

くだん

自身を爆弾として使いJ^口てることかできる。そのことをフエオド-^ルはょく知っ

ている。

心の揺れ動きひとつだけで、全てを破壊してしまいかねない少女たち。

そして、いま自分の背にいるこの少女は、肝心のその『心』が不完全なのだと

いう。ばらばらに壊れてしまった人格を——ラキシュと誰かさんの思いの欠片

を、寄せ集めてそれなりに形を取り戻しただけの存在なのだという。つまり、い

つどんな理由で暴発してもおかしくないわけだ。

もうひとつ不安材料を付け加えるなら体がラキシュのものである以上爆弾

としての性能も、おそらく凄まじいものであるだろう。何かの拍子で魔力が暴走

すれば、密着しているフェオドールは当然のこととして、この辺りの街並みもま

るごと消、又てなくなつてしまうだろう。

「だつたら!」

「正解がわからないなら、やりたいようにやるだけだ。僕は、君の幸せを優先す

る」

短ぃ1|1。

「ねぇ」

гうん」

「今さらだけど、あなたの名前、聞いてもいい?」

「......フェオド-—ル。フェオド-—ル•ジェスマンー

フエオド-—ル。

少女がその名前を口の中で転がす。

本人としては独り言のつもりなのだろうが、なにせその唇はフエオドール当人

の耳のすぐ近くにある。

少女の吐息に混ざってかすかに聞こえる、自分の名前。

なんというかこう、心臓が跳ねるというか、とにかく落ち着かない。

「僕は」

邪念を断ち切るように話しかける。

「……僕は、君のことを、何と呼べばいい?」

短い沈黙のあと、

「変な質問」

楽しそうにくすくすと笑う声。

「あなた、私の知り合い……というか、たぶん親しい人だったんでしょう?

だつたら、名前くらい、知つてるはずじやないかしら?」

「それは……そうなんだけどね」

——今の彼女は、ラキシュさんの心を材料に使った、モザィク画みたいなもの

だと?

先ほどアィセアに投げかけた自分の言葉が、いまになって蘇ってくる。

そして、改めて嚙みしめる。いかに姿が変わっていなくても、声が同じであろ

うと、触れている背に感じる温かさと柔らかさまでもが記憶の通りであっても、

ラキシュ•ニクス•セニオリスはもういないのだという事実を。

Iラキシュ......」

「っp:」

息が詰まる。

「……って、さっき、あなたに呼ばれた◦その前に会った妖精の女の子たちも、

そんな名前を言ってた気がする。つまりそれが、私の名前。合ってる?」

「あ......ああ......えと......」

ごくりと唾を飲んで、覚悟を決める。

何の覚悟なのかは、自分でもよく分かっていないけれど。

「ああ、そうだよ」

頷きもせず、視線を行く手に固定したまま、ただ言葉だけでそう答える。

彼女はもう、ラキシュ•ニクス•セニオリスじやない。

そういう名前の少女は、純粋で純朴で繊細でたくましくて友達を大事にして友

達からも大事にされていてリンゴにマシュマロにティアットにコロンにパニバル

という特大問題児どもの面倒を見ていた大人物は、もうどこにもいない。

そう、頭では分かっているのに。

「君はラキシュ。成体妖精兵で、僕の部下だ」

「妖精」

ぼつり、その言葉の語感を確かめるように。

「そう……そうよね。私は、妖精」

「思い出した?」

「そうね。できれば、忘れたままでいたかったけど」

「どうして」

「……よく覚えてないけど、たぶん私、妖精ってものが嫌いだったのね◦自分が

何を救ってるのかも知らずに使い捨てられる兵器。いま考えても、ぞっとしない

もの」

ぶっ、と小さく吹き出してしまった。

「そんなにおかしなこと言った?」

「いや。そうじやない。ちよつと嬉しくてさ」

「喜ばせるようなことを言った覚えもないのだけど」

「そうでもないさ。君が、そう答えてくれたこと。そういう考え方をする妖精も

いるっていうこと◦どうせ最初から、僕の理想を押し付けるだけのつもりでいた

けどさ……やっぱり、同じことを考えてる人がいるっていうのは、心強いよ。う

ん。勇気が出る」

雨の音が、こころなしか強くなった。

この傘の下だけ世界が切り取られてしまったような、その狭い中に二人きりで

取り残されてしまったような、そんな錯覚が身を包む。

「もしかして、フエオドールって、変な人なの?」

「自覚がないわけじやないけど、今の君にそう言われると、ダメージでかい

なぁ」

fT

距離にして五百マルメルも歩いただろうか◦隣の区画の比較的大きな通りの隅

に、目的地となる店はあつた。

真新しい、家具屋の看板が出ている。

戸を押し開くと、退屈そうに商品にはたきをかけていた豚面種がこちらを見

た。種族が違つていてもはつきりとわかる、うさんくさいものに向ける目。

無理もない。なにせ、衣服の乱れた若い徴無しの男女が、雨に濡れながら入っ

だれ

てきたのだ。とりあえずヮケありだということは誰にだつて分かる。

「すみません、今日はもう閉店してます」

「知ってる。けど至急取り寄せてほしいんだ、巨人種サィズの硝子机、コリナ

ディルーチェ式彫刻の施されたやつを半ダース」

「は」

豚面種が意表を衝かれた顔(たぶん)になる。

「……その数となりますと在庫が足りませんので、おおょそ二月ほど待っていた

だくことになるですが」

「それは困るな、急いでいるんだ◦なんとか四十日以内に都合をつけられない

か」

「畏まりました、店長に確認して参りますので、こちらでお待ちくださいです」

隣の部屋を指し示しつつ、豚面種は奥へと引っ込んでしまう。

「どういうことなの? 硝子机?」

背中の少女をその場に下ろす。

店内に他に客がいないこと、通りにも人影が見当たらないことを確認し、フエ

ォドールは少女の耳元に口を寄せる。

「店長を呼び出す符丁だょ。看板とは違うものも扱ってる店なんだ、ここは」

い5、っ

「......違法ということ?」

「どちらかというと、お得意様以外お断りみたいなやつかな。客と秘密を共有し

てるわけだから、ルールを破りでもしない限りは無茶な注文にも便宜を図ってく

れるし、事情に深入りしようともしてこない。だから、ええと……きみのこと

も、って痛ぁっ!?:」

太ももをつねられた。

「こら。名前で呼びなさい」

冷たく低い声。

以前に聞いた話を思い出す◦彼女たち妖精にとって、名前はとても大切なもの

なのだという。特に、他人の名前をつけるということは……つまり他人と同じ名

で呼ぶということはタブー視されているのだという。

果たしてこの少女のことをラキシュの名で呼ぶことは、許されるのだろうか。

今さらながら、そんなことを気にしてためらつてしまう。

「お願い。自分が何者なのか、もう、見失いたくないの」

「——わかったよ」

、っめくように、頷く。

「ラキシュさんのことも、ここでなら、安心して相談できる。今夜のねぐらだけ

じやなくても、この後のことも併せてね」

「そう」

心底から嬉しそうに、その少女は笑顔を浮かべた。

ところで、豚面種という種族は、徴無しの諸種族とはまた違う意味で、あまり

他の種族の者たちに好かれていない。

理由はいくつかある。容貌が(美醜の基準がばらばらであるはずの浮遊大陸群

諸種族のほとんどにとって)醜いこと◦非常に強い同族意識の裏返しで、他種族

に対して排他的な気質を持っていること◦短い寿命ゆえか、精神性を軽んじ即物

的な欲に忠実な気質を持つこと◦そこから派生して、他種族と相容れにくい独特

な倫理観を持っていること。

平たく言えば、種族まるごと、自分勝手なのだ。どうせ自分は長く生きること

はないのだからと、長期的にものを考えない。知識や信用を積み立てるというこ

とを好まない。周囲の迷惑や心証を考えずに振る舞う。

数が多いということと、強引な手口を遣うことで、あちこちの都市で富を築い

ては同胞だけで固まって大きなコミュニティを作っている。ほとんどの浮遊島に

おいて、彼らの存在を抜きにして経済を語ることはできない。

かつてこの空に存在していた経済国家、エルビス集商国を滅ぼしたのは、公式

には軍の暴走だということになっている。しかしフエオドールは知っている◦軍

が進めていた重要計画を私欲のままに歪め、取り返しのつかない悲劇の結末へと

突き落としたのは、あの国にいた豚面種の商人たちだった。

義兄の、家族の、故郷の、大切だった全てのものの仇。

五分後、応接室。

タオルを借りて体を軽く拭き、柔らかいソファの上に座る。

г貴方が同志フェオドール•ジェスマンです力」

テーブルの対面◦じやらじやらとした宝飾品の塊が、流暢な大陸群公用語で

Wる。

金糸をふんだんに縫い取った天鵞絨地の上着◦でっかい金紅石から堇青石やら

を大量にあしらった重そぅな首飾り◦ぶっとい指のそれぞれにはまった、ぶっと

い金色の指輪——おょびそこに飾られた下品なまでに大きな宝石——の数々。

よく観察すれば、それは数々の宝石を身に着けた、脂肪の塊であることが分か

る。

さらにもう少しよく見れば、それがやや小太りの豚面種であることまで理解で

きる。

г徴無しだという話は聞いていましたガ、思っていたより随分と若いですネ」

宝飾品の塊改め小太りの豚面種が、意外そうに言って首を小さく傾げた。

「そう見られるだろうと分かってたから、これまで仲介人を通してしか接触しな

いようにしてきたんだよ。……で、そう言うあなたが、ギギル•モゼグ本人?」

複雑な思いを抑え込みながら、フヱォドールは尋ねた。

このギギル個人は、あのエルビス事変に直接関わっていなかった。つまり、両

親たちの仇ではない。それを頭で理解していても、豚面種の商人を前にすると、

感情がどうにも落ち着かない。眼鏡の位置を正し、平静の表情を保つ。

「ええ、その通りですとモ」

悪趣味としか言いようのないレベルで宝飾をまとう目の前の豚面種——スぺサ

ルティン広域商会代表ギギル•モゼグ——の、潰れた豚のような顔がゆっくりと

縦に振られる。

「急な来訪で、影武者の都合がつかなくてデスネ。この者たちが同席しますガ、

気にはなさらぬヨウ」

ギギルとフェォドール、それぞれの背後に、屈強な黒服の獣人が静かに立って

いる。

「ものものしいね。何かあったのかい?」

「最近、旧エルビスに登録していた商人が命を落とす事件が続いていましテ◦暗

殺者は徴無しだという嗱もありまス。そういう事情でス」

「ふうん」

まあ、驚くにはあたらない。なにせこいつらは、どこでどれだけ恨みを買って

いてもおかしくない連中だ。

「構わないよ◦僕らは気楽な仲良しグループってわけじやない。お互いを最大限

警戒するくらいでちようどいい」

гご理解いただけて幸いでス」

楽し気に頷く。

「改めてはじめましてなんてのもなんだし、挨拶は省略するよ◦いきなり押しか

けた件については申し訳ない、最近いろいろと事情が変わってきたんだ」

ゞっかが

一同いましよウ」

野卑で粗雑そうな風貌に似合わず、ギギルの落ち着いた対応には確かな知性が

感じられる。こういうのも種族間ギャップというのだろうか。多少の戸惑いを瞳

の奥にしまい隠し、フエオドールは平静を装って話を続ける。

「今日の用件はふたつ。ひとつはこの子をしばらく預かってほしい」

視線がフヱオドールの隣に座る少女——ラキシュに集まる。

「え? 私?」

г徴無しの雌です力」

ギギルはわずかに顔をしかめる。

「もちろん安全に、かつ丁重に。問題あるかい?」

「いエ。ですが、意図は説明していただけるのでしょうナ?」

「護翼軍の切り札のひとつだ。特殊な生まれをしているらしくて、まだメカニズ

ムの解明されてない古代の超兵器を起動できる」

嘘は吐かない。だが、必要以上の情報を与えたりもしない◦今必要なのは、目

の前の豚面種の興味を惹き、この少女の価値を認めさせることだ。

「ほゥ」

ギギルは感心するように頷く ◦一方で当のラキシュは「は!?:」と目を丸くす

る。

「ちよ、ちよつとあなた、いきなり何てことを!」

黄金妖精という兵器の存在は、軍内部の機密になっている◦気軽に外に持ち出

せるものではない。そんなことはフエオドールも承知している。だが、

「その兵器は、〈獣〉に対して決定打になりうるものだ◦既に多くの実戦で効果

は証明されている◦そしてこれが重要事項なんだが、〈十一番目〉相手にも有効

だということがつい先日証明された」

「ちよつとちよつとちよつと!」

「......5 5ゥI

豚面種は興味深そうに、ラキシュの全身をじろじろと見回す。

「この子は、その才能のせいでこの島まで強制徴用されてきた。で、ついさっき

逃げ出したとこを僕が確保したってわけだ。言うまでもなく、僕らのやろうとし

ていることに、この子の協力はとても有用だ」

「なるほド」

豚面種の短い首が縦に揺れる。

「ちよっと、話を勝手に進めないで、少しくらいは説明しなさいよ!」

ラキシュが身をねじり、詰め寄つてくる。

「あ一つと……今は話を先に進めたいところだし、そういうのは後でまとめてに

させてくれないかな」

「ごまかさないで。私を何に利用しようとしてるのかくらい、先に言いなさい。

利用すること_体には、目をつぶるから」

「そんなことを言われても」

ちらりとギギルのほうを見る◦どこかおどけたような仕草で肩をすくめられ

る。

「……簡単に言えば、この豚面種は僕の協力者だ。僕のやろうとしていることに

賛同……じゃないな、価値を見出して、援助してくれている」

「そういう言葉を遣うと、なかなか美しい関係に聞こえますナ」

ふふふ、とギギルが肩を揺らす。

「やりたいことつて、何よ」

「護翼軍が独占している、対〈十七種の獣〉戦力を剝奪する。具体的な方策のひ

うば

とつとして、君を……君たち全員を護翼軍から奪うつもりだ」

г……え」

驚いた顔のラキシュが、呆けたように、目をぱちくりとさせる。

「これ以上、便利な道具として使い捨てさせたりはしない。君たちは僕が守る」

「あ......うん、そうなの......」

覇気を奪われたように、どこか呆けたようなラキシュが顔をひつこめると、ソ

ファの上に座り直す。尻がずぶずぶと沈む。

何が楽しいやら、ギギルがくつくつと押し殺したように笑っている。

「とにかく、この子は、護翼軍の脱走兵だ◦それと、事情があっていろいろと記

億を失ってもいる◦陰が匿うにも限度があるし、信电できるところで保護した

い。とまあ、ここに押しかけさせてもらったひとつめの理由は、それだ」

「なるほド。もうひとつというのハ?」

「木箱を静かに破る道具を、用意してほしい」

言って、フエオドールは要件を説明する◦いわく、先日護翼軍基地に運び込ま

れた木箱をひとつ、こっそり持ち出したい。サィズは標準的な成人男性が一人収

まりそうな程度。

「ふム? 空き巣でも始めるのデ?」

「似たようなものかな。狙いは零番機密倉庫、潜入ルートは下調べ済みだ」

「……零番、何です卜?」

「零番機密倉庫」

「それは、いわゆる、塩漬け樽のことデ?」

「よく知ってるな、その通りだよ一

太い指が、豚面のこめかみをぐりぐりと揉みほぐす。

「............いつものことですが、随分と無茶を言いますネ」

「最終目標が一番の無茶だからね」

「違いありませんナ」

ぐひぐひ、と喉を鳴らして豚の顔が小さく笑う。

豚面種の笑顔は、なんというか、夢に見そうであまり直視したくない。

「それで、その箱の中身ハ?」

「不明。内容を知っている者はごくごく一部に限られているし、僕もまだ確信で

きる形でまでは情報を集められていない」

「そんな正体の知れぬものに、樽に入るリスクを負うだけの価値がある卜?」

「ある。僕の推測が正しければ、そいつは引き金になりうるシロモノだ」

ほお、とギギルが深い息を吐いた。

思い出したように紅茶のヵップを取り上げ、中身を飲み干す。

「ようやく始まるわけです力。それは喜ばしい……急いで他の準備も始めなけれ

ばいけませんナ」

くっくっく、と含み笑いなんぞを交わし合う。その様を見て、

「話の内容はわからないけど、ろくでもないってことだけはわかるわね」

じっとりとした半眼で、ラキシュが小さくつぶやく。

гご明察。君はいま、ろくでもない企みに利用されようとしてるんだよ」

「そうみたいね。ま、どうでもいいことだけど」

さしたる興味もなさそうな口調。

г……いや、あのさ。僕が言うのもなんだけど、君はそれでいいの?」

「ろくでもないことでも、大事なことなんでしよう? あなたが必死になってし

ようとしてることなんだから」

からかうように、少し意地悪く唇を歪めて、少女は笑う。

それは、間違いなく、魅力的な笑顔だった。

そして、かつてのラキシュならば——危なっかしいほど純朴だったあの少女で

あれば、決して浮かべることのなかっただろう種類の表情だった。

(……

ラキシュ•ニクス•セニオリスは、本当に、もうどこにもいないのだ。

ふんわりと包み込むようなあの笑顔は、もう二度と、見ることが叶わないの

だ。

そう思うと、胸の奥が、強く痛んだ。

2•眠れない夜

その夜、ティアット•シバ•ィグナレオは、なかなか眠りに入れずにいた。

ラキシュのことは、フエオドールに任せる。

そういうことに決まっても、心はそう簡単に割り切れない。ケガしてないか

な、おなかすかせてないかな、悪いやつにつかまったりしてないかな◦心配の種

は尽きず、ティアットはベッドの中で何度も寝がえりを打った。

「眠れないのか?」

隣の二段ベッドから、パニバルの小さな声。

「ごめん。、っるさ力つた?」

「いや。私も考えごとをしていた。きつと、君と似た内容のを」

なるほど、と思つた。

「無事だと思うか?」

「わかんない。そう信じたいとは思うけど」

「そうだな。フエオドールのことだ、捜索にはベストを尽くしてくれるとは思う

が」

「……そだね」

そこについては、完全に同意できた。なにせ相手はフエオドールだ、要らない

世話を押し付けてくることについては(ティアットの中だけで)定評がある◦手

を抜くことはまず考えられないし、たとえやめろと言われたとしても勝手に捜索

を続けそうだ。

だから、気になるのは、今のラキシュがどういう状況にあるか◦いざフエオ

ドールが彼女を見つけた時に、どんな姿をしているのだろうということだ。そし

てもうひとつ、その時のフエオドールがどういう反応をして、どういう行動を起

こすのか。

彼はきっと、彼がもっともラキシュのためだと思う行動をとる。ティアットが

彼にそう求めたように。彼がティアットにそう答えたように。

「ねぇ、パニバル」

「ああ」

「あいつ、本当にラキシュを連れて帰ってくるかな」

パニバルの返事まで、少し間が空いた。

「彼は優秀だ、手腕は信用していいと思う……が、そういう意味の話ではないの

か?」

「うん、まぁ。もし無事なラキシュを見つけても、逃がすとか匿うとかしそうだ

なつて。『君は軍に戻つちやいけない、このまま自由になるべきなんだ!』とか

なんとか、ヵツコょさげなこと言つちやつてさ」

また、少し間が空く。

「いかにもやりそうだな」

「でしょ」

もそり、と隣の二段ベッドの下で気配が動く。

「それなら、それでいい」

「コロン。起こしちやつた?」

「ねむれてなかつた。わるい夢、みそうだつたから」

なるほど、とまた思つた。

自分もパニバルも眼れなかった。ならばコロンもまた同様であっても、何も不

思議じゃない。自分たちは、昔からずっと、何をするにも一緒だったのだから。

「いまのラキシュは、あたしたちのこと、覚えてなかつた。なら、あたしたちは

このまま、あたしたちだけで戦場にいこう。きっと、それが一番いいんだ」

声はまだ少し震えていたけれど、力がこもっていた。

「コロン」

「だって、そうすれば、あたしたちはラキシュを守って戦える」

ティアットは言葉を失った。

パニバルもまた、何も言わなかった……きっと、やれやれと楽しそうに呆れた

ょうな、例の笑みを浮かべているんだろうなと思う。

先日の、ティアットが一人で〈十一番目の獣〉に挑もうとした時のことを思い

出す◦あの時、コロンは怒った◦生きるも死ぬも一緒だぞと、四人で戦うために

肩を並べてこの浮遊島に来たというのに、一人きりで死地に向かっていたのだか

ら0

もしラキシュがどこかに無事でいると仮定できるのなら、ちょうど逆の状況だ

ということになる。つまり、彼女ひとりが戦場から離れた安全な場所にいて、死

地には自分たち三人だけが向かうということだ。

「……そだね。それも、悪くないかも」

ティアットは小さく鼻を鳴らした。

思い出す◦いつだったか、フエォドールに、ラキシュの恋人にならないかと持

ち掛けたことがあった。

あの時とはずいぶんと状況が変わったが、もしかしたら、少し似た感じの未来

には行きつけるかもしれない。自分たち三人が守るこの浮遊島に、フエォドール

とラキシュが身を寄せ合って生きていってくれるなら、それはそれで望ましいこ

とのはずだと思える。

「少しだけ悔しいかな」冗談めかしてパニバルが言ぅ「最近、フエォドールとは

それなりに親しくなれたのだがな◦他の誰かに全て託すとなると、嫉妬めいた気

;っ

持ちも湧く」

「え。何それ、初耳」

「君たちが留守の間に、剣と心とを交える機会があってね◦互いのことをかなり

詳しく知ることができた。プラィバシーのためにも、内容までは話せないが」

「......へ、又、又」

自分でもびっくりするくらい冷たい声が出た。

「ま、いいんじゃないの、誰が誰と仲良くても。、っん」

р、

「ははは。やはりティアットは可愛らしいな」

「何それ意味ぜんぜんわかんない」

「言葉通りだ、女の子らしくて実に結構なことじゃないか」

つの

何それますます意味わかんない。と、そう言い募ろうとしたところで、

「-うにゅ」

また別の方向で、もそりと気配が起きあがった。

夜闇を切り抜レたような小さなシルエットヵ子供用の即席ヘッドヵら起きあ

がる◦そして、ティアットの寝ている二段ベッドの下段——今はもう誰もいな

い、先日まではラキシュの場所だつたところへと近づいて、「といれ」と呼びか

けた。

寝ぼけているのだろう。

テイアットは小さくため息を吐くと布団の中から這い出し、ベッドの上段から

飛び降りた。音もなく着地。振り返るリイエルの頭の上に、ぽんと手を置く。

「トイレね、行きましょ」

「ん......てあつと?」

リイエルは、半分眠つたままの目をごしごしやると、

「あきしゆは?」

г……もう、いないから」

гん一」

ょくわかっていない顔でリイエルは小さくうなって、それからちっちゃな右手

を突き出してきた。連れていけということらしい。

テイアットはその要望に応え、手の中に温かな柔らかさを感じつつ、部屋を出

る。

廊下は明るかった◦地上の灯りではない◦窓の外、空を見上げると、大きな銀

色の月が真円に近い形で浮かんでいた。

-もう、いないから。

たった今放ったばかりの自分自身の言葉が、耳元に反響する。

そう。ラキシュはもういない。

自分たち三人がどんなに激しく戦おうと、どんなに強く願おうと、ラキシュの

幸せのためにできることなんて、今さら何ひとつない。

そんなことは分かっている。分かっているのに、それでも。

「てあつと、ないてる?」

г泣いてない」

目もとを軽くぬぐって、廊下を歩き出す。

3•総団長室

深夜、護翼軍に戻ったフエォドールは、まず、ラキシュ当人を見つけることは

できなかったと報告した。

そして、状況から判断して、市民の誰かに保護された可能性があると付け加え

た。

「捜索の難度は高いといぅことがわかりましたが、同時に、事態の緊急性は下

がったと判断し、報告に戻りました」

「一日二日放っておいても行き倒れにはならなそぅ、ってことね。妥当な結論

だ」

一位武官は頭をがりがりと搔いて、その報告を受け入れた。

「妥当過ぎる気もするがな」

フエォドールは内心だけで舌を打つ。この一位武官はのんびりとした気質の持

ち主に見えるが、決して鈍くない。慎重に組み立てたはずの報告の中から、わず

かな虚偽の気配をかぎ取ったらしい。

しかし、気配だけだ。確信に至っていないならば、いくらでもごまかせる。

「不安材料はもちろんぁりますが、現状の判断材料からは、この結論が自然か

と」

「まぁ、その通りなんだがな。これからどぅするつもりだ?一

「許可が頂ければ、明日以降に聞き込みを含めた捜索を続けようかと◦刺激しな

いよう慎重に進める必要が生まれましたから、多少の時間が必要と見ています」

「……ま、それも妥当なところだな。しようがない。他の仕事は別のやつにふつ

とくから、しばらく、そちらに集中してくれ」

ГТ1解です」

胸に手を当て、礼をする-と、フエオド^ —ルの視界が小さくかすんだ。

「っ……」

「ん、どうかした?」

「いえ、少し眩暈が」

軽く首を振る。

「勵きすぎか? 今日はもういいから、さつさと沐め」

それは違うと思った◦そこまで無理をした覚えはないし、逆にこの程度で調子

を崩すほど軟弱でもないつもりだ。だからこの異常は、別の何かのはずなのだ。

タィミング的に考えられる原因は、先ほどラキシュ相手に仕掛けた、堕鬼種の

『瞳』あたりだろうか◦今まで一度もまともに成功させたことのない力が、偶然

とはいえ、これ以上ないというほどうまく働いてしまつた。そのことが、自分の

体に何らかの負担を強いていた可能性は否定できない。

情けない話だと思う。他ならない自分自身の持つ能力であるはずなのに、それ

が自分にどうい、っ影響を及ぼすのかもわからないとは。

「ありがとうございます、そうします」

ラキシュのこともあるし、あまりゆつくりと休んではいられない。けれど、無

理をして倒れてしまってはそれこそ意味がない。

夜明けの前まで、少しくらいは仮眠をとろうと心に決めて、部屋を退出する

「失礼します!」

寸前に、目の前で扉が開いた。

血相を変えた馬頭種の上等兵が飛び込んでくると、

「ラィエル市北東地区で、中型建造物の倒壊が報告されました!」

Г......またか」

「またであります!中規模の爆発も観測されていたよぅで、地下施設の蒸気圧

力弁が限界を迎えていたものと予想されています!」

「それもまたか、だな」

一位武官が忌ま忌ましげにぅめくのも、当然ではあった◦ラィエル市は機械仕

掛けの街であり、ある程度の自己修繕機能こそ備えているものの、やはり人の手

れつb iうトハ

によるメンテナンスなしでは存続できない。そして、機械が劣化し崩壊するに合

わせ、それに頼って維持されていた街もまた失われていく。

毎日少しずつ、この街は削れていっている。

「市民への被害は?」

「未確認ですが、重傷者が出ている模様です◦ニルレロッド三位武官が救出と避

難誘導を始めていますので、事後になりますが許可を頂きたいと」

ナもの

「まあ、しようがないな。こいつも広義の〈獣〉の被害のうちだと言いはりゃ、

文句も来ないだろ、がんがんやっちまえ」

浮遊大陸群全体の存続のために存在している以上、護翼軍の活動には、多くの

制限がかかっている。特に特定の都市の利になるような動きは厳しく戒められて

いる。

「は、了解しました!」

馬頭種の上等兵が、早足に部屋を出ていく。

「......続きますね、こういう寧件」

「市内に腕のいい技師がもういないんだ、仕方がないだろう。どうにかしたいと

ころではあるが、さすがに市政の問題は我々が考えることではないしな」

「そう......ですね」

重いため息が重なる。

「では、僕も失礼します」

一礼し、今度こそ部屋を退出する。

扉が閉まる。

(ひとまず、これでよし)

表情に出さないまま、内心だけで胸をなで下ろす。

ひとまず一位武官はフヱオドールの報告を受け入れた◦多少の違和感は抱かれ

たかもしれないが、それだけならば問題ない。ラキシュの身はしばらく安全なは

ずだし、フエオド^ル_身もまだ自由に動くことができる。

わずかに気がゆるんだか、喉の奥から、大きなあくびが漏れ出した。

(……やっぱり、少し、寝よぅ)

口元を押さえ、目もとにわずかな涙をにじませて、フエオド^^ルは廊下を歩き

だす。

4•朝早く

ちよっとだけ、懐かしい夢をみた。

その夢の中のテイアットは、廊下の角に身を隠して、大好きな二人の背中を見

ていた。

黒髪の青年技官と、青空の色の髪の妖精兵。

二人は愛し合っていた—.......と、当時のテイアットは何の疑いもなく信じて

いた。黄金妖精には女性しかいない。そして、妖精倉庫という狭い世界で育って

いた当時のテイアットたちは、それまで恋愛というものを映像晶石の中の物語を

通してしか見たことがなかった。だから、寄り添うようでいて、微妙に距離を

とったあの二人の後ろ姿は、まるで映像晶石の中の光景を切り出して現実に持ち

込んだように思えていた。

『だから、なんで俺なんだよ。世間知らずのお前らは知らないかもだがな、世の

中、探せばいくらでもいい男はいるんだぞ?』

『いい男はいるかもしれないけど、きみは一人しかいないし』

『いや、だからなんで俺にこだわるんだよ』

『むしろそこは、わたしのほうが聞きたいんだけど。女の子の恋心を、そこらに

見つかるようないい男で簡単に取り換えが利くようなものだと思ってるわけ?』

『……臨機応変はどんな戦場にでも通用する大切な戦術でな?』

『追いつめられるとすぐ屁理屈でごまかそうとするの、よくないと思う』

ケンカをしているようにも見えた。

睦みあっているようにも見えた。

そのどちらでもなく、あるいはそのどちらでもあるような、二人にしか分から

ない何かの交感を行っているようにも見えた。

あれが、あれこそが、男女の恋愛といぅものなんだ——憧れとともに二人を見

つめているぅちに、幼いティアットの中には、そんな思い込みが宿っていた。

いつかは、自分たちも、もしかしたら。

あんな風に誰かのことを想って。想われて。寄り添いながら、ぶつかり合いな

がら、関係を築いていけたりするのかもしれない。

そんな風に……夢をみていたのだ。

「……無理だったなぁ」

目を覚ましてすぐに、あっはっはと笑いたくなった。

子供のころの夢は、純粋で単純で、そして身の程知らずなものだ。年を重ねて

世界と_分_身を知るにつれて、それがどれだけ無茶な願いなのかが少しずつ理

解できるようになってしまう。

ティアットは、憧れの先輩のようにはなれなかった。

大人っぽくもなれなかったし、兵器としての強さも身に付けられなかった。

だからたぶん、あんなふうな素敵な恋をすることだって無理に決まっているわ

けで。

(こういうことばっか考えてると、また恋愛脳とか言われちやうんだろうなあ)

あくびを嚙み殺しながら、部屋の中を見回す◦同室の妖精たちはみな、それぞ

れに独特の寝相を披露しながら寝こけている。

いつもなら誰よりも早起きのはずのコロンがまだ熟睡したままというのが少し

意外ではある。それだけ、寝付くまで時間がかかってしまったということなのだ

ろう。朝食までにはまだ時間があるし、このままにしておいてあげよう。

二度寝をするような気分でもなかった。こっそりベッドを抜け出して、ヵーテ

ンを閉めたまま着替えて、厚めの上着を羽織って、部屋を出た。

透明感のぁる冷たい空気が全身を包む。

雨は、夜のうちに止んでいたらしい。水場に向かい、顔を洗う。キンキンに冷

えた水を顔に叩きつけていると、目もとにへばりついていた眠気が洗い流されて

いく。

ぶは。顔を上げて、タオルに顔を突っ込んでわしわしわし。

「……ぁれ」

道の向こう、体練服に身を包んだまるっこい何かがジョギングしているのが見

える0

よく見ると、そのまるっこいものは被甲種だった◦そしてさらによく見ると、

それは護翼軍第五師団総団長だった。

被甲種は全身を堅牢な甲羅に包まれていて、手足は短い。ついでに言えば顔立

ちはどちらかというと暢気な感じがして可愛らしい◦つまり、全体的に見て、鈍

重そうな印象を与える姿をしている。

そんな被甲種が軽快に道を走るという一種異様な姿を、ティアットは生まれて

初めてその目で見ることとなった。

г……早起きって、するものなのね……」

自分の目が焦点を失っているのを自覚しつつ、ぼつり眩く。

そうこうしているうちに、その丸い体練服姿は目の前にまで近づいてきて、

「おはよう。どうかしたか、理解できないものを見たような顔をして」

「え。あ、いえ。おはようございます、別に何でもないです」

慌てて目を逸らした。

「ずいぶんと早いが、眠れなかったか?」

「それは......まあ、当たらずとも遠からずと言いますか、遠からずされど当たら

ずと言いますか、微妙なところでして……」

「なんだそりや」

水場で汲んだ水を派手に被り、火照った肌(というか甲羅)を冷やす。

「そうそう、どうせだから今言っちやうけど、ラキシュ上等相当兵はまだ見つ

かつてないとさ。長期戦になりそうだから根気よく攻めることになるそうだ」

「そ、っ......ですか......」

そんなところだろうな、と予相〖はしていた。

そして、コロンたちとの夜中の会話のせいか、落胆も……ほとんどせずに済ん

だ。

「あの。それと別に、いくつか、質問をさせていただいてよろしいでしよぅ

か?」

姿勢を正し、少し硬い声で、ティアットは尋ねる。

「......改まって聞いてくるってことは、軍属の上等相当兵としての質問か? そ

れとも、ティアットといぅ個人としての質問か?」

タオルで頭をわしわしやりながら、一位武官が問い返してくる。

「あ、えと」

少し悩む。

「どちらなのか、よくわかりません」

「そいつはまた厄介そうだな」

一位武官が振り返る◦どこからともなく煙草を取り出し、「いいかね?」と一

度尋ねてから、燐寸を擦って火をつける。

「言ってみろ」

「フェォドール•ジェスマン四位武官のことなんですが」

「ああ。あいつがどうした?」

「どうして軍人になったのか、ご存じですか?」

「そういう質問か」

ゆっくりと煙を吸って、吐く。

帯のょうに紫煙がたゆたい、そして溶けるょうに消える。

「むろん知ってる◦位官に任官する時に過去や思想の調査もしたしな◦だが、さ

すがにそのへんをぺらぺら喋るつもりはないぞ?」

「あいつ、本当は、浮遊大陸群を守るつもりなんてないんじやないですか? む

しろ、なんていうか、その逆の悪いこと考えてたりしてるんじやないですか?」

г......ほ一」

楽し気に、煙草の先端が小さく揺れる。

「どうしてそう^う?一

「本人力ら聞きました」

思い出す。

あの夜、〈十一番目の獣〉に吞まれかけた巨大戦略艇『ゥルティーヵ』のすぐ

傍らで、彼と交えた剣と言葉とを。

「この浮遊大陸群には、守られる価値のないものも多すぎるとか。そういうもの

まで命を捨てて守ろうっていうなら、君たちは自分の敵だ、とか」

「55,— ?. _

一位武官が、くりっとした目を見開く。

「それはまた、らしくもなく過激なことを言ったもんだな」

「あいつは……たぶん、致命的にねじくれてるだけで、すごくいいやつだと思う

んです。とことん意地が悪いだけで、優しいやつでもあると思うんです。めちゃ

くちゃ不真面目なだけで、誠実だし堅実でもあると思うんです、けど」

「あ一、わからんょうでょくわかる形容だな」深く頷き「続けて」

「どうして、あいつがわたしたちのことにそんなにこだわるのかが、わからない

んです。誰かのために命を遣って戦う、っていうのが気に入らないらしくて」

「そこを気に入ってない奴なら珍しくもないさ。ほとんどが、はっきり態度に出

さないだけでな。だがまぁ——確かにその件についちゃ、あいつは多少特別な立

場だし、感情的になる理由もわかる」

ティアットはごくりと唾を飲み込むと、

「その、理由というのは一体」

гん一……」

首を傾げ、たっぷり時間をとって悩む。

「どうしてそこまで知りたがる?」

「それは……」

今度はこちらが考える番だった。

知らなければいけない、ょうな気はしている。なにせあいつはこちらの事情を

色々と知ってしまったのだ。こちらも同じくらいには知っておかないと不公平だ

と^う。

いやしかし、これは、必要性を訴える理屈としてはいまいちだ。そもそも自分

たちは上等相当兵と四位武官、そしてまっとうな(?)堕鬼種と妖精兵◦不公平

なのは当たり前、公平を望むほうがおかしいという関係なのだから。

けれど、それでも知りたいと思えてしまうのは、どうしてなのか。

「不公平だから、です」

たくさん考えたのに、結局、それしか言葉が出てこなかった。

嘘も言えない◦自分の心もよくわからない。自分の頭と要領の悪さに泣きたく

なる。

「すみません、こんな理由じゃ、だめですよね」

「ん一、なるほどねえ」

一位武官は短い指を一本口元に立ててから、

「まあ、教えちやぅか。広まると色々と問題のあるアレだから、他には内緒で

な?」

「へ?」

「あいつの出身は、エルビス集商国だ」

-記憶力逆流する0

「エル……ピス……つて……」

「ついでに言えば、その義理の兄が、エルビス軍のお偉いさんでな◦例の事変の

際の首謀者つてことになつてた」

呼吸が止まる。

エルピス集商国。もちろん覚えている。忘れるなんてことはあるはずがない。

六年前、浮遊大陸群に〈十七種の獣〉を持ち込むといぅ最大級の愚行をやっての

けたところだ。当時のティアットは幼かったせいで細かい事情までは把握してい

なかったが、調整直後の成体妖精兵として、コリナディルーチェでの戦線に参加

した。

そして……今思い出しても胸が締め付けられるょうな戦いを、経験した。

「あいつの義兄は、それこそ命を張って、浮遊大陸群を変えょうとしたわけだ。

ちが

手段も立場も違うとはいえ、本質はおまえさんたちのやろうとしていることと大

差ない......となりゃ放つとけないわけさ、やつこさんは」

「それって」

からからに乾いた舌で、どうにか質問を口にする。

「危険人物ってことじゃ、ないですか。軍属にして、位官になんかしちゃって、

大丈夫だったんですか?」

「拒む理由にはならないさ◦そりや、義兄の遺志を継ぐとか言い出してたらさす

がに無理だよ? でも『義兄は間違ってた、その過ちを自分が正したい』『浮遊

大陸群の未来を良いものにしたい』って言って志願されちやあさ、どうしようも

なぃ」

それに実際あいつ、文句なしに有能だしねぇ……と一位武官は肩をすくめる。

ティアットは納得できない。

「そんなの、嘘に決まってるじやないですか!あいつ、堕鬼種なんですよР:」

「ま、そうだな。確かにあいつは、うまい嘘を吐く」

「だから!」

「だが同時に、あいつは、嘘の扱いがド下手だ」

どういう意味。

ティアットは一瞬黙り込む。一位武官は続ける。

「……根が素直なやつだからな、出来のいい虚言を吐いた時には、自分自身でそ

いつに振り回される。御しきれるょぅな噓に留めておこぅとすると、露骨に出来

が悪くて誰にも信じられない。

そんなあいつが吐いた言葉が、大陸群の未来を案じている。だったら、信じて

やろ/っつて気にもなるだろ/っ」

「それは……」

わかつている。フエォドールはいいやつだ。

一度は、ラキシュの恋人候補にいいかもなどと思ったくらいなのだ。彼の言葉

はともかく、心は信じてもいいと思つている。

けれど、それでも——あるいは、それだからこそ。彼の本心と、本当の望みが

何であるのかが、どうしてもひっかかる。

г......わかりました」

もちろん、その場はそう答えるしかなかったのだけど。

「これで、公平な立場にはなったか?」

「それは......ちょっと、わかりません、けど......でも」

「なんだ頼りないな」

「すみません、でも、いろいろとわかった気はして......います」

「そうか。だったらいいんだ」

うん、と一位武官は頷き、

「ま、上司に疑惑のタネがあるのは落ち着かないってのは分かるがな◦そのタネ

の面倒を見るのはさらに上司の仕事だ。おまえさんはこれまで通り、あいつとは

ケンヵを楽しんでいてくれ」

被甲種の顔には、まるでぬいぐるみのような愛嬌がある。そんなものに免じて

と言われても、いまいちピンとこないというか緊張感がないというか。

「楽しんでなんて、ないです」

反論の声にも、いまいち力が入らない。

頭の中がぐちゃぐちゃしている。

一位武官が去った後、もう一度、冷たい水で顔を洗ってみた◦けれど、心中の

もやもやは消えない。

г••••:エルビス集商国」

その名前を、もう一度舌の上で転がしてみる。

もちろん、フェオドール個人が悪いわけではない。けれど彼の傍には、忘れる

ことのできない特大の罪が転がっていた。そのことを、知ってしまった。

一人で考えを整理したいと思った。

自然と、足が護翼軍基地の外へと向かう◦初めてフヱォドールに会った場所、

見晴らしの良レ廃^^場上へと向力おうとレうのた。とりあえすティアットの知る

限り、あそこが一番考えごとに向いた場所だから。

г......ん?」

見慣れた後ろ姿を見つけた。

私服姿ではあったけれど、間違いない。フエォドールだ。

丁度いい、と思った◦あいつに聞きたいことは山ほどできたし、言ってやりた

いことだってある。ひっ捕まえて、眺めのいいところで質問攻めにしょうと思

、っ0

走り寄ろうとした。

違和感が、その足を止めた。

フエオドールの動きが、どこかおかしい。きよろきよろと、妙に人目を気にし

ているように見える◦加えて、急かされるような早足だ◦そして向かう先は、先

ほどまでのティアットと同じ——護翼軍基地の外だ。

「何あれ」

ラキシュを探しに行くのだろう。だから、外へ向かうということについては理

解できる。しかし、後の挙動不審はいったいどういう理由によるものなのか。

少しだけ迷った。

自分の髪をちよっとひっぱってみる。明るい緑色。たぶん、色の少ないあの街

中ではとても目立つたろう。上着のフ^~ドを力ぶって隠す。

そして、足音を忍ばせて走り出す。

「——きみがいけないんだからね。こんな時に、そんな怪しい動きするから」

フエォドールは勘が良い。近づくとすぐに気づかれてしまぅ。

だから、充分な距離をとり、物陰から物陰に身を隠しながら、後をつける。

その十分後。

街の込み入った地域に踏み込んだとたん、ティアットはあっさりと、フエォ

ド,ルを見失ってしまった。

5•偽りの赤

Г......ん?」

フエオドールは振り返る。

誰かが見ているような、いや、誰かに追われているような、そんな気がした。

けれど、改めて周囲を探ってみても、それらしいものの気配は感じられない。

「勘違いか」

気を取り直し、改めて歩き出す。

早朝である。

ギギルは味方だが、仲間と言えるほどの信頼関係を結んだ相手ではない。信頼

はしていいのかもしれないが、信用していいのかは分からない。そんな相手に預

けてしまったラキシュのことが心配で、落ち着いて仮眠がとれなかった◦だか

ら、太陽が昇るよりも早く目を覚まし、すぐに護翼軍基地を飛び出した。

(騷ぎにはなってないから、暴走とかはしてないんだろうけど……)

ひと晚経ったいま改めて考えてみても、危険な賭けをしているものだと思う。

だからといって、もちろん、今さら降りるつもりはないけれど。

少し、頭が重い。

(睡眠時間がとれなかっただけじゃなくて、夢見も悪かったしな……)

ぼんやりと、思い出す。見たこともない場所で、見たこともない誰かと、見た

ことのない剣で斬り合う夢だった気がする◦焦りとか、憎しみとか、悲しみと

か、そんな感じのネガティブな感情がいろいろと渦巻いていたょうな気もする。

気がする、というのは、細かいディテールをもう思い出せないからだ。夢とい

うやつはいつも、見ている最中には真に迫るリアリティを持っている。そのくせ

に、いざ目を覚ましてしまうと、あっという間に溶けて消えてしまう。そういう

アレだ。

とにかくそいつのせいで、爽やかな朝の目覚めが台無しにされてしまった。

「道ヲ•才探シデスヵ」

まゝ》J

そんなことを考えているうちに、知らず足を止めていたらしい。迷子とでも思

われたのか、観光案内用の自律人形に話しかけられてしまった。

「いや、大丈夫だょ」

軽く手を振って追い払う。自律人形は軽く頭を下げると、「ョィー日ヲ」など

と言い残しつつ路地を去っていった。この街が観光地としての価値を失ってだい

ぶ経つ。それでも彼らは、最初に与えられた役目を、今も守り続けている。

気を引き締めょう、と思う。

もう、危険な賭けは始まっているのだ。引き返すことはできないし、つまずく

ことも許されない。できることはただひとつ、ひたすら前に進むだけ。

自分の頰を軽く叩いてから、フエォドールは歩みを再開する。

赤ぃ。

それが、ラキシュの部屋に通されたフヱォドールが、最初に抱いた感想だっ

た。

半分麻痺した頭が、ゆっくりと状況を把握し始める。

この赤は、ドレスの色だ。

透き通るょぅに鮮やかな、ワィンレッド。

袖のない、大胆なデザィン。背中もやや大胆に開いている。それでも不思議

と、下品だという印象を感じない。裾には、赤い絹と白いレースを重ねたよう

な、可愛らしいフラゥンス。両腕には肘までの黒手袋、足には同じ色の長靴下。

総じて、なんというかこう、そう、目の毒だ。

「......あら、おはようフエオド-ル」

読みかけの本を閉じ、ドレス姿のその少女が、くるりとこちらを振り返った。

緋色の長い髪——これはゥィッグだろ、っ——が、ふわりと舞う。頰にかかった

そのひと房を、煩わし気に手で払う。

「ラキシュ......さん?」

「ええ、そうよ。№[の誰かに見える?」

「他の誰かにしか見えない」

複雑な気持ちで、フヱオドールはそう評した。

かざ

もともとラキシュは(というかあの四人全員に言えることだが)飾り気のある

娘ではなかった。軍服姿の時は言うに及ばず、私服もひどく純朴で……どちらか

とレうと野暮つたレ印象を与えるものたつた。

そんな彼女が、どこの貴族のお嬢様かという、洗練された装いをしている◦な

んというかこう、妖艷と言えなくもない雰囲気を醸し出したりもしている。

はっきり言って、別人にしか見えない。

「昨日の服じやあんまりだからって、ギギルさんが用意してくれたのよ。こ、っい

うのは似合わないからいいって言ったのに、聞いてくれなくて」

ふうと小さく頗を膨らませる。

「それで、あなたの目から見て、この格好はどう? おかしくないかしら?」

「......すごく似合ってる」

フエオドールはもともと、それなりに裕福で権力も持ち合わせた家の出であ

る。社交の舞台にはちょくちょく引っ張り出されていたし、この手の装いそのも

のについてはそれなりに見慣れていると言っていい。

そのフエオド^ルが、思う。

なんというか、こう、その、これも、とても新鮮で、良い。とても良い。う

ん。

「見た目の印象を変えるって意味では完璧な変装だと思う、うん」

「そうなの?なら、いいのだけど」

直視している気恥ずかしさに耐えかねて、目を逸らす。

そのついでに、辺りを見回してみる。

いい部屋だ......と思う。

もともとは、誰かの私室だった場所なのだろう。目を休める薄茶色の壁紙に、

iん一こな

ずいぶんと高価そうな木製の調度◦壁には大きな本棚が並び、クローゼットの上

には硝子製のヶースに入った飛空艇の——二世代ほど前の傑作巡航飛空艇『アン

ジエヴィン』の模型◦よく見れば、あの艇の最大の特徴である排熱孔の配置から

壁面の塗装まで、実に細かく再現されている。すごいなこれと感心しかけたとこ

ろで、今はそういう時ではないと思い直す。

窓は、高いところに採光と換気のためのものがひとつあるだけ◦壁の作りも

しっかりしていて、防音も期待できそうだ◦つまり、身を隠すための場所として

は申し分ない。

「ええと……何か不自由なことはない? 部屋が落ち着かないとか、食事が足り

ないとか、そういう......一

「また難しいことを聞くのね。少なくとも、ここの待遇に不足はないわ。ギギル

さんには本当に良くしてもらつてる。ちよつと退屈だけど、そこはしよぅがない

し」

「というと」

「不足があるのは、私自身の内側。一晚かけていろいろ思い出そぅとしてみたけ

ど、ヵタチがあるよぅな記憶はぜんぜんなの。代わりに、感情……っていぅか衝

動っていぅか、そぅいぅ曖昧なものばかりが沸き上がってきて」

こめかみに指を当て、ラキシュは言葉を探す。

以前の彼女にはなかった仕草だが、今の彼女には、不思議と似合ぅ。

「……長い夢をみて目覚めた後、みたいな感じかしら。大切な体験をしたはずな

のに、その内容を思い出せない◦けれど、その夢を通して感じていた気持ちだけ

は、不思議なくらいに胸に残ってる」

ばくん、とフエォドールの心臓が鳴った。

今のこのラキシュが思い出せる過去があるといぅなら、それは、本来のラキ

シュのものかもしれないのだから。

「ひとつめは、腹が立ってるの。ものすごく。護翼軍のことがどぅしても赦せな

А1つ

くて、そのためなら何もかもを壊してしまいたいくらい」

riぃな」

「そ、怖いの」

かた

肩をすくめる。

着ているもののせいか、その仕草がやけに上品に見える。

「あなた、昨日までの私のことを知ってるのょね。だったら分かる?私のこの

気持ちが、どこから来てるのか」

フエオドールは、自分の知るラキシュ•ニクス•セニオリスのことを思い出

す。

彼女は護翼軍に対して怒りを抱いてなどいなかった。あの穏やかな少女は、い

つだって、何に対してだって、しょうがないなあと許す側に立っていた。

г……いや。僕は、何も知らない」

その感情がラキシュの記憶でないなら、残る答えはひとつだけ。そのことには

当然気づいていたけれど、フエォドールは嘘を吐いた。

「そ、っ。••::しょうがないわね、気長に向き合っていくしかないかしら」

あまり深刻さの感じられない口調でそう言って、ラキシュはさりげなくフエォ

ド^—ルとの間合いを詰めてくる。

「思い出せる気持ちは、もうひとつあるのだけど」

何かを納得するようにつぶやく。

フエオドールは決して大柄なほうではないが、小柄なラキシュと比べるならば

充分に長身だ。二人の間の距離がなくなれば、当然、少女はこちらの顔を見上げ

ることになる。

「……触れてもいいかしら?」

「いや、何でさР:」

思わず、半歩退いてしまう。

「不思議なの。私の意志というより、この体が、あなたに近寄りたがってるみた

ぃ」

とんとん、と少女の指先が自身の胸を叩く。

「そばにいると落ち着くの。まるで、ひとつであるほうが自然みたいに」

まるで恋の告白のような台詞だが、少女の表情にそれらしい兆しは特にない。

これらの言葉は彼女にとって、自身で把握できていない不思議な現象という、文

字通りの意味のものでしかないのだ。

「ねぇ、昨日までの私たちの関係って、どんなものだったの?もしかして、互

いに発情し合うような感じだった?」

発情て。動物か。

何かにつけて顔を赤くして甘酸っぱい恋愛話にこじつけようとしていたあの純

真な少女が、ずいぶんとまぁ吹っ飛んだ方向に変わってしまったものだ。

「……いや、それはないよ。僕は徴無しの女の子に興味がないんだ」

「ああ、そうなのね」ラキシュはどこか寂し気に微笑む。「わかる気もするわ

ね。徴無しは、誰も彼もが破綻者ばかり。ろくな者がいないもの」

自身も徴の無い身だろうに、またどこかで聞いたょうなことを言う。

「で、改めて聞くけれど、触れてもいいかしら?」

「いや、だから何で!?:」

「言ったでしょう、あなたのそばにいると落ち着くから」

「いや、やめておいたほうがいい。君は忘れてしまったかもしれないけど、他人

と適切な距離を保つというのは人生においてとても大切なことなんだ」

思わず真顔になってしまう。

「屁理屈はいいから。記憶をなくして不安なかわいそうな子に、安らぎくらい与

えてやろうって気持ちにはならないの?」

「僕の知るラキシュさんは、そういう図々しいことは言わない子だったかなР:」

後ずさり。距離をとる。

違うんだ、と叫びたくなつた。

君のその気持ちは、恋でも愛でも発情でも、まして信頼の類のものですらな

、о

V

そばにいれば落ち着く◦ひとつであるほうが自然と感じる。それはただ、昨晚

に堕鬼種の持つ瞳の力がたまたまうまく働いたからだ。

瞳に捉えられたこの少女は今、フエォドールのことを、信頼できる親友だと思

い込まされている◦本来の彼女の記憶や経験、性格や性質などとは一切関係のな

い、異物としての心のかけら。

それが、彼女の抱く感情の謎の全てのはずだ。

その贋物の好意につけこむことは簡単だ◦今なら、フヱォドールが何を求めて

も、この少女は迷わず応えてくれるだろう。おそらくは、遥かな昔、堕鬼種の先

祖たちが人間種たちを惑わし、堕落させたように。ここにいるラキシュの心の

行方は、今、フヱオドールの手の中にある。

簡単だからこそ、思う。それだけは、決してしたくないと。

fT

「私の見立て、いかがでしたかナ?」

豚面種の表情は、本来、他の種族の者には分かりにくい。けれど、今のギギル

の顔がどういう類のものなのかは、豚面種ならぬ身のフエォドールにもよく分

かった。最高の仕事をやり遂げた者に特有の、満足の笑みだ。

「いずれ変装が必要になると判断しまして、用意させていただきまし夕。装いの

選択はこちらデ。我ながら良い仕事をしたものと自負していますガ」

「似合ってるのは認めるけどさ」

その一点については、うめくように頷くしかない。

「変装っていうのは、目立たないためにやるものだろ? あんなに、その、可愛

いっていうか、目を惹くような服装は逆効果なんじゃないの?」

「外出の要がある時には、別の服を用意しまス。今のあのドレスは、私の趣味で

す」

なんだ、それ。

「豚面種なのに、徴無しの娘の飾り方なんてよく分かったね」

「おや、ご存じなかったのですかナ? 我らは昔からそういうものなのですョ」

「どういうものさ」

「起源が鬼種に近いものであった、ということでス」

鬼種とは、遥かな古代に地上に栄えたあの「人間種」より派生して生まれた種

族であるとされている。

それらは全て、元々は、人間種の一族だった◦だが、悪意や習慣や呪いといっ

た原因で肉体ごと別の種族へと変わり果ててしまった。そして例外なく、元は同

族であったはずの人間たちに牙を剝き、怪物の一種として扱われていたのだと。

その誕生ゆえにか、鬼種に属する種族のほとんどは、人間種によく似た姿をし

ている……即ち徴無しだ。例えば、堕鬼種であるフエォドールがそうであるよう

こ0

「我ら豚面種の容姿は男女問わずにこのようなものではありますガ、古代には

人間種の雌を好んで娶つていた雄も少なくなかつたと言いまス」

じまん

身内自慢でもするように、どこか楽し気に言う。

「故にか、今も我ら豚面種の中には、可愛らしい徴無しの雌を好ましく思う者も

いるのですョ。まァ、あまり良い趣味だとは認められていませんがネ」

それはつまり、獣人種の女性のほうが好みだとフエォドールが標榜しているの

と、似たような系統の話なのだろうか。

だとすると、なるほど、肩身が狭い思いをしているのかもなと思う。

しようぞく

「ご希望の装束があるようでしたら、仕立てることもできますガ」

「いや、いいよ。というか、ずいぶんと楽しそうだね」

「それはもちろん◦めつたにない機会ですからナ、堪能させて頂いておりますと

腹を揺らして笑う。

「しばらく、ラキシュさんのことを任せることになると思う。大丈夫かな?」

「当然。我が微力を助けとして使えることを、嬉しく思つていますとモ。……あ

あ、それと、昨夜に話に出たもののことですガ」

ギギルが軽く手を叩く。

護衛の一人が無言のまま歩み出て、フヱオドールに黒い革袋を差し出してく

る。

「これは」

受け取らず、まず尋ねる。

「本職の金庫破りが使う小道具を、まとめてみまし夕。本格的な技術を修めなけ

れば扱えないようなものは省きましたが、ただの木箱を破るのであれば、これで

充分でしょゥ」

「......ああ」

確かに、そんなものを頼んでいた。『死せる黒瑪瑙』などと書かれたあの箱の

中身を引きずり出すための、本格的な装備。

「昨日の今日だっていうのに、ずいぶんと早いね」

「裏の商売においテ、仕入れの早さは大切な武器でありますからナ」

「頼もしいな、まつたく」

手を伸ばし、受け取る。

ずしりという確かな重み。内側の道具が動きこすれ合う感覚が指先に伝わる

が、音はまったく外に漏れださない。

袋を開き、中身を§認する◦錐◦鋏。糸状鋸◦金梃◦何か液体の入った瓶と、

何種類かの布きれ。その他あれこれ。

「特に扱いの難しいものは外しましたガ、用心のたメ、十日程度かけて手に馴染

ませてから使ってくださィ」

「ぃゃ」

首を振る。ギギルの言いたいことはもちろん理解しているし、その正しさに納

得もする。しかし、今のフエオド^ —ルは、そこまで悠長に構えていられない。

「他の仕込みは終わってるんだ。今日中にでも早速、使わせてもらぅょ」

6•べーコンとサラダとオレンジジユース

г......ぐぬぬぅ」

手負いの熊が唸るよぅな低い声を漏らし、ティアットはその場で足を踏み鳴ら

す0

「なんなのよこの街!ほんとなんなのよ!」

フエオドールの背中を見失い、それどころか帰り道すら分からなくなってし

まった◦勢い込んで始めた追跡劇だが、なんとも間の抜けた幕切れを迎えてし

まつたものだ。

ラィエル市の機械仕掛けの街並みは、他の都市に比べて、見通しも悪いし歩き

やすくもない。道は遠慮なく上下左右にまがりくねるし、梯子や油圧門を使わな

いと抜けられない通りもある。時折壁から吹き出す排蒸気が視界を遮ってくれた

りもする。そんなこんなの理由が並ぶ、とにかく、誰かの背中を追ぅには向いて

いない街だ。

それでもいちおう、彼が南東二番地区、いわゆる第二坑道開通記念館地区のぁ

る方向へ向かっていたことは分かった。

そして、それだけしか分からなかった。

「ふんがっ」

苛立ちのまま、近くの壁を殴りつける◦がごん、という派手な音とともに小さ

なへこみができる。予想以上の怪力◦どうやら無意識のまま、ちょっとだけ魔力

を熾してしまつていたらしい。

「……おなかすいたなぁ」

朝食も摂らずにここに来たという事実が、重くのしかかってくる。

急いで道を戻るか? いや、今からではたぶん食堂の閉まる時間に間に合わな

辺りを見回してみる。

当たり前のことながら、知らない景色だ◦あのこんちくしょうの背中を追うこ

とだけを考えて歩いているうちに、人気のない——これは街中どこへ行っても似

たょうなものではあるが——路地に入り込んでしまっていたらしい。

多少の不安はなくもない。治安と力悪力ったりするの力なあと思う気持ちもあ

る。もし強盗とかに襲われたら面倒くさいなあなどと考えたりもする。いやもち

ろん、今さらこんな寂れた街にそんなものが出てくるはずもないけれど。ついで

に、刃物やら火薬銃やらを持った程度の一般人に襲われたところで、なんとでも

できる自信はあるけれど......

「もしかして、リッタちやん?」

突然、ぽんと背後から肩を叩かれた。

«!ぃた。

「ひゃばっ!?:」

よくわからない悲鳴をあげて、軽くその場で飛び跳ねる。

ぐろおうぎゆぎゆぎゆおうおう。衝撃で、それまで沈黙を保てていた胃袋が、

名状しがたい音をたてて鳴る。「はうあ」と慌てて両腕で押さえ込んだものの、

飛び出てしまつた音はいまさら返らない。その上、今でもまだ、ぐるるると不満

げに隐り声をたてている。

振り返る。

びっくり顔の女性が立っている。

目立つところに徴はない。年は、自分よりもだいぶ上……そして、自分の知る

年上の女性たちよりもさらに少し上、二十代の後半といつたところだろうか。

明るい銀髪に深い紫色の瞳。初めて見る相手のはずだ……が、不思議と、そん

な気がしない。どこかで、よく似た雰囲気の誰かと会ったのだろうか。

「......ごごめんなさレ? 驚力せた力しら?」

戸惑いを表情に残したまま、疑問形で言われた。

「え、いや、その」

ティアット当人がうまいこと返す言葉を見つけるよりも早く、ぐろろろう、と

腹の虫が大声で返事をする。

五分ほどが経ち、ティアットの鼻は、おいしそうな匂いを嗅いでいる。

先ほどの場所からちよっとだけ歩いた場所にある小さなレストランの、窓際の

テ^~フルである。

「最近の私、朝はいつもこのお店なの。店長も、食材の流通が止まるまでは営業

するって言ってくれてるし」

「ふおお……」

思わず感動の声が漏れる。

こんがりべーコン、ふんわり焼き上げられた卵。よく冷えたしやきしやきのサ

ラダ。籠に盛られた焼きたてパン。宝石のように輝くマーマレード。

これを朝ごはんと呼ばずして、何を朝ごはんと呼ぶべきか。軍の食堂へ戻って

いたとしてもとうていお目にかかれるはずもなかった、最高級の、ザ•朝ごはん

である。

「お口に合うといいのだけど」

合うに決まってる。だって、こんなにいい匂いなのだから。

「さっきは本当にごめんなさい、知り合いの子かもしれないって勘違いしちやっ

「いえ、いえいえ! こちらこそなんていうか、みつともないところ見せてし

まって、本当にすみません」

ぺこぺこと頭を下げる。

女はくすくすと上品に笑い、

「とりあえず、驚かせてしまったお詫び。冷めないうちにいただきましょ?」

すごい。なんだか、振る舞いのひとつひとつに、大人って感じがする。

「あ、はい。すみません、ありがとうございます、いただきます」

ティアットにとっての大人の代名詞といえばクトリ先輩である。しかるに、目

の前のこの女性には、どことなく先輩とは違う意味での「大人っぽい何か」を感

じる。

何がそう感じさせているのか、具体的なところはわからないけれど。

「あの。さつき言つてた、リッタさんてひと」

べーコンを刻み、切り分けた卵と一緒に、パンに載せる。口に放り込む。

普通においしい。朝ごはんを食べているという実感が湧いてくる。

コロンとパニバルとリィエルに、心の中で謝っておく。自分一人でこんなにお

いしい思いをしてごめんなさい。

「間違えたってくらいだから、わたしと似てるんですか?」

「……わからないのよね。でも、きっと似てる」

「きつと?」

「もう何年も会ってないの。だから、私の知ってるあの子とは、だいぶ変わっ

ちやってると思うのよね。年はあなたより少し下くらいだから、背とかもずいぶ

ん伸びただろうし」

それは、なんというか、似てる似てないを論じる以前の問題ではないだろう

「ほら、その上着」

ちよいちよい、と指さされる。

「リッタちやんはね、生まれた家の都合とかがあって、外に出る時はいつもフー

ドつきの上着を手放さない子だったの。ずっと会えてなかったんだけど、最近に

なってこの街に来てるって話を聞いてたから。あなたの後ろ姿を見て、もしかし

てって思っちやって、ね」

どことなく寂しそうな士尸。

「なんだか、すみません......」

「ううん、勝手な勘違いをしたのは私◦あなたは何も悪くない。……それに、

誘っておいてなんだけど、あなたのほうこそよかったの? 誰か、ひとを探して

たんでしよう?」

あ一、まあ、いちおうそういうことではあるけれど。

「探してたというか、追いかけてたんですけど、いいんです。お姉さんに声をか

けられた時には、とつくに見失つてましたし」

「……男の子?」

「あ、はい」

riA??」

「ぃえ」

頭が何を考えるよりも先に、全身が反射的にそう答えていた。

「大嫌いなやつです。あいつからも嫌われてます」

力強く、言い切る。

「そこまで?一

г••••:だって、やなやつ、なんです」

これは言うべきではないことかな、とも思った。相手は一位武官とは違うの

だ。

けれど、なぜか、言いたくなった◦自分ともフエォドールとも関係のない誰か

に、事情を聞いてほしいと思った。だから、軍だとか妖精だとか兵器だとかと

いった部分を全て伏せて、簡単に事情を説明した。

いわく、ちよっと大変な仕事があって、誰かがやらないといけなくて、それを

自分たちがやることが決まっていた。時間をかけて、受け入れた。

「それがあいつは気に入らないみたいで。やめろって言うんです。いやだって

言ったら、今度は、邪魔をしてやるって言うんですよ」

「ふうん」

女はパンにマーマレードをちよいと載せながら、

「愛されてるじやない」

んぐ。

パンが喉に詰まった。

「あ、愛とかじゃないです、なんか変なふうに意地はってるだけです」

「そうかしら。あなたたち自身を敵に回してでも、あなたたちを守ってやりた

いってことでしょ? いいわねぇ、不器用でまっすぐで、いかにもオトコノコの

セーシュンって感じ。甘酸っぱいわねぇ」

そういうのじゃないのだ。さっきの説明ではわかりにくかったかもしれないけ

れど、そういう、なんかこう美しい感じの話とは違うはずなのだ。

「でも、そんな意地のために、あいつ自身が色々と、いらないものを背負おうと

してて」

「それ。きっと、その男の子のほうも、あなたに同じこと言ってるんじゃないか

しら?」

「図星?」

はい。唇を#みながら頷く。

「両想いじやないの。やっぱり甘酸っぱいわぁ」

「でも、本当にそういうのじや、なくて」

否定の声にも、力が入らない。

女は両の人差し指を立てると、楽し気に指先を触れあわせ、

「真正面からぶつかるっていうのはね、二人の気持ちがお互いに向いてるから。

どっちか片方でも違う方向を向いていたら、あなたたちみたいな関係にはならな

いはずだもの」

「そう......いうもの、なんですか?」

「そうそう◦こう見えても、ひとのこころの専門家なの◦信用してもらつていい

わよ?」

「専門家つて......学者さんなんですか? それとも、お医者さん?」

「ん、んん一、そういうのより、もうちよつと実地的な感じなんだ、け、ど

女の言葉が途中で止まった。

視線が、店の外、路地の向こぅに向けられている。

「——ごめんなさい、私、行かないといけないみたい」

「ふぇ」

サラダをもぐもぐしている最中だったので、ぅまく返事ができなかった。

「急用を見つけちゃったの。支払いは済ませておくから、ゆっくりしていって

「ふえ、ふえ、ふえ一

「それじゃ......あの子のこと、よろしくね」

ティアットが何を言う暇もない。女はさつと立ち上がると、そのまま店主のと

ころに向かい、ひとことふたこと話してからブラダル紙幣を渡し、そのまま店を

出ていつた。

机の上に視線を戻すと、いつの間にやら、女の皿はきれいに空になっていた。

ごくん。口の中のものを飲み下す。

「行っちゃった」

ある意味、風のような人だったと思った。突然に現れて、突然に去ってい

た。

食事のお礼も、言いそびれてしまった。

そういえば名前も聞き忘れていたし、自分も名乗り忘れていた。そんなこと

を、手後れになった今になってから気づいたりする。

t

フエォドールと自分が、両想い。

改めて、突拍子もない話だと思った。いくらなんでも悪趣味な話だと思った。

けれど確かに、納得できる部分もあるなとも思った。好きとか嫌いとかそうい

う系列の感情はさておいて、自分たちは間違いなく、正面から互いに向き合って

いる。

どうしてなんだろう、と思う。

あの廃劇場の上の出会いを思い出す◦自分たち黄金妖精四人が、死を前提とす

る任務を帯びて、この浮遊島にやってきた直後のことだ。

気まぐれを起こしてラキシュたち他の三人と別れ、一人きりで街を彷徨って、

あの場所を見つけた。これから自分たちが命と引き換えに救うことになる街を、

高いところから眺めてみょうと思った。その意味では、あそこはとても良い場所

だった。静かな街並みを、あの時点でもう死にかけていたライエル市を、確かに

眼下に見渡した。寂しさとも口惜しさとも違う灰色の感情が、テイアットの中を

満たしていた。

そんな時に、あの少年が現れたのだ。

——危ないょ。

どこか間の抜けたその言葉が、テイアットの独りきりだった世界を壊した。

灰色に染まり切っていた景色が、その瞬間に、わずかに色を取り戻した。

あの時の気分は、今でも思い出せる◦死を覚悟し、半分死者のようなつもりで

いたというのに、現実に引き戻された。たわいのない話をして、ちよっとだけド

ジな姿を見せてしまつたりした◦自分はまだ生きているのだということを思い出

させられた。

ただそれだけのことに、実際、自分はずいぶんと救われていたように思う。

その後のことを思い出しても、彼との思い出は、いつも新鮮な体験に彩られて

いた。ああいう男の子と身近に過ごす時間なんてものは、——そもそも同年代の

男性というものに触れたこと自体もだが——初めてだった。

ああ——そうだ。

ティアット•シバ•ィグナレオにとっての彼は、色々な初めてを一緒に体験し

た相手なのだ。初めて本音をぶつけ合った相手であり、初めてケンヵをした男の

子であり、初めて本音を見抜かれた相手であり、初めて本気で剣を交えた相手で

あり、どうしようもなく気になる相手であり、どうしようもなく気にしてくるや

つでもあって-

だから。

もしも_分が初めて恋をすることがあるなら、その相手は、きつと。

「……ぃゃぃゃぃゃ」

だから、どうしてそうなるのだ。

違うだろう。自分と彼は、そういうのじゃないだろう。と、

.......あの子のこと、よろしくね。

去り際に聞いたその言葉のことを、ふと思い出す。

何の話だろう。そして、誰のことだろう。

彼女が親し気に「あの子」と呼ぶということは、やはり、話に出たリッタさん

とやらのことだろうか。しかし自分はそんな子には会つたこともないはずだし、

ょろしくと言われても何もできはしない。

ならば、自分が話題に出したフエォドールのことか。いやいやこれこそありえ

ない。だいたいそんな話は、さっきの会話の最中、一度も出てこなかったわけ

で。

г......ん丨......ん?」

フエォドールは、銀髪紫眼だ。

そして、先ほどの女性もそうだった。

もしかしたら何かの関係があるのかも、などといぅ考えが一度頭に浮かんだけ

れど、

「まさかね」

あははと笑つて、忘れることにした。

7.死せる_ッ聪%卜

やはり、夜を待つのがセオリーだろぅかとは思った。

しかし、零番機密倉庫の警備状況は一日を通して変わらない◦場所が地下であ

る以上、陽光が邪魔になることもない◦ならば、昼夜を選ぶことの意味はない。

だから。

うららかに太陽の輝く昼下がり。

フエォドールは改めて、護翼軍最奥、塩漬け樽に挑む。

二度目となれば慣れたものだ……などということはまったくなく、部屋に入り

扉を閉めた瞬間に、フエォドールは全身の力が抜けるょうな錯覚をまた味わっ

た。

ふだん立ち入る者の誰一人いないその場所は、見たところ、昨晩と何も変わっ

ていない。暗くて、埃っぽくて、ところ狭しと超危険物の箱が置かれている。

最低限の光量の灯りを放ってから、薄闇に目を慣らす。

記憶を探り、『死せる黒瑪瑙』の箱の場所へ至る。触れる。

(さて、と)

■こん

手順を頭の中で確認する。

この木箱そのものは、さほど頑丈に見えない。もちろん脆いというほどではな

いのだが、〈獣〉という未曾有の危険物を収めるためのものとしては不自然だ。

ということは、おそらくこの木箱の中で、さらに別の容器に密封されているはず

だ。鋼鉄か何かの、もう少し厳重で頑丈で、それっぽいものだ。

なので、まずは、木箱の側面の目立たないところに、小さ目の穴を開ける。

その穴から灯晶石を差し入れて中身の大きさと形状を確認。

もし横から引つ張り出せそうだつたなら、穴をそのまま大きく広げて……

(......ん?)

気づいた。乏しい光に照らし出される中、木箱の上部、蓋になつているところ

に切れ目のようなもの力ある。

手のひらをふたつ広げたくらいの大きさの、小窓がある。

(窓?)

奇妙だな、と思う。

危険物を収めた箱に、なぜそんなものが必要なのか。Щき穴をわざわざ作って

まで確認しなければならない何かが、ここから見えるとでもいうのか。

違和感はあったが、とりあえず都合はいい。

仕掛けの類はないかと神経を遣いつつ、ゆっくりと小窓を開く。

中身を靦き込む。

目が合ったような気がした。

「........................ッр:」

叫びそぅになった。口元に手を当てて、なんとか堪えた。

ひどい眩暈に襲われ、その場に倒れそぅになった。

(なん……だょ、これ……)

わけがわからない。

フェォドールの予想では、この箱の中身は、沈黙した大賢者の遺産のはずだっ

た。そしてそれは、五年前にコリナディルーチェ市で討伐された……殺された

〈月に嘆く最初の獣〉の骸のはずだったのだ。

フェォドールは〈最初の獣〉の外見を知らない。だが、いくつかの別の〈獣〉

については手当たり次第に調べ尽くした。エルビスの研究成果の一部と護翼軍の

戦闘記録。〈二番目〉〈三番目〉〈四番目〉〈五番目〉〈六番目〉〈十一番目〉

——歴史上存在が確認され、記録に残されたほぼ全ての〈獣〉について最低限の

知識を持っているという、自負があった。

だから、自覚しないままに、思い込んでいた。他の〈獣〉はこういう怪物だっ

た、だから〈最初の獣〉もおそらくは似たょうな異形なのだろう、と。

なのに。

今、この目で確かめた、この箱の中身は。

フエォドールの想像の中にあった〈獣〉などとは遠くかけ離れていて。

こんなもの力〈獣〉であるなととはとても信じられるはす力なくて。

なぜなら、それは-

「見ちゃった?」

——振り返る。

いつの間にか、また、入り口の扉が開いていた。

背筋に冷たいものが走る。何の音も聞こえなかったし、気配も感じなかった。

どぅして。

答えの見えない疑問が追加され、フェォドールの混乱に拍車をかけた。

「ぁ.......」

扉の傍に立つその丸っこいシルエットは、懐から煙草を取り出すと、口元にく

わえる。燐寸を壁でこすり、火をつける。

「複雑な気分だな◦こんなところにまで忍び込んでみせた手腕と行動力は褒めて

,ハつゝ I/ J(7)

やりたいし、やってのけたのがゥチの可愛い部下だってのはなんとも頼もしいん

だが……」

とぼけたょぅな声に混じって、かすかな紫煙がたなびく。

この部屋に火気を持ち込んでいいのだろうか、と的の外れた疑問が浮かぶ。

みのが

「やつてることもやろうとしてることも、さすがに見逃せんな」

「一位武官」

乾いた声で、尋ねる。

「どうして、ここに?」

「どうしてつてそりゃあ、おまえさんがここにいるからだろう、フエオド^ル.

ジェスマン四位武官」

「そういう意味じゃありません」

「そういう意味なんだよ」

一歩、一位武官が進み出る。

一歩、フェオド^ —ルは後ずさる。

「朝にも、いちおう追跡をつけてたんだがな。あっさりとおまえさんの背中を見

失いやがった。こりゃ簡単には尻尾を捕ませてはくれんぞと構えていたんだ

が……まさかその日のうちに、ここまで大胆な手に出るとはな」

街中で背後に感じていた気配は、そういうことだったか。あと一歩でギギルの

店にまで行き着かれていたのだと考えると、ぞっとする。

「僕、何か、疑われるょうなミスをしましたっけ」

必死になって、自分のこれまでの行いを振り返る◦しかし、失敗らしい失敗を

思い出せない。どうして一位武官がこんな場所にいるのか、納得できる説明が見

つからない。

「そりゃあ、したさ。おまえさんらしくもない、致命的なやつをな」

のんびりとした、しかしどこか硬い声。

「だから、おれがここにいるんだ」

「でも、僕は何も……」

「昨夜のことは覚えてるか? 『建物の倒壊が起きた』『爆発が原因と推定され

る』......この報告を聞いて、おまえはさほど興味を示さなかったな?」

「——あ——」

気づいた。

「レつものことた^!^^よぅなことじやなレそんな顔をして聞き^した」

確かに、そんなことは、ありえないはずなのだ。なぜならあの時、自分は、ラ

キシュの行方を突き止められなかったと報告したばかりなのだから。そして、市

内のどこかに潜伏しているはずだといぅ予想を告げたばかりなのだから。

妖精兵は、火薬や蒸気圧の爆発と遜色のない、大きな破壊の原因となれる。

「原因が特定されていない爆発◦おまえさんなら当然、ラキシュ上等相当兵のこ

とを連想できていたはずだ。なのにまったく動じないってのは、彼女の行方と安

全を確認済みでなければ出てこないはずの反応だ。違うか?」

どうしようもないほど初歩的な、演技ミス。

その程度のことに、今の今まで、気がつかなかった。

「……連想するほど頭が回ってなかっただけ、かもしれないじやないですか」

「他の連中なら、万が一、その可能性もありえたかもしれんがな◦フェォドー

ル•ジェスマン四位武官に限って、その手のミスはありえんよ」

くるるる。喉を鳴らし、被甲種は寂しげに笑う。

「若くして位官に駆け上がり、これから先も順調に出世していくのが見えてい

た、第五師団期待の若手だぞ? 一位武官が引退するまでこの世界と護翼軍が

残ってりや、椅子を譲る相手はおまえさんだっただろうよ」

「一位武官……」

「そういう未来、けっこう本気で夢みてたんだぜ、おれは」

返す言葉が、浮かばない。

目もとに、熱を感じた。

周囲の暗闇とはまったく関係なく、視界が歪んだ。

「申し訳、ありません」

かろうじて、それだけを口にする。

「何の話だ」

「あなたの信頼を裏切ってしまいました」

「あ、そこについちや、謝らなくてもいい。おまえさんは、おれに、

偽っちやいない」

「は?」

「浮遊大陸群の将来を本気で考えて、義兄の過ちを正すことを本気で試みて、そ

の手段として護翼軍に入って、その過程として護翼軍を裏切った。おまえさんは

どこも歪んじやいないし、恥じるよぅなこともしてない。

その道がここで閉ざされるってのは、確かに寂しい話だがな」

「——っ」

もぅそれ以上、言葉は思い浮かばなかった。

フエオドールは駆けた。この機密倉庫には出入り口がひとつしかない。そこを

一位武官が塞いでいる以上、突き倒すなり隣をすり抜けるなりをして突破しない

ことには、脱出が叶わない。

重量感のある被甲種の体格が、まるで巨大な壁のょうに見える。

(それでも、僕ならば抜けられるはずだ-)

練達の戦士というものは、相手の重心、目線、歩幅などなどを通して、常に相

手のわずか未来の姿を見据えているものだ◦だから、それらの情報に嘘が混じれ

ば、どうしょうもなく動きが狂う◦そういった、相手の洞察力を逆手にとる戦い

方に関して、堕鬼種は——あるいはフエォドールという個人は、間違いなく秀で

ている。

姿勢を低くし被甲種の左の足元を転がり抜けるょうにして突破する、と見せか

けてその逆、右の肩に足をかけて飛び越える……というこの動きもまた噓。左右

のどちらかに意識を振らせておいて、正面からの体当たりが本命。体格に差はあ

きよ くず

るが、虚をつくことさえできれば体勢を崩すことくらいはできるはずと、

しよぅげき

i&T/bg:、

福車与

肺の中の空気が、胃液や唾液とともに、まとめて吐き出された。

全身が硬直する。

視界が真っ白に染まる。

何が起きたのかが分からない。分からないまま、結果を受け入れるしかない。

「_分自身の癖には、案外、気付けないもんだ」

寂しげに耳元で囁くその声だけが、はっきりと聞こえた。

「いろいろと搦め手を好みはするが、本気の勝負手は常に、真正面からの正攻

法。そこまで見えてりゃ、フェィントなんて何の役にもたたんよ」

正面から、心臓の上を正確に打ち抜かれたのだと、ようやく気づいた。呼吸が

止まり血流が乱れ、意識すらもが否応もなく薄れていく。

「おまえさんの夢は、ここまでだ」

もう一度、今度は側頭部に、重い衝撃。

抗いようもなく、フエオドールの意識はそこで閉じた。

1•機械仕掛けで強かった女

森の中、細い道に入つて少し歩いたところに、その施設はある。

年季の入った木造建築。

部屋数は相当に多い。見る者に与える第一印象は、アバートか寮舎といったと

ころだろう……そしてその印象は、実情からそう遠く離れていない。

「ごめんくださ^~い、郵便で^~す」

敷地に入る少し手前に立ち、鳩翼人の男が声をあげている。

紺色の制服に、ペンと矢の意匠の縫い取られた腕章。それらは、浮遊大陸群各

地を繫ぐ最大の連絡網、郵便公社の配達人であるという証だ。

「責任者の方、いらっしやいますか一」

「は一いちょつと待つてくたさ-—い」

返事から少し遅れ、ぱたぱたといぅスリッパの音が近づいてくる◦やがて廊下

の向こぅから、エプロンをたくしあげた長身の女性——徴無しだ——が姿を現

す。年は二十か、それを少し過ぎた頃と見える◦長く伸ばした淡い赤毛が、ふわ

ふわと風に揺れていた。

「お待たせしてごめんなさい。でも、構わずそこの郵便箱に入れてもかまわな

かったんですょ?」

「いえ、羽印の書簡ですので」

柔らかく微笑んでいた女性の表情が、わずかに硬くなる。

配達人が差し出す封筒には、確かに、鳥の羽を象った印璽が刻印されている。

それは護翼軍が外部の組織に向けて送った公的な書状の証である。つまりこれ

は、確実に届けられなければならない、重要書類ということ。

「受け取りの証を頂けますか?」

「あ、はい、少々お待ちください」

女性はエプロンのポケットを探り、印を取り出すと、配達員の差し出してきた

書類に捺す◦秤と心臓を模した、オルランドリ商会の簡易会章。配達員は目を細

めてその形を確認すると、「確かに」と小さく頷く。

ばさりという羽音を残して、配達員が空へと去る。

女性の指先が、乱暴に封蠟を砕いた。

封筒に指を差し入れ、中の紙片を引き出して、そこで動きが止まる。»'躍とい

うより恐怖にも似た視線で紙片を睨みつけたまま、動けなくなる。

深呼吸。

意を決して、紙片を開く。

目を通す。

しばしの沈黙を経由して、女性の目もとに、涙があふれ出した。足から力が抜

け、近くの壁に背をもたれる◦深くうつむいて、熱い雫が胸元を濡らすに任せ

る。

「ラキシュ……そう、あなたが最初に、自分を遣ったのね……」

小さく、一人の少女の名を眩く。

「だめね、私。こ、っいうこともあるはずって、覚悟、ちゃんと済ませてたはずな

のに。久しぶりすぎて、、っまくできてなかったみたい」

弁明するように、誰かに共感と同調を求めるように、言葉を続ける。

女性の隣には誰もいない。だから、いかなる返事もこない。この場に一人、誰

かを慰めることも慰められることもなく、立ち尽くしていることしかできない

「お-—い、ナィグラ-卜-、どこだ• 」

びぐんっ、と肩が跳ねた。

小さな足音が、廊下を近づいてくる◦この場所にたどり着くまで、ほとんど時

間がない◦慌てて姿勢を正し、袖で目もとをぬぐい、深く息を吸って呼吸を強引

に鎮める。

「ぁ一いたいた」

к一髪。なんとか、平静を装えた。

「胡椒切れたんでさ、そこまで買いに行ってくる。すぐ戻ってくっから」

女性の苦労に気づいた風もなく (もちろん気づかれては困るが)ぶっきらぼう

にそう言って、十歳ほどの子供が一人——少年めいた言葉遣いだが体つきはかろ

うじて少女のそれだ-女性のすぐ隣を抜け、外に出る。

г......ユーディア」

「ん一?」

名前を呼ぶと、少女の背中が応えてくる。

「その……最近体の調子とか、大丈夫?だるくなったりとか、してない?」

「おう、心配ご無用の絶好調」

くい、と力こぶを作る仕草。

「んじや、行ってくる」

片足で跳ねて靴のかかとを直してから、少女は走り出した。

一見して、その姿には何の陰りも見えない。

しかし、この女性は知っている。あの少女はすでに、特別な夢をみているとい

うこと。その夢は妖精たちにとって、子供時代の終わりを告げるものなのだとい

うこと◦そして、幼い子供の魂が迷い出ている存在である妖精は、その身が大人

になる前に消えてなくなつてしまうはずだということ。おそらくあの少女の時間

は、あと半年も残つていないだろうということ。

その結末を多少なりと先延ばしにするためには、専門の施設へ行って、特別な

処置を行わなければならない。しかし、今の護翼軍は、その許可を出さない。絶

対の侵略者であった〈六番目の獣〉の脅威が遠くなったからと、成体妖精兵とい

う戦力を平時から維持する必要性を、認めていない。

「テイアット:::コロン:::パニバル:::」

仲良し四人組の、残った三人の名をつぶやく。

〈六番目の獣〉との戦い以外でも成体妖精兵が役に立つのだということを示した

い。〈十一番目の獣〉との戦場で自分たちが命を捨てればそれがかなうはず。護

翼軍の上のほうから与えられたその機会を逃したくない。

そんなことを言いながら、あの少女たちは38番浮遊島に向かった。最後まで反

対していたナイグラートの制止を振り切って。飛空艇に乗って、行ってしまっ

た。

その計画の通り彼女たちが犠牲になれば、ユーディアは……そして他の幼い妖

精たちも、助かるかもしれない◦あるいはそれこそが、最も多くの希望に満ちた

未来だということになるのかもしれない。けれど。

г j......く......」

子供たちには、泣き顔は見せられない。泣き声だって聞かせたくない。だから

感情のすべてを胸の奥にしまって、鍵をかける。

ユーディァの背中が、遠ざかっていく。

女性は——この施設の管理役の一人である喰人鬼は、その背中を、ぐしゃぐ

しゃに崩れた顔で、黙って見送った。

2•ティアット

39番浮遊島の〈十一番目の獣〉との決戦まで、あと二月あまり◦戦いの準備

は、少しずつだが、進んでいる。

耳をつんざくょぅな爆音。

少し遅れて、彼方の岩壁に大穴が開く。盛大な土煙、爆風、そして轟音。

「着弾確認、火の8の26の5!」

「確認、火の8の26の5!」

たったいま火を噴いたばかりの大型大砲から少し離れたところ、それぞれの耳

から栓を引っこ抜いた技官たちが、何やら小難しい数字をつきつけ合っている。

あちこちの浮遊島から集められた様々な火薬兵器の動作確認を行っているの

だ。

ここ数年の浮遊大陸群はおおむね平和で、護翼軍所有の火薬砲はほとんど出番

がなかった◦むろん手入れなどは定期的にされていたのだろぅが、それでも久し

ぶりの実戦の前には本格的な調整が必要になる。

「うひゃあ......やっぱ効くなあ......」

全#を走り抜ける衝撃に、テイアットは、楽し気に目を回している。

充分な距離はとっていたし、耳も塞いでいた。なのに、全身に叩きつけられた

音の衝撃だけで、まるで高いところから地面に叩きつけられたかのような痺れを

感じている。

かつて〈六番目の獣〉との戦いにおいて、黄金妖精たちとともに前線に立った

爬虫種の戦士たちが、こ、っいった大口径の火薬砲を武器にしていたのだ。テイ

アット自身はその戦場に立ったことはないが、成体妖精兵として何度か試射の場

に立ち会わせてもらったことがあった。あの時には、この轟音が、テイアットが

正式に大人の戦士となったことへの祝砲のように聞こえていたものだったが。

「さすがに、地面に置いて撃つんだなあ……」

当たり前である。

このつぶやきをもし周囲の兵士の誰かが聞きとめていたならば、目を丸くする

か、あるいは無知を笑うかのどちらかだっただろう。火薬砲を放てば、砲台自体

を杭で大地に固定しないと安定しないほどの反動が生まれる。それを生身で支え

切るなどということは、常識的に考えて、並の者には不可能なのだから。

ただし、並ではない非常識な筋力を持つ者がいれば、もちろん話は変わってく

る。

「ラィムスキンさん、いまごろ何してるのかなあ……」

並ではない非常識な存在の一人、ここにいない護翼軍第二師団の長の名をつぶ

やく 0

彼は今、自分たちとは違う意味で、厄介な戦場に身を置いている。詳しいこと

は聞かされなかつた、というか説明されてもよくわからなかつたけれど、妖精倉

庫を含めた護翼軍全体の未来のために今も奮戦しているはずだ。

火薬砲、もう一発。

「くう一つ」

頼もしい轟音を聞いて、目を回す。

むろん、どれだけ高威力の火薬砲を集めたところで、この戦場において役立て

られるとは限らない。なにせ相手は触れたものことごとくを同化する〈十一番

目の獣〉だ。手持ちの全弾を叩きこんだところで、毛ほどの被害も与えられない

——どころか、撃ち込んだ砲弾の全てを黒色の水晶に変えられて、当の〈獣〉を

太らせるだけに終わるだろう。

だから、今回の戦闘の目標は「38番および39番の両浮遊島の接触を回避するこ

と」と設定されている。

「〈十一番目の獣〉は、妖精郷の門を開けば倒せる◦あの大きな〈獣〉を島ごと

消すよぅなことはさすがに無理だけど、この38番浮遊島に接触する部分だけでも

消せれば、目的は達せられる……」

<獣〉そのものと化したあの島がこの38番浮遊島に接触し、侵食を始める……そ

の事態さえ防げれば、ひとまず目の前の脅威はしのげるのだ。

今後も39番浮遊島はこの空に在り続け、いつの日かまたどこかの浮遊島を脅か

すことになるかもしれないが、それはその時になつて改めて考えればよいこと。

今を生きる者にとつて最も重要なのは、まず今日と明日を生き延びることなのだ

から。

「……わたし一人の開門でそこまでできたら最高かな? コロンとパニバルは無

事に帰れるし、ラキシュもきっと大丈夫だし、妖精兵は使えるって軍の上のひと

たちにもわ力つてもらえるたろうし......」

そんな、虫のいいことを考えてみたりもする。

もちろん、そんなことはまずありえないだろうと思う。

テイアットは、自分の気質が小規模に熾した魔力を小器用に使いこなすほうに

向いていることを——そして逆に、大きく熾した魔力を派手に振るうような方向

に向いていないことを、よく思い知っている。こんな自分が限界を超えて力を熾

ちと

したところで、ラキシュはもちろん、コロンたちにも大きく劣る威力しか出せな

いだろ、っ。

勝利を買うためのコインとして、テイアットー人の命は、安すぎた。

「魔力を使った攻撃ならば効くってことなら、普通に遺跡兵装でぶったたいても

壊れてくれるのかもしれないけど......それでィグナレオまで取り込まれちやった

ら本格的にどうしようもないしなあ......」

「こら」

頭をはたかれた。

「また何か、バカなことを考えてる顔だ」

怒ったような顔をしたコロンが、いつの間にやらすぐそばに立つていた。

昨日の今日ではあるが、それなりに元気になったように見える◦それが空元気

でしかないとしても、暗く沈んでいるだけよりはずつといい。

「……バカなことじやないよ。まじめに前向きな話。あれ、わたしたちが剣で

斬ったら効くんじやないかなって」

「ん?効くのか?」

「わかんない。けど、〈十一番目〉相手に、魔力を通した状態の遺跡兵装で挑ん

だ前例はないわけでしょ。リスクはあるけど、うまくいけば、きみたちが門を開

かなくても戦えるょうになる。わたしが試してみる価値はあると思う」

「ん? ん一......」

コロンは少し考えて、

「いま、さりげなく、試しにいくのは自分だって言ったか?」

「あ一、それはほら、言い出したひとが行くのは世の常だし、一番もったいなく

ないものから使い潰すのはやりくりの基本だしで」

「ばかもの^^ !」

するり、とコロンの腕が伸びる◦反応が間に合わない。肩に指先を感じた次の

瞬間には、なぜか天地がまるごとひっくり返っていた◦肩は地面に、尻は天に。

逆さまの姿勢で手足を複雑な形に極められていて、まったく身動きがとれない。

青い空を、名前も知らない白い鳥が横切ってゆく。

「いたたたたた!?: コロンこれすごく痛いよ!?:」

「世界をとるための、新ワザだ!」

「どこの世界か知らないけど、わたしに極めてもどこの頂点にも近づけないか

ら!」

またあの火薬砲の爆音が響き渡った。

全身に叩きつけられるよぅな、音の一撃◦コロンが「、っひやあ」と悲鳴をあげ

る——その隙に、ティアットはなんとか縛めから脱出する。

そのまま二人で、ぐるぐると目を回したまま、手足を広けて芝生に寝転がる。

「すごいな^」

役立たずになりかけていた鼓膜が、かろうじてコロンの声を拾う。

「うん、わかる、凄い音だょね……」

「ロマンの音だ!」

「ううん、それはちょつとわからない......」

間の抜けたことを言い合つているなと思う。

少し、そのまま二人で、空を眺める。

何かトラブルでもあったのだろうか、火薬砲の音は止んでいた。

「聞いてくれるか?」

コロンが、ぽつぽつと話し始めたQ

「なに?」

「昨日、ラキシュが起きあがったときにな。あいつは、あたしを見てた。あたし

に対して、こう......怒ってるっていうか、嫌っているっていうか、そういう目を

向けてた。いっしょにいたのに、パニバルのことは、ほとんど見てなかった」

「ぇ……」

「あたし一人をねらつて、攻撃してこょうとしてた」

言葉が出てこない。

「たぶん、あのときのラキシュは、あたしに似た誰かのことを思い出してたん

だQそいつのことが殺したいくらい憎くて、止められなかった。……きっと、あ

たしがいまのラキシュに顔を見せたら、おなじ憎しみをなんどでも思い出させ

る。だから」

コロンの声は、今にも泣きだしそうに聞こぇた。

「フエオド^—ルがラキシュを連れかえってきても、もう、会えない気がしてる」

「……そっか」

自分の手を伸ばし、コロンの小さな手を握る。

温かい、と思った。

「パニバルにもこのことは?」

「ん。昨日、相—した」

「フエオドールには」

「まだ」

「じゃあ、今夜にでも話したほうがいいかも。あいつのことだからどうせ、何か

をどうにかして、一番コロンとラキシュを甘やかす手を見つけてくれるはずだか

ら」

г……そ、だな」

コロンが笑う。

「ティアットが言うんだから、きつとそうだな」

む。なんだかその信頼には釈然としないものがあつたが、いやしかし、コロン

を元気づけるという目的のためには訂正してはいけないような気がするし、それ

でも放置しておいてもいけない類のようにも思えるし、と、

「おおい、ティアット、コロン、そこにいたのか」

遠くから、パニバルの声が聞こえた。

г……なに?」

もつそり、その場に上半身を起こす。

そのままの姿勢で、駆け寄つてくるパニバルを迎える。

「その様子だと、まだ報せは、聞いていないようだね」

「パニバル?」

実に珍しいことに、パニバルが息を切らしていた。

いつもこの娘が浮かべているあの薄い微笑みも、今はどこかに消えてしまって

いる。

「どぅしたの? 何かあったの?」

「リィエルがまたなにかやったのか?」

口々に尋ねるティアットとコロン。

パニバルは息を整えながら、首を横に振ってみせる。

「二人とも、落ち着いて聞いてくれ」

手を伸ばし、二人の肩をしっかりと掘んでから、パニバルはその報せを告げ

「ついさっき、フェォドール•ジェスマン四位武官が、叛逆罪で捕縛された」

3•囚われの叛逆者

知らない場所に立っていた。

目の前に、知らない誰かの背中があった。

軍服を着た、長身の男の後ろ姿。短い黒髪。見える範囲に、種族を示すょぅな

分かりやすい徴はない。わずかに落ちた肩は、ずいぶんと疲れているょぅに見え

た。

『あいつらのことを、幸せにしてやりたかつた』

男がぽつりと、独り言を漏らすQ

『幸せになってもいいんだって、教えてやりたかったんだ』

どこかで聞いたような悩みだと思った。

似たようなことを考えているやつはどこにでもいるんだなと、少し心強く感じ

た。

その上で、少し間の抜けた話だななどと思ったりもした。その『あいつら』と

いう連中がどこの誰なのかは分からないけれど、これだけ強い気持ちを向けられ

ていれば、それはもう、それだけで幸せなことと言っていいんじゃないかなどと

考えたりした。

t

身を震わす寒さに、目を覚ます。

自分がどこにいるのかをすぐには把握できず、辺りを見回した。

狭い部屋だ◦殺風景極まりない、銅板むき出しの壁、床、天井。壁際の床に、

よハ、、/ん お? しつナ

排便用と思しき穴がひとつ◦視線を真下に移せば、湿気でがちがちに固まった薄

いマットが敷かれているのが見える。それら全てを照らし出すのは、壁に埋め込

らいき むらさきいろ

まれた雷気灯の紫色。

bんっ

ここは独居監房か◦そぅ結論する。

これまで入ったことはなかったが、もちろんここにもそぅいぅ場所があるとい

まう じゆナハ

ぅこと自体は知っていた◦共同房に放り込むわけにはいかない理由のある受刑

者、特に思想犯などがプチこまれる牢獄界のプラィべートルーム。

自分がここにいるといぅことは、つまり、どぅいぅことなのか。

「ああ:••:そぅいえば、そぅだっけ」

よ/っやく、色々なことを思い出した。

塩漬け樽に入り込み、『大賢者の遺産』と思しき木箱の中身を見たこと。

一位武官に現場を押さえられたこと。

脱出を図り、失敗し、気絶させられたこと。

そして、それらの記憶が結論する。フェォドール•ジェスマンは、決して失敗

してはいけなかった計画に、完全に失敗してしまったのだ、と。

具体的にどういう罪が適用されるのかは分からない。が、決して軽いものでは

ないだろう。少なくとも、これから先、同じようなことを試みられるチヤンス

は、二度とないはずだ。

心に、ぼっかりと、穴が開いたようだった。

涙が溢れてくる。

自身に向けた嘲笑が、止まらない。

失敗した事実そのものも、確かに大きな衝撃だった。けれどそれょりも激しく

フエオド^—ルを打ちのめしたのは、もつと別のこと。

自分の命をまるごと注ぎ込んできたつもりだった。失敗した時には燃え尽きて

しまうだろうと思っていた◦衰弱死寸前までのたうちまわるだろうとか、頭が

空っぽになってしばらく何も考えられなくなるだろうとか、そのくらいの被害は

覚悟していた。

なのに——いまこの胸を満たしているものは、失意でも絶望でもない。

これは、解放感だ。

「ひっどい話だょな、ほんと……」

ちよっと考えれば、簡単に答えを出せる。

つまり、フェオドール•ジェスマンは大嘘つきだつたということなのだ。

fiま

五年もの間、自分自身を騙していた◦未来のためとか大義のためとか、そんな

強い言葉にしがみつくことに精一杯で、自分の本心に気づかないふりをしてい

た。

大好きな義兄がいたのだ。

強くて、賢くて、そして何より正しい、自慢の義兄だったのだ。

義兄のようになりたくて◦義兄のようには間違えないと心に決めて。大義を抱

えて。未来を夢見て。そのために動いて。戦って。欺いて。心と時間とを費やし

て。そして。

——結局、義兄には遠く及ばないまま、この牢の中で空っぽになっている。

г......А?」

半ば自棄になって思考を空回りさせている最中、ぼんやりと気付いた。

足音を忍ばせて歩くような、かすかな音が近づいてくる。

看守の見回り、ではないだろう。そういう立場のやつが、ここでわざわざ気配

を殺すことに意味はない◦では誰だ◦塩漬け樽ほどではないにせよ、独居監房の

周囲にはそれなりの警備がいるはずだ。その目を盗みながら、この場所まで来る

ようなやつは。

刺客かな、と思う。

考えられる話としては、あれだ。間抜けの口から名前を出されるのを怖れたギ

ギルあたりが、口封じのために送り込んできたのだ。、っん、いかにもありそうな

話だと思える。

なにせ彼は、豚面種の商人なのだ。

商売のために義兄を利用し、使い捨て、殺した連中の同類なのだ。

そんな彼を今さら恨むよぅな気にはまつたくならない。彼と手を組むことを決

めたのも、信頼を築かないことを選んだのも、他ならない自分なのだ。行いの結

果を受け入れる覚悟は、当然できている。

——死にたいわけじゃないけど……少し、疲れたかもな。

ぼんやりそんなことを考えている間にも、足音は通路を近づいてきて、この独

居監房の前まで来て立ち止まり、

「フエオドール、いる?」

曝くよぅに、その名前を呼んだ。

女の声だった。

目を見開き、跳ねるように飛び起きて、扉に鎚りつく。

「ラキシュさんР:」

監視用の小窓は小さすぎて、向こう側の祿子はよく見えない。

「しつ、ちよつと声落として!」

「じゃなくて!逃亡兵の立場なのに、見つかつたらどんなことになるか!」

「大丈夫よ、簡単な変装はしているもの。そうそう簡単に見咎められたりしない

ゎ」

「いや、でも^そもそも、なんでこんなとこに来たんだよ^」

「なによ、その質問。あなたが捕まつたつて聞いたんだもの。放つておけるわけ

がないでしよう?」

開いた口がふさがらない。

「呆れるほどのこと? 立場が逆だつたら、あなたも同じことをしていたと思う

のだけど」

「それは、その、別の話じゃないか。君は女の子で、妖精で、その、僕なんかよ

りよほど大事にされる権利と義務があるわけで!」

「お姫さま扱いしてもらえるのは嬉しいけど、時と場所くらいは選びなさい」

きん、と小さな音と共に、錠が切断される。

開いた扉の向こうには、もちろん、ラキシュの姿がある。

変装というのはどんなものなのかと思っていたが、予想もしていなかった正攻

法だった◦場所に合わせた略式軍服と、あの長い赤毛のゥィッグ。ただそれだけ

でも、シルエットの与える印象はだいぶ変わっている。これならば、遠目でなら

ばだが、彼女がラキシュ•ニクス•セニオリスだと見抜かれる心配はあまりいら

なそうだ。

「......どうやってここまで来たのさ◦僕のいる場所もそこへの入り方も、知る手

段なんてなかったはずなのに」

「まだ質問?ほんと呆れた」

視線の温度を下げつつ、それでもラキシュは答えてくれる。

「場所については、説明しにくいんだけど、なんとなくわかったとしか言いよう

がないかしら。こっちのほうにいるんだ、あとこのくらい離れてるんだ、つて」

「直感ってこと?」

「なのかしら。ちよっと不気味だなとも思ったんだけど、従ってよかった。ちゃ

んとあなたのところにたどり着けたもの」

嬉しそうに、笑む。

本来ならば、とても信じにくい話だ。常識的に考えれば、笑い飛ばすべきなの

だろう。しかしフエオドールには、似たような現象に心当たりがあった。あの雨

の街の中、逃げたラキシュの居場所をなぜか簡単に突き止められた、あの時のこ

と0

もしかしてと思い、より詳しい事情について尋ねようとしたところで、

「……っ!」

気づいた。また誰かが、足音を殺して、近づいてくる。

隠れなければならない、と直感が叫ぶ◦背後の部屋に飛び込むか◦いや、今か

らでは間に合わない。ならばどうする。

頭が何かを判断し終わるよりも早く、体が動いた。ラキシュを強引に抱き寄

せ、その顔を胸板に強く押し付ける。むぐう、という抗議の声が聞こえた気がす

るが黙殺。そのまま壁際に身を寄せて、気配を抑える。

このまま相手が近づいてくるのを待って、不意をついて意識を奪う◦体勢的に

かなり無理のある話だが、なんとか強行しないことには、自分はともかくラキ

シユの身が危ない。覚悟を決めて、右の拳を固めたところで、

「おいおいお二人さん、仲睦まじいのは結構だけどな、時と場所を考えてくれ

ょ」

その声を聞いた。

「......ナックス?」

如己の声を聞いて、緊張が解ける。

むぐうむぐうと、苦し気な声を腕の中から聞く。

牢を出て、空を仰ぐ。

案の定とでもいうべきか、太陽はとうに沈んでいた。

明るい月が、中天に煌々と,輝いている。

その光を避けるように、建物の陰を縫うようにして、歩く。

森の中に入り、ようやく一息つくことができた。

ここは体練場の騒音が兵舎に届かないようにと防音のため茂らせてある場所な

ので、視界も通りにくければ、誰かが分け入つてくる心配もまずしなくて済む。

「ここに入る方法は、この人に教えてもらつたのよ」

先ほどはよほど苦しい思いをしたらしい、どこか不機嫌そうにラキシュは言

う。いちおう解放してすぐに謝罪はしたのだが、どこまで聞き入れてくれている

やら。

「見張りのこない時間とか、見つからない道とか。あとこの制服も用意しても

らつたし」

「ォレはあくまで噂屋であって、現場で動くのは業務外なんだがね」

そっぽをむいて、ぼやくようにナックスが言う。

「そう言いながら、助けてはくれるんだな◦正直意外だった」

「助けたくてやったんじゃねえよ。頼まれたんだからしようがねえだろ」

「頼まれた?」

一度ラキシュの顔を見てから、改めてナックスの顔に向き直る。

「誰に?」

「プロが依頼人のことをそう易々と話すわけがねえだろ?」

「フエオドールが捕まったって話をこの人がギギルさんのところに持ってきて、

その場で私がギギルさんにお願いしたの。助けたいから協力してって◦そした

ら、ギギルさんがこの人を案内人に雇ってくれて」

「もしもしラキシュちやん? いまの俺の台詞、聞こえてた?」

「私は、あなたの言ぅよぅなプロじやないもの。何も問題ないでしよ?」

ひどい屁理屈だよねぇ、とナックスが小声で悲鳴をあげる。

「......ギギルが、僕を?」

「まあ、あの旦那だけじやないんだけどな」

ナックスは指先で頰を搔きながら、

「豚面種ってのは一人一人の命が軽いぶん、仲間意識がやたらと強いんだ。誰か

仲間のために危険に飛び込むのは、わりと日常茶飯事なんだとさ」

「なら、同じ豚面種ですらない足手まといの命なんて、さっさと捨てるべきじや

ないか。軍籍剝奪された僕なんて、あいつにとつちゃ、何の使い道もないはず

で」

「いやそりゃお前、旦那の情の深さナメすぎだろ。一度仲間と決めた相手は何が

あろうと見捨てねぇとか、そういうのマジでやるぞあの巨大豚は」

息が詰まる。

「さてと、俺の先導はこの辺までだ。あとはお前らだけで行け」

ナックスが立ち止まる。

「今の俺は女の部屋にいることになつてるんでな。口裏を合わせとくためにも、

早めに帰らんとまずい。どうにかギギルん店までたどり着ければ、あとはアィツ

がどうとでもしてくれるはずだ」

そのまま、背を向ける。

もしかしたら、これが最後の別れになるかもしれない。そんな考えが、フエオ

ド^ルの脳裏をよぎる。今の_分はもう軍籍を剝奪されているだろうし、これま

でのようにナツクスに情報を頼るようなこともなくなるだろうから。

「ナツクス」

「何だ?」

振り返らずに尋ねてくる。

「これまで、色々とありがとう。感謝してる」

г……よせよ。俺は、_分の仕事をしただけだ」

「それでもだよ」

ナツクスは小さく鼻を鳴らすと、そのまま歩き去った。

ゆっくりと別れを惜しむような状況ではないというのを差し引いても、湿っぽ

いやりとりを嫌う彼の反応はいかにもいつも通りの彼らしい。フエオドールは思

わず口元を小さく緩める。

「男同士で分かり合つてる感じ。いやらしい」

なぜかラキシュが機嫌を悪くしているが、気にしないょうにしておきたい。

「ま、いいわ。私達も急ぎましょう。逃げたことに気付かれるまで、そんなに時

間がかかるとも思えないし」

言つて、ラキシュが歩き出して-すぐに立ち止まる。

「フヱオドール?」

振り返る。フエオドールは、一歩も進めていない。

「どうしたの?」

「——何でも、ない」

なんだろうな、この状況は。

沸き上がってくる当惑を、無表情の後ろに隠す。

もう、フェオドール•ジェスマンは地金を晒したのだ。どうせ何もできない

し、何もするべきではないのだと証明もされたのだ。そのことに、誰も気づいて

いない。だから、この期に及んでまだ、関わろうとする。

これ以上ないほど自分に失望した今、誰かに何かを期待されているというだけ

のことが、ひたすらに辛い。

苦い罪悪感が、抑えきれない。

「先に行っててよ。行く前に、やっておきたいことがある」

「ちよつと」

咎めるように声を荒らげるラキシュを、手のひらで制する。

「僕一人のほうが動きやすい。大丈夫、すぐに後を追いかけるからさ」

4•憧れの先輩

ごはんを食べた。

体練場で汗を流した。

風呂に入った。

陽が沈んでいた◦ちょっと星でも見たくなって、ラキシュを誘——独りで外に

出て、空のよく見えそぅな場所を探した。いまいちいい場所が見つからなかった

ので、そこらにあった背の高い樹によじ登って、梢の上に寝転がった。木登りな

んてずいぶん久しぶりだけれど、体はちゃんと動いてくれた。

——そこまでやって、よぅやく、ティアットの頭が状況に追いついてきた。

フエォドールが叛逆罪で捕まったといぅ報せを、飲み込むことができた。

「なにそれ」

空に向かって、不機嫌も露わに問いかける。

「なにそれ、なにそれ、なにそれ」

わけが分からない。

色々と話して、互いの事情をちょっとずつ知って、少しはあいつのことが分

かってきたかなと思った矢先にこれである◦頭の中にぼんやりと出来上がりつつ

あったフヱォドール像が、牙と鱗と翼を生やして空の彼方へと飛んでいってし

まった気分だ。取り残された自分は、ぽかんと口を開けて空を見上げていること

しかできないわけで。

「なにそれ、なにそれ、なにそれ、なにそれ!」

ぶちぶちぶちと、手近な葉っぱをちぎっては放り、ちぎっては放る。それで気

分が晴れたりはしないものの、とにかく何かをしていないと落ち着かない。

「なんなのょ、もぅ*」

ティアットの手首ほどの太さがあった枝が一本、激情に任せて握り潰されて、

盛大な音をたてつつ地に墜ちる。

たっぷり暴れたことで、少し落ち着いた。

犠牲となった葉や枝に心の中で詫びつつ、樹を降りる。

(……独居監房に放り込まれたとか言ってたっけ)

ティアットは額に指を当てて、護翼軍の軍規を思い出す◦詳しい状況は分から

ないが、おそらく簡単に面会が許されるような状況にはないだろう。最低でも何

日か待たなければ、あいつに直接いろいろ問いただすのは無理なはず。ああもう

腹立たしい。

怒ると喉がかわく。

今後の予定について考える。胸の中のもやもやは鎮まりこそしたもののなく

なつたわけではないし、自分を取り巻く状況が変わつたりしてもいない。

〈十一番目の獣〉は相変わらず空にあるし、バヵフヱオドールは檻の中だし、位

官の管理下になければいけない自分たちの立場は宙ぶらりんだ◦けれどそのどれ

も今すぐどうにかできる類のものではないし、今すぐできることといつたらこれ

はもう悲しくなるほど限られていて、うん、手近などこかに何かを飲みにいこ

他の兵士たちであれば、迷いなく酒に走るところだ。食堂の開いていないこの

時間でも、購買部は使える◦基本的に品ぞろえが悪く、食料品の棚には黴の浮い

た乾パンと石板のような干し肉くらいしか並べられていない場所だが、その隣の

棚の安酒だけは「まぁ飲める」という評価を多くの兵士たちから得ている。

とはいえ、ティアットはアルコールを飲めない。その点については、小さな子

供のころ、興味本位で台所のブランデーをぐびっとやって以来、強く自分を戒め

ている。

(……思い出すだけで頭痛がぶりかえすんだよね……)

やはり、食堂に行こうと思う◦思い出を振り払ってそう決める。食事そのもの

はできなくても、おばちやんに頼み込めば水をもらうことくらいはできるはず。

さてその食堂にたとり着き、おはちや^ —んと奥へと声を力けようとしたとこ

ろで、

「それで、箱の中身は無事なんすね?」

聞き慣れた声を聞いた。

口から「お」が出てこようとしたところで、全身が固まつた。

「ああ。今すぐ飾り付けて祭りに担ぎ出せそうなくらいにピヵピヵだ」

「そりやまた……うん、結構なことつすね」

おそるおそるЩき込んでみる。おばちやんの姿はない。

しんとなつた薄暗い食堂の真ん中へん、十人掛けのテーブルを贅沢に二人だけ

で使つて、見知つた二人が何やら深刻そうな話をしている。

「なんなら、自分の目で確かめてくればいい。今なら立ち入り許可も出せる」

「ん......やめとくっすょ。いまあの顔を見たら、泣きついちゃいそうっすから」

(アィセア先輩、と、総団長の一位武官さん?)

特に理由もなく、身を隠してしまう。

どうやら、ちょうど話が終わるところだったらしい。一位武官は「そうか」と

優しく領いて席を立つ。そのまままっすぐにこちらに向かってきて、

「ぁ」

「む?」

目が合った。

「いぇ、あのその、別にこれは靦いていたとかじゃなくて」

「まったく。彼の愛娘はどいつもこいつも、おてんばで困るな」

ぽんとティアットの肩を軽く叩いて、一位武官の背中は去っていった。

この食堂の水は、ただの井戸水ではない◦汲み置き用の甕に虫除けのハーブを

晒してあるのだが、これがまたいい感じに爽やかな後味を付け加えてくれている

のだ。食べるものの味のほうに期待してはいけないこの食堂だが、この水の風味

に関しては文句のつけようがないくらい素晴らしいとティアットは思う。

ぐび、と、ヵップの中の水を一気に飲み干す。

「悩みを抱えまくってる顔っすねえ」

г……ですよね」

自覚はある。

「なんかこう、いろいろとわからなくなっちゃったんです」

フエオド^—ルが、ハヵをやらかしたと聞いて、色々とわからなくなつている◦あ

いつがなぜ軍に叛逆などしようとしたのか、その理由を知っているから。エルピ

スという許せない悪の話。そして、きっとそれは、自分たちのような者の未来の

ためでもあって。

あいつがどんなに嘘つきの悪人だったとしても、そこの点だけは疑いようもな

い事実なんじやないかと、思えてしまうわけで。

「なんていうか、わたし、どうすればいいんだろうって、ぜんぜん見えなくて」

「ふうん」

アィセアは含みのある表情になると、

「変わったっすね、ティアット」

「何がです?」

「『クトリ先輩だったらきっと』って、言わなくなった」

……ああ、そういえば。

確かに、少し前まで、それが自分の口癖のようなものだったはずなのに。

г言いたい気持ちは、あるんですけどね。ここにいるのがクトリ先輩だったら、

きっと迷ったりしないで、かっこよく全部どうにかしちやって……」

「クトリだったらきっと、今のあんたみたいに、途方に暮れてたっすね」

「......え?一

どこか寂しく、アィセア•マィゼ•ヴァルガリスが笑っている。

五年前、гクトリ先輩」ことクトリ•ノタ•セニオリスの、親友であった娘

、、、〇

「ほんと、そういうところ、そっくりっすよ。あんたとあの子は」

「ぃやぃやぃやぃや」

いくらなんでもそれはないだろう、と^う。

「お言葉は嬉しいですけどさすがにそれは買いかぶりすぎというか、わたしなん

かと一緒にされたら先輩に申し訳なさすぎると言いますか」

「あの子は!」

突然の大きな声に、テイアットの言葉が途中で喉の奥へと引っ込む。

「……あの子はね、普通の女の子だったんすよ◦ただ、ひとよりちよっとだけ責

任感があって、ちよっとだけ真面目で、そして、だいぶ見栄っ張りだっただけ

で」

今度はテイアットの息も止まる。

「それって、どうい、っ……」

「そうっすね。これは、もう、話してしまってもいいっすよね」

アイセアは語り出す。

гクトリはね、そりゃあちょっと切った張ったの才能はあったっすけど、それ以

外はなんてことのない子だった。泣き虫で、弱気で、自分にしかできないことの

重さにいつも押し潰されそぅになってたり、......あとあれだ、初めてのラヴに戸

惑ってバタバタ走り回ったりもしてたっすねぇ」

ぼかん、ティアットの口が丸く開く。

「それでも、その背中に憧れてくれている小さな子がいるからって、いつも胸を

張って、せいいっぱいに強がってた◦あんたたちの前で、格好わるいところは見

せられないからって、そりゃもぅ力いっぱい胸を張って生きていた」

「......、っそ」

「いま、アルミタたちにとって一番の『憧れの先輩』が誰なのか、知ってるっす

か?」

唐突に何を聞くのだろうと思う。

アルミタたち、妖精倉庫の後輩たちの憧れ。そんなの、決まっている。

誰よりも強くて、誰よりも優しくて、最強最高の遺跡兵装にも選ばれた——

「ラキシュじやないんすよ」

確信していた答えを、まっさきに潰された。

「一番一生懸命で、一番格好よくて、一番『いつか自分もあんなふうになりた

い』と思わせるような先輩。ラキシュもいいセン行ってるみたいなんすけど、一

番じやない」

ぱくぱくと、唇だけが動く。声が出ない。

「……ほんと、あんたはクトリによく似たっすよ。自分のことでいっぱいいっぱ

いなくせに周りのことばっか気にするところとか、一度決めたらひとの話を聞か

ないめんどくさいところとか、あと、厄介事のカタマリみたいな男にはまるとこ

ろとか」

待って。それはさすがに待って。言いたいことは色々あるけど、ありすぎて

まったく言葉が出てこないけれど、特に最後のひとつに同意しかねる。

「クトリだったらなんてこと、もう、考えなくていいんすょ。あの子は立派だっ

た。そして、それに負けないくらい、今のあんただって充分に立派だ」

г......あ、っ」

先輩みたいになりたくて。なれなくて。諦めて。

それからとにかくさんざん迷走して、無様なところもいろいろ晒して、いまだ

未練との折り合いがうまくつけられていなくて、もう自分で自分が分からなく

なつてるくらいなのに、なんで、今さらそんなことを言われるのか。

充分に立派だなんて言われたつて、そもそもそのご立派なティアット•シバ•

ィグナレオは、今この状況に何をしたらいいのかすらわからずにいるわけで、

——好きなように探せばいい。たぶん、本来、生きるつてのはそういうことだ

ああもう◦どうしてこんな時に、あいつの言葉なんかが思い出されるんだろ

、っ0

ぎゆつと、拳を握る。

クトリ先輩みたいになれなかつたわたしが、これから、何になるか。

自分はまだ、迷つている。

迷える立場にいる。

選んで、決めることができる。

……あの時、フエオドールが、死の邪魔をしてくれたから◦今まだ、生きてい

るから。

「あ、あの、聞いてくださいアィセア先輩、実はっ——」

言いたいことがたくさんできた。テーブルに身を乗り出し、勢い込んで話を始

めよぅとした瞬間に、耳障りな鐘の音が耳に飛び込んできた。

「——っР:」

大音量の不意打ちが、頭をひっつかんでぐわんぐわんと振り回した。

「連絡鐘?」

評,しげに、アィセアが眩く。

食堂の外から、絶え間なく聞こえてくる鐘の音。そのリズムが、基地全体に知

らされるべき報せを形づくる◦四拍と二拍を繰り返す、この場合のそれは、

「敷地内に危険人物あり、不審人物に警戒せょ……?」

ティアットは頭を抱えた。

間違いない。あいつだ◦少なくともあいつがらみの何かだ。

「ああもぅ、本当の本当の本当に嫌なやつ!」

ゝす ナ

がたん、椅子を蹴るょぅにして立ち上がる。

「話があるんじやなかったんすか?」

「すみません後回しです^急用ができました^」

にへ、と、あの意地の悪いアィセア笑いを見た。

「放っておけないんすね」

「ニュアンスに色々訂正したいところがありますがおおむねその通りです!」

言って、駆けだした。

5•立ちふさがる者

もちろん、当の危険人物にして不審人物であるフェオド^ —ル•ジェスマン当人

にも、その連絡鐘は聞こえていた。

「思ってたょり早く発覚したなぁ」

あと数十分程度の時間は稼げると思っていたのだが、さすがは護翼軍といった

ところか。いろいろと急がないといけなそぅだQ

フェオドール•ジェスマン四位武官……元四位武官の個室である。

家探し班は撤退した後らしく、見張りの類もいない。

いろいろとひっくり返された形跡はある。長年かけてせっせと溜めこんでいた

護翼軍内部資料の類はほとんど見つけられ、持ち出されてしまった。先日入手し

た『小瓶』の隠し場所、床石の下に作っておいた空間も、当然のょぅに空っぽに

なつている。

しかし、それ以外のものはおおむね残されたままだ。

汚れていた軍服を脱ぎ、箪笥から引っ張り出してきた私服に着替える。

ベルトポーチを固定して、辺りに散らばった雑貨を手当たり次第に突っ込む。

分銅つきロープを見て、少し懐かしい思いに囚われる。

引き出しから予備の眼鏡を取り出して、かけて、そして……少し考えて、胸ポ

ケットへとしまいこむ。

「......急ごぅ」

底の厚い、隠密行動に向いた靴に履き替える。改めて荷物を——この部屋に来

る前に機密倉庫から拝借してきたモノを、背中に担ぎ直す。ずつしりと重い。

そして、誰にも見つからないよ/っ気配を抑えながら、部屋を後にする……

「えとる^"?.」

ぎよつとなつた。

見下ろす◦腰よりも低い位置、蒼い髪の小さな子供が、きよとんとした顔でこ

ちらを見上げている。

「リィ......エル......」

「えどる-—、どつかいくの?」

連絡鐘の意味はわからずとも、不穏な空気自体は感じ取れているのだろぅ◦不

安に瞳を揺らしながら、リィエルは尋ねてきた。

「ああ」苦味を嚙み殺しながら答える「そうだね」

「やあ*^ •|__

脚に、しがみついてきた。

「どっかいくの、や*また、いなくなる、や*」

「わがまま言うなって。ほら、もう遅いんだから部屋に戻ってお休み」

「やあ*|__

ぎゅう、と小さな手に力がこもる。不安に震えているのが伝わってくる。

抱きしめてやりたい、と思う。優しい言葉で安心させてやりたいと思う。けれ

ど今の自分に、そんな資格はない。

だから、リィエルの肩だけを掘んで、無理に引きはがした。

г……いつまでも、元気でな」

「えどる-—」泣きべそ半分の顔「いつ、かえってくる?」

無視して、背を向ける。

「えとる^-」

名を呼ぶ声を、黙殺する。

「えとる^"えとる^"えとる^"えとる^"^^•」

何度も、何度も、何度も◦リィエルは諦めることなく、フエォドールの名を呼

ぶ。まるで、それこそがフエォドールの足をこの場に繋ぎとめる鎖の輪なのだ

と、理解しているかのょぅに。

けれど、屈するわけにはいかない。自分はここを去らないといけない。全身の

力を込めて、床から足を引きはがす。が、

「......おと-—さん*」

予想外の言葉を聞いて、その足も、それ以上動かなくなった。

「おま、え……」

フエォドールは知っている。この妖精といぅ生き物が、どれだけ家族を大切に

しているのかを。父も母も持たずに自然に発生するいびつな生命、だからこそ

か、彼女たちは本物の姉妹以上に姉妹らしく、本物の家族以上に互いに対して愛

情を注いでいる。

そんな妖精の子供に父と呼ばれることの意味を、フエォドールは理解してい

る。

その言葉に込められた愛情の重さに、気付いている。

まったく。いったい誰だ、こんな言葉をこの子に教えたのは。

落ちそうになった膝を、気合で支える。そして、逃げるようにして走り出す。

「おと^~~さん^」

リィエルから。そして、受け入れるわけにはいかないその言葉から。

必死になって、逃げる。

»т

脱出それ自体は、そう難しくなかった。

多少厳重な警戒網が敷かれようが、ここはフェォドールにとって、住み慣れた

庭も同然の場所である。警備の穴も脱出の手段も、いくらでも見つけられた。

障害は、そのずっと後◦表通りを迂回しながらラィエル市内へ向かう道の上

で、フエォドールを待ち受けていた。

その障害は、身の丈ほどもある長大な剣を携えた、少女の姿をしていた。

「なんでこんなところにいるんだょ」

身を隠しながらの行軍、しかも重い荷物を背負ってのものとなると、それなり

に疲れる。軽く乱れた息の下から、フエォドールは尋ねた。

「きみについて、いろいろと聞いたから」

ティアットヵ答えた。

「その格好は?」

ティアットの装備は、遺跡兵装ひとつではなかった。武骨で大仰な金属鎧の

パーツが四つ、少女の両手と両足を覆っている。白銀に鈍く輝くそれは、どぅ見

ても彼女ょりも一回り以上大きな体格を持つ者のためのものだ。

少なくとも、〈獣〉相手の戦闘で役立つものではないだろう◦それと戦うため

だけに運用される黄金妖精にふさわしいものとは、とても思えない。

「きみ対策」

あっけらかんと、ティアットは答えた。

「前にきみとやりあったときに思ったんだ◦対人戦闘での黄金妖精の最大の弱点

は、体格に劣ることと、体重がないこと。腕力とかリーチとかと違って、このふ

たつだけは、魔力でも武器でも補えない。だから、こ、っいう手で重さを増やして

みた」

「僕一人のために?」

「そ。きみ一人のために」

そいつはまったく光栄なことだ。

「レちおぅ聞くけとそこをどVてくれなレヵなテイアット」

問いながら、前に進む。

テイアットとの距離が、縮まっていく。

「やだ」

「連絡鐘は聞こえてるだろ? 上官としての命令だ、テイアット•シバ•イグナ

レオ上等相当兵、敷地内の警戒に戻れ」

「それもやだ」

テイアットは剣を構えた。

切つ先はまつすぐに、フエオドールに向けられている。

いつかの夜にも、そぅしていたよぅに。

「きみのこと、いろいろ聞いた。いろいろわかつた。わたしと、同じだつたん

だって」

何の話だろうと思う。

「ドラマチックな自殺の言い訳に、お義兄さんを使ってた」

——ああ、なんだ。その話か。

出所は、一位武官だろうか。まったく、なんてことをなんてやつに話すんだ。

「否定はしないょ」

フェオ^_丨ルは肩をすくめた。

「情けない話だけど、僕も、そのことに気付いたばかりなんだ◦一度失敗して、

やっと自分自身のことを理解できた」

フェオドール•ジェスマンは、浮遊大陸群を変えたかったわけでも、滅ぼした

かったわけでもない◦変えたり滅ぼしたりという遠大な目標に向かって、命懸け

で挑みたかっただけだったのだ、と。

「じゃあ、今はもう、なにもかも諦めた?」

「そうだな。僕には義兄さんみたいにできないし、ましてそれ以上にうまくやる

なんて無茶もいいところみたいだ。半分くらいは諦めたょ——でも」

フエォドールは、背負っていた荷物の、柄に手をかけた。

重量につんのめりそうになりながら、それを包む布を取り払う。

「残りの半分は、どうやら、まだ捨てられそうにない」

それは、大剣だった。

何十もの金属片を不可思議な力で組み合わせて形づくられる、古代種族

「人間」の遺産。決して強力な生物ではなかった彼らが、はるかに強大な外敵

に抗するために組み上げた奇蹟の結晶。

遺跡兵装、セニォリス。

巨大な金属の塊は、当たり前だが、重い◦ふざけているのかと言いたくなるよ

うな重量のそれを、なんとかかんとか、構えてみせる。

「やめたほうがいいよ」

ティアットは驚いた様子もなく、淡々と言う。

「遺跡兵装は、人間種が人間種のために作りだした武器◦だから当然、人間種

にしか使えない。かけ離れた種族のひとが触ったら、それだけでやけどすること

もあるつて」

「……鬼種に生んでくれた両親に感謝だ。とりあえず僕の手は、今のところ無事

だよ」

額に汗など流しつつ、強がってみせた。

実際には、手のひらにちりちりと、針でつつかれているような痛みが絶え間な

く走り続けている。人間ならぬモノに対する遺跡兵装の拒絶反応、今のところ致

命的なものではないが、どうにもこうにもうつとうしい。

「だとしても、セニオリスの力は絶対に引き出せない。それは、本当に特別な経

歴の持ち主にしか力を貸してくれない子なんだから」

「みたいだね。まぁ、鉄の塊として使えれば、丸腰よりはましだよ」

フエオドールは、自分が何かに選ばれるほど大層な存在だとは思っていない。

選ばれし者のみに振るえる力とか、そういった輝かしそうなものにも縁がないと

思っている。

、一こ г f

しかし、そんな誰にも何にも選ばれていない木っ端のような自分にでも、どう

しても譲れないことくらいはあるのだ。

「意地っ張りだね、フエオドール」

優しく微笑む。

「、っん、わたし、きみのそういうところ大っ嫌いだ」

愛おしげに、そんなことを言う。

「君はあれだ、ずいぶんと余裕を見せてくれるじやないか。僕だって、君のそう

いうところ、大つ嫌いだょ」

「、っん、知ってる」

なぜに嬉しそうな顔をして、そんなことを言うのか。どうにもさつきから、話

が嚙み合っていないょうな気がする。

「やっと、わかった気がするんだ。きみが望んでいる世界のこと◦きみがどれく

らい優しいひとなのかってこと◦その優しさが歪んじやつて、どれだけ苦しい思

いをしてるのかってこと◦その苦しさから逃げられないくらい、きみが意地っ張

りだつてことも」

剣の切っ先を、わずかに下げる。

立ちの姿勢は、そのままに。

「だからね、フエオドール。わたし、やつと決めたょ」

ゆっくりと、息を吸って、吐いて。

笑みを抑え、固く表情を引き締めて。

そして、静かに宣言する。

「-きみの、邪魔をしてやる」

その言葉を聞き終えるょりも早く、フエオド^~ルは踏み込んだ。

呼吸の隙を盗んで、距離を詰める。

以前にティアットと一戦交えた際に、彼女の速度と膂力が比較にならないレべ

ルでこちらを上回っていたことは知っている。数少ない勝機は、まさに少女自身

が言及していたような、体格や体重の差にあった。前回も一度は成功していたよ

うに、体勢を崩し押さえつけることさえできれば、無力化も可能なはずだった。

(本当に邪魔だな、この篭手Р:)

フエオドール対策というだけのことはある◦装備によって水増しされた少女の

重量は、多少の突き押しでは動じないレベルに到達している◦もちろん手足を打

つことによるダメージはシャットアウトされてしまうし、組み技に持ち込むのも

難しい。それらの代償として、本来ならば重さで動きが鈍るはずだった……が、

魔力に支えられたティアットの筋力はそれすら無視してのける。

その一方、貧弱な腕力しか持ち合わせのないフェオドールは、手の中の鉄塊を

思うように振り回すこともできない始末。

使えそうな攻め手は、笑えるほど少ない。

(できることをする^)

単純な腕力の比較ではとうてい敵わない◦だからこそ、力で攻める。

ヴエネノム ぞ/っふく そ

魔力による力の増幅は強力だが、それはあくまでも、当人の意志に添ってのも

のであるはずだ。不意を衝いたタィミング、死角から打ち込まれた打撃に対して

ならば、まともに対応しきれない可能性がある。願望にも近いその読みに鎚る。

左上段からの振り下ろしを見せ技に、彼女から見て篭手の陰になる場所、左脇

腹の下から貫き手を放つ◦狙いは横隔膜。うまく決まれば呼吸を止め、多少なり

と動きを鈍らせることができるだろう。

Г……っ、のぉ!」

読まれていた、わけではないのだろぅ。テイアットの貌に一瞬よぎった驚愕を

確かに見たし、彼女の剣、イグナレオの動きもまた最善のものではなかった◦し

かしそれでも、彼女は反応をしてみせた。セニオリスを難なく打ち払いながらも

身をひねる。フヱオドールの指は狙いを外し、脇腹を浅く舐める。

「やらしい!」

「誤解だ!」

かた

わめきながらも体を半回転させ、肩をテイアットの脇下に押し当てる。足を

と から か

テイアットの踵に絡めつつ、そのまま全力をかけ、体勢を崩すことを図る。が、

「ふんがっ!」

雄々しい気合を一閃◦ぶわさ、とその背に溢れ広がった幻翼が、崩れかけてい

た少女の体勢を強引に立て直す。

「なんだょその使い方Р:」

「正面からの力比べなら、タルマリートさんに思いっきり稽古つけてもらった

し!」

「そりゃまた贅沢な修行環境だねえほんとР:」

タルマリート上等兵は猫徴族の老兵だ◦獣人にあっても稀なほど見事な体格

と、それに見合った冗談じみた腕力と、それらを活かした独特の体術の達人だ。

気難しく、いつも不機嫌そうに顔をしかめていて、誰とも親しくつきあおうとし

ない、そういう厄介な人物だった。

似たょうな強さを持つポートリック上等兵と仲が悪いことと、その二人がそ

ろつてコロンのことを気に入つているということは知つていた。けれど、いつそ

こにテイアットの名前が増えていたのかは、知らなかった。

「くっ……」

使えそうな攻め手が、半分くらいなくなった。

いつかの対峙の時には、テイアットはこのフエオドールのことを見ていなかっ

た。広がりつつあった〈十一番目の獣〉と、追いかけ続けてきた偉大なる先輩の

幻影しか見えていなかった◦だからだろう、あの時にはなんだかんだ言って、自

分はそれなりの善戦ができていたように思う。

けれど今のテイアットには。

真正面からこのフエオド^~ルのことを見ている、この少女には。そういう、分

かりやすい隙は、残されていない。

「強いな、君は!」

剣をぶつける。

「でしよ!」

剣をぶつけ返される。

「この力、どうにかして平和利用したほうが絶対にいいって!」

「お気遣いどうも、でも将来設計は固めちゃってるもので!」

嚙み合う刃と刃はそのままに、大振りの右腿が腰を狙ってくる。

腰の入らない姿勢からの攻撃。本来ならば無視してもよさそうな軽い一撃を、

熾きた魔力と脚甲の重量とが、必殺のハンマーに変えている。慌てて身を引いて

辛うじて回避、つま先をひっかけられた上着の裾の部分があっさりと破けた。

冷や汗が、飛び散る。

「若いうちにそういうの決め打ちしても、ろくなことにならないもんだよ! 僕

が言うんだから間違いない!」

「情けないこと、偉そうに言うんじやない!きみだって、まだ若いでしょう

、ミ -

力!」

「社会的には、もう寿命尽きちゃったけどな!」

「なぁに、それで不幸自慢してるつもり!?: わたしたち相手に!?:」

「君らはまだ、取り返しがつくだろ!むしろ取り返せよ!」

「きみだって、まだ生きてるし、死ななきやいけない理由もないじやない!

だったらちやんと生きなさいよ!」

もう、お互いに、何を言っているやら。

全神経、全集中力を費やしていないと、ティアットの攻撃は捌ききれない◦お

かげで、本来なら喉にかけておくべき鍵が、みっともないレベルで大開放中だ。

丨 はら

ティアットは、おそらくフエオド^"ルを傷つけないために細心の注意を払って

いる。圧倒的な戦力差があるにも拘わらず、斬撃や打撃で勝負を決めにこないの

はそのせいだ◦おそらくは、ギリギリで防御可能な攻撃を繰り返すことで、フエ

オドールの体力が尽きるのを待って……あるいは誘っている。

そのことに気づいていても、フエオドールには対抗策がない。少女の狙いの通

りに、全力で剣を振るい全力で剣を避けて、自分の残り時間を削り続けるしかな

V

「っの、分からず屋!」

「どっちがよ!」

あるいは、最初の奇襲が失敗した時点で、もう勝機などというものは残されて

いなかったのだろう。しかしそれでも、何もせずに白旗を揚げるようなことはで

きない。ティアットが限界を待つ戦い方をするというのなら、自分はその限界に

至る前に別の勝機をつかみ取ってみせるまでだ。可能か不可能かはこの際どうで

もいい。まだ出来ることがあるうちは何が何でも諦めてなんてやるものかと——

ぐらり、視界が傾いだ。

昨日から何度か体験している、あの感覚だ。

見たこともない光景が、急に記憶の底から蘇ってくる。山ほどもあるでっかい

トヵゲが、ぴかぴかと光る巨大な爪を振り上げている。振り下ろされれば確実に

命を奪われるし、死体がまともに原形を残しもしないだろうと確信できる、絶望

的な光景。

なんだこれ。

疑問と当惑が、張りつめていた集中力をどうしようもないほど破壊する。靴底

が地面を嚙み損なう、一瞬の浮遊感、反射的に全身の力が抜ける、

(ぁ、)

(ぇ、)

ィグナレオヵ振り下ろされようとしている。

見え見えの大振りだ。速度も破壊力も尋常ではないが、辛うじて避けることだ

けならそう難しくない、そのはずの一撃だった◦しかし、それはあくまでも、

フエォドールがそれまで通りの動きを続けての延長上の話。崩れた体勢と散逸し

たばかりの集中力では、とてもそんなことは叶わない。加えて言うならば、今さ

らティアット本人にも、その剣を引き戻すようなことはできない。

当たれば、死ぬ。

視界すらもが真っ白に染まり、

眩暈、

全身を、何かに乗っ取られた。

ありえない姿勢から、足の裏が大地を嚙んだ。身を捩り、慣性と遠心力を無理

やり生み出した。伸ばした右の手のひらが、ィグナレオの刀身に横から触れた。

体を動かしていたあらゆる力の方向を歪め、束ね、手のひらから解き放つ。

爆発した——としか思えない強烈な衝撃が、フエオドールを吹き飛ばした。

二度ほど土の上で弾み、生えていた草花を削り飛ばしてから、立木のひとつに

背中から激突する◦肺の空気が全部叩きだされ、それから一瞬遅れて全身の痛覚

が蘇る。

「がIぐI」

何が、起きた。

無我夢中だった、死を目前にして馬鹿力が出せた……というような類の言葉だ

けでは、今起きたことの説明はできない。

今のは単純な力ではなく、たぶん、拳技か体術の類だ。ポートリックやタルマ

リートが遣うようなものとも質が違う。おそらくは、あまり体格に恵まれていな

い種族が、自分たちの身体に最もふさわしい動きを追求した果てに編みあげられ

たもの。想像を絶する修練の果てにしか体得できない奥義とかそういう類のやつ

そしてもちろん、フエオドールには、そんな修行とやらを積み重ねてきた記憶

はない。その証拠というわけではないが、未熟な体で絶技を行った反動で、全身

がとにかくくまなく痛い。まるで、筋肉という筋肉が残らず燃ぇ上がっているょ

うな。

「ぇ……」

状況がわからないのは、ティアットも同様であったらしい。空っぽになった自

分の手のひらと、吹き飛ばされたフエオドールと、逆方向に飛んでいったィグナ

レオとを、丸い目で順番に見ている。

「今のって、まさか……でも、そんなはずが……」

放心したょうに何かをぶつぶつ言っていたが、ややあってから我に返る。

ィグナレオを拾いに行って、戻ってきて、フエオド^ —ルのすぐ傍までやってき

「よくわからないけど、勝負あり、よね」

心配そうにかがみ込んで、こっちの貌をЩき込んできた。まったく、切っ先を

突きつけてでもくれれば、それなりに格好もついただろうに。

「……まだ、僕は、諦めてない」

全身に力が入らない。身動きがとれない。意地を張ろうにも、体がついてこな

V

「無理しないで。たぶん、きみ、見えないところで大ヶガしてる」

「とんだ誤解だな。僕は元気だ。今すぐ基地外周十周耐久だって走り切ってみせ

るさ」

「なんか、強がりにもキレがない。本格的に重傷だよこれ」

……困った。本格的に、嘘が通じていない。

「連れてくよ」

テイアットの指先が、フエオドールの肩に触れる。

痛みが全身を走り抜ける。堪えようもなく、顔が歪む◦テイアットが指をひっ

こめる。

「......いやらしいな」

悲鳴を嚙み殺し、代わりにそうぼやいてみせた。

「バヵ言ってないで。ほら、力抜いて——」

「そこまでよ」

二人の意識の死角から、突然、声が割り込んできた。

弾かれたように、テイアットが振り返った。

首が動かなかったので、フエオドールは瞳だけでそちらを見た。

「遅かったから様子を見に来たのだけど、間に合ってょかったわ」

あの赤いウィッグは、どこへ落としてきたやら。

オレンジの髪を月の光に晒し、女性兵用略式軍服の裾を風に揺らしながら、ラ

キシュ•ニクス•セニオリスがそこに立つていた。

「退きなさい、妖精兵。その人を譲るわけにはいかないの」

6•今、その隣に立つ者

ラキシュの手の中には、いつの間にか剣が——かろぅじて剣の形をした武器が

握られていた◦それは何十かの金属片の集合体であり、それらの隙間からあふれ

出す色の無い光であり、それらの内側に封じ込まれた強大な力の結晶でもあっ

遺跡兵装、セニオリス。いつの間にやらフエオドールの手から放り出されてい

たそれを手に、少女は駆けた。

1W!。 、

ティアットとて、ただ呆然としていたわけではない。急ぎ魔力を熾し直し、励

起したィグナレオでその一撃を受けきる◦光とともに、耳障りな金属音が夜空に

弾ける。

「ラキ......シュなの......?」

呆然と、ティアットは眩く。

「ああ、やっぱり知り合いなのね」

対するラキシュは、平然としたものだ。

гごめんなさい。私は貴女のこと、覚えてないの」

「でも……そんな」

гごめんなさい」

もう一度謝罪を口にして、橙色の少女は、セニオリスの刀身を翻す。

ティアットとて、一方的にやられ続けていたわけではない。たたみかけていた

幻翼を大きく開くと大きく跳躍、高度の有利で剣戟を凌ごうと試みる◦その選択

は少なくとも悪手ではなかったようで、彼女は確かに善戦できた◦剣閃の五回を

ィグナレオで弾き、三回を身をよじりかわして見せた。

それが限界だった。

空高く弾き上げられたィグナレオが、くるくると回りながら、夜空に小さく弧

を術く。

とさ、と軽い音を立てて、ティアットがその場に倒れ伏す。

「まさか......」

痛む喉に、ごくりと唾を送り込む。

「……殺したの?」

「まさか。体内の魔力を乱して、気絶させただけ」

ラキシュは肩をすくめてみせる。

「殺したりなんて、するわけない。あなたの恋人なんでしょ?」

「ぃやぃやぃやぃや」

/っつかり腕を動かそぅとして、激痛に悶える。

「さつきの会話、少ししか聞こえなかつたけれど、心の底から思い合つてるみた

いだつたじやない?」

「心の底から嫌い合ってるんだよ!」

痛みを受け入れながら、全力で否定する。たぶんティアットに意識があった

ら、全力で同意してくれたと思う。

「難しい関係ね……もしかしてあなた、そういう趣味なの?」

「その疑問の意味が分からないよ!」

ティアットの寝顔を見る。

この子はいつでも、まっすぐだと思う。

先輩みたいになりたい。そんな憧れのために命を棄てようとするなんて、並の

やつにできることじゃない。できるのは、よほど一途で純粋で単純でバカなやつ

だけだ。

(……つまり僕は、こいつのことを羨んでるんだ)

悔しいけれど、認める。

(ヴィレムとかクトリとか……自分を置いていなくなつてしまつた人たちのこと

を、それでもずっと大好きでいられてる。そんな、こいつの気持ちの強さが羨ま

しいんだ。僕には、たぶん、できなかったことだから)

認めてしまえば、ずいぶんと心が軽くなる。

義兄のことが大好きだった。その正しさを信じていたかった◦その死を世界が

受け入れたことを許せなかった。その死を受け入れるょうな世界を正したかっ

た。

もし自分にティアットほどの素直さがあれば、そんな歪んだ結論には行かな

かったのだろう。義兄は正しかったのだという確信だけを抱いて、誰かを恨んだ

り傷つけたりもすることなく、どこかでまつすぐに生きていたことだろう。そし

て多分、あまり想像したくもないけれど、それはそれで幸せな人生だったのだろ

、っ0

けれど、フェオドールは歪んでいた。

歪んでいたから、世界に牙を剝いた。

(......邪魔をしてやる、か)

つい先ほど聞いたばかりの、ティアットの宣戦布告を思い返す。あれは一体、

どういう意味だったのだろう。既に取り返しのつかない失敗をやらかしたこの

フェオドールに、今さら何ができると思っていたのだろう。

……いや、それはたぶん、あれだ。

彼女は信じていたのだろう。堕ちるところまで堕ちたフェオドール•ジェスマ

ンは、それでも何かを企むことを諦めないだろうと。そしてそれは、黄金妖精た

ちの覚悟と戦いを踏みにじり、押し売りの救済に繋がるものなのだろうと。

「......ひとを見る目がないよな、どいつもこいつも」

「え?」

「何でもないよ、独り言だ」

そう返して、足に力を入れる。めちやくちや痛い。けれど、全く動かせないと

いうほどではない。ゆっくりであれば、立ち上がることもできそうだ。

「行きましよう」

ラキシュが、手を差し出してくる。

「最後にあなたが誰を選ぶのかは知らないけれど、いまあなたの隣にいるのは私

よ。手を取り合うくらいは、許してもらえるわよね?」

握った手から伝わる温かさに、確かな愛情を感じた。

それは、フェォドールが自身の瞳で少女の中に刻み込んだ、贋物の愛情だ◦正

しさを掲げて戦う者には決して許されない所業◦フヱォドールの戦いが抱えた、

歪みの証。

逃げてはいけない、と思う。

ティアットが、邪魔をしてやると言つたのだ。だから自分は、彼女に邪魔をさ

れるような悪行を、重ねていかなければならない。彼女の決意を間違いにしない

ために。彼女の望みを現実にしないために。

あの少女たちの犠牲の上にあるこの世界を、一度、終わらせるために。

きつとそれだけは、誰からの借り物でもない、フェオドール•ジェスマン自身

の戦いであるはずだから。

「ああ、行こう」

ティアットを手近な樹の下へと運び、上着をかけてやって。

特に意味もなく、月を見上げて。

それから、堕鬼種の少年は、改めて宣言する。

「僕の戦いを……続けよぅ」

Шの中。

水たまりを蹴立てて、外套姿の小柄な人影が、路地裏を駆けている。

疲労と焦りが、その足取りを乱している。

水気を湛えた足元が滑る◦バランスをとり直せない。人影は盛大に転倒し、汚

れた路面を滑り転がると、ゴミ捨て場へと激突する。びしょびしょになつた古雑

誌が飛び散り、錡びた空き缶が宙を舞ぅ。

足音が、近づいてくる。

すばや せま

人影は、ゴミの山の中から身を起こす◦素早く左右を見回してから、狭い路地

へと飛び込んで行こうとして-足首の痛みにうずくまる。これ以上は、走れな

、о

V

そば

すぐ傍に、古びたゴミ箱が倒れている◦迷わず、その中に潜り込む。決して大

きなものではないが、無理やりにでも体を押し込む。蓋を閉める。

暗闇に包まれ、気配を殺す。

ゅっくりと、確実に、足音が近づいてくる。

震える自分の体を、ぎゅっと抱きしめる。

足音が、止まった。

心臓も、止まりそうになった。

足音は立ち去らない。何かを探るように、この場に留まっている。

全身の震えが止まらない。両手で押さえようにも、その手のほうがもっと激し

く震えている。がたがたというかすかな音が、雷鳴のように耳朶を打つ。

足音が、再び動き出した。

近づいてきた。

すぐ傍で、立ち止まった。

ああ——やっぱり、だめだった。諦めとともに、人影は外套の下から小ぶりの

ナィフを取り出した。逃げられないならば、戦うまで。どれだけ絶望的な状況に

あっても、諦めるわけにはいかない。どうせろくな結末にたどり着けないだろう

ということは最初から覚悟していたのだ。ならばせめて、最後まで立ち向かって

いる自分でいたい。

がたんという大きな音。

ゴミ箱の蓋に手がかかり、開いていく◦閉ざされていた暗闇が、外の光に切り

拓かれていく。ナィフの柄を握る手に力がこもる。

「やっぱり、リッタちゃん!一

......io

予想外で予定外の声を聞いて、人影の——少女の全身が固まった。

ゴミ箱の外に見えているのは、優しそうな女性の、喜びの笑顔だった。

ぼかん、となつた。

その愛称で呼ばれたのは、とても久しぶりのことだと思う。

少女の正確な本名は「マルグリット」で、通常その愛称としては「マルゴ」の

ほうが一般的だ。「リッタ」というのは、確か、4番浮遊島だったかの文化に

添った場合のもの◦もちろん、4番以外の浮遊島で一般的に使われるものではな

V

だから、少女のことをリッタと呼んでいたのは、記憶にある限りで、ただ一人

「......ーアぃノ ............?.」

マルゴ•メディシスは、ぽつり、その女の名を呼ぶ。

「よかった、覚えててくれた」

女の手がゴミ箱の中に差し込まれ、まるで捨て猫を抱き上げるように、マルゴ

の体を引っ張り出した。紙くずや糸くずが、ばらばらと辺りに散らばる。

「生きてたって聞いて、ずっと探してたのよ」

「そんな......うそ、です......一

自分は、独りだと信じていた。エルビス集商国の終焉、あの地獄のような光景

の中で、繋がりのある何もかもを失ってしまったと思っていた。

互いの名を知る誰かに会える日が来るなんてこと、考えもしていなかった。

「やっぱり、怖い思いをしたのね。迎えに来るのが遅くなって、ごめんなさい」

優しいその声が、堰を壊す。

これまで耐えていたものが、一気に噴き出してきた。

「オデ......オデットしや......ワタ......ワタシ、はあ......」

「もう、大丈っ夫だから」

自分がゴミまみれであることとか、足に怪我をしていることとか、そういつた

何もかもが頭から消し飛んでいた。

五年をかけて積もりに積もった感情は、もうガチガチに固まり切っていて、ど

んな言葉に溶かして外に出すこともできなかった。だからマルゴは、ただ女に抱

きついて、涙だか鼻汁だかよだれだかわからないものをまき散らしながら、泣い

て、泣いて、泣きまくった。

その女の名は、オデット•グンダカールという。

もっともこれは、結婚した時に姓を変えた後のものだ◦生まれた家は、旧エル

ビス集商国にあった名家のひとつ、ジェスマン家。

マルゴにとっては、許嫁であったフェオドール•ジェスマンの実の姉。つま

り、義姉になるはずだった相手ということになる。

泣いて、泣いて、泣き疲れて、そしてょうやく激情が収まった。

「むかし、オデットさんのこと、怖かった、です」

手を結び、二人で路地裏を歩きながら、ぼつりぽつりとマルゴは語る。

「そうなの?」

「はい。なに考えてるのか、わからなかったから。でも、誤解だったでした。

ちゃんと話したら、こんなに優しかつたんですね。それに、」

顔を上げて、まっすぐにオデットの横顔を見据えて、

「生きていてくれたこと、とてもうれしいです。ありがとうございま、す」

「……どういたしまして」

気恥ずかしいとでも言うのか、当のオデットは明後日の方向を向いたまま、目

を合わせようとしない。

「あ◦もしかしてこれって、あれですか。堕鬼種が使えるっていう、誰とでも仲

良くなれるっていう、瞳のちからとかなんですか」

「あ.......ううん、それはありえないかな」

「ですよね、、っん、すみません変なこと聞いて」

「ん。リッタちゃんには必要ないとかだけじゃなくてね、あの力、そもそも使う

のが大変だし、使えたなら使えたで、すごくリスクが大きいの。かけた相手はで

きるだけ早く殺さないと、こつちの命に関わるし」

「はい? ころ......す、ですか?」

「あ一いやいや、ごめんなさい、今のは忘れて。何を話してるのかしらね、私」

ぱたぱたと手を振つて、

「それより、ねえ、リッタちやん」

「はぃ」

「もしもね◦もしもの話だけどね」

「はぃ」

「私だけじやなくて、フエオドールも生きてたとしたら......会いたい?」

マルゴは足を止めた。

オデットもまた、足を止めた。

「ダメ、です」

たっぷり一分以上をかけて考えてから、マルゴは、きっぱりと答えた。

「いっぱい、悪いことしました。もう、フエオドールに会う資格、ないです。

会ったら嫌われちゃうます。嫌われるの、何よりも嫌です」

「そっか」

オデットは頷き、それ以上、何も言わなかった。

その夜、オデットが借りているホテルの一室。

これまでの五年の間、ずっと気の休まる時などなかったのだろう◦信頼できる

人が傍にいる、ただそれだけのことに安心しきって、マルゴは死んだように深く

眠っている。

オデットの指が、その白い頰を優しく撫でる。

「私が優しい、か」

嘲笑ぅょぅに、小さくく唇を歪める。

ばか ぅそ おこ

「ほんと、馬鹿な子ね◦嘘つき鬼の憂しさが、ホンモノなわけないじやない」

あとがき/の名を借りたс Мコ^~ナ^~

暑いのか寒いのかどつちかにしてほしい。なんかそんなタィミングにあとがき

書いてることやたら多い気がします。ちょっびり風邪気味な枯野です。

嘘つきだけど素直な少年と、正直者だけど素直じゃない少女◦終わりかけた世

界の片隅で出会った二人は、相手の未来を拓くため、自分の現在を費やす決意を

固める—そんな感じでお送りしております、『終末なにしてますか?もぅ一

度だけ、会えますか?』(長いので以下『終末も(略)』と記述)第3のエピ

ソ^~ドをお届けします。

あとがきから先に読まれているといぅ方のため久しぶりに最悪のネタバレを

やつておきますと、今回、フエォドール君がセニォリスを振り回して強敵と戦い

ます。ゥソはついてない。ていうかあんまりネタにもなつてない。

さて、いきなりですが恒例の前作宣伝。タィトルを書くだけで文庫本の一行近

くが埋まることで有名な前シリーズ、『終末なにしてますか? 忙しいですか?

救ってもらっていいですか?』(長いので以下『終末な(略)』と記述)全五

巻、好評発売中です。

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